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ルーマン「生活世界:現象学者たちとの対話のために」
青山治城訳、『情況』

Archive fur Rechts- und Sozial philosophie, LXXII/Heft 2, 1986, Franz Steiner Verlag, Wiesbaden GmbH.
上記青山訳をもとに、いくつか字句の修正および挿入を行った。ただし[]内は訳者による挿入(20011205|酒井泰斗)

III. 生活世界の構成


 このような状況のなかで出口を見い出すためには、現象の世界をその思考的変様に耐える本質的な相において記述するという方法(14)はやめて、オペレーショナルな接近法を求めなければならない(15)。 オペレーション は すべて ある区別distinction によって始められる。あるオペレーションは、それ自体が一つの区別なのであり、区別なしには始まらない。あらゆるオペレーションは、それが接続しうる区別をいつも事実としてあらかじめ前提している。したがって、それをこの概念の核心とするのではないにしても、「いつもすでに与えられている」ことを強調するような生活世界の定式が好まれることも理解できる。{この定式が示すように}生活世界がいつもすでに与えられていることによって 人は事柄に適した行動をすることができるのであるが、しかしそれによって同時に、生活世界においてのみ・生活世界内の現象についてのみ 有意味な問い──即ち 生活世界の構成 という問題──は排除されてしまう。 こうしたディレンマから抜け出す道はあるのだろうか。生活世界の内部にいながらあたかもその外部にいるかのように──空虚な空間のなかで生活世界がすでに生じているところから出発することができると考えることができるような──、十分に誤った、全く抽象的な理論が存在しうるのであろうか? われわれは十分に誤ったという点を意図的に強調したい。なぜなら、われわれにとって問題なのは、まさに誤った前提から正しい認識が生じるというパラドックスの解消にあるからである。そしてこれこそが、[現象学のように]主観に立ち戻って再確認することを省略する手がかりとなる。

 ここで求める理論をわれわれはジョージ・スペンサー・ブラウンの論理学のうちに見ることができる(16)。この論理学は「マークのない空間」から始まる。その後われわれは、一つの境界線を引けという指令をうける。われわれは一つの区別によって空間に印をつける。しかし、それは、区別されたいずれの側がその後のオペレーションにとって出発点となり、どちらが接続点となるかを指示することができる限りにおいてのみ意味をもつ。 それゆえ、区別することは同時に──ある区別に基づいてのみ意味をもち・別の区別の枠内では別の意味をもつような── 一つの指示indication をも同時に要求する。区別 および 指示 は、基本的に同一のオペレーションの二つの契機にすぎない。したがって、スペンサー・ブラウンが彼の算法を構成するために必要とする唯一の演算記号はである。

 スペンサー・ブラウン以上にここで明確に確認されなければならないことは、区別というものが基本的に非対称だということである。例えば 快/苦、システム/環境、真/偽、善/悪 といった区別も、その優位関係の落差をはぎとり、再び対称的なものとするためには、かなり知的な努力が必要である(17)。 いずれにせよ、さしあたり選ばれた指示は、二つの方向に同時に進むことはできない。だが、この非対称性は、横断crossing の可能性が開かれることによって埋め合わせられる。そうでないと、区別が区別でなくなつてしまうからである。まだ指示されていないものを次のオペレーションによって指示する可能性は、区別と指示との統一のうちに含まれ、必要に応じて用いられる。

 しかし、指示は繰り返されることもありうる。このことは、純論理的にみれば、何等新しいものをもたらさない。どんなに繰り返されても、それはつねに同一の指示でしかない。即ちである。スペンサー・ブラウン(18) はこれを、凝縮condensation の形式と名づけている。 しかし{この形式が述べるのとは異なり}、この世界では、その意味を変更せずに二度指示されるものはない。したがってわれわれは、繰り返しの意味的多値性に注目せざるをえず、指示が繰り返されることによって 慣れ親しまれた という性格(ならびにそれによる動機づけ)が発生すると解釈しなければならない。 指示が繰り返されることによって、指示されたものは慣れ親しまれたものとなり、人がそこから出発したところの区別が同時に、慣れ親しまれたもの と 慣れ親しまれていないもの という付加的性格を獲得する。 われわれは今、生活世界発生の全過程を回顧的に、確信をもって表象することができ、われわれが求めたものをさまざまな出発点のうちにもつことができる。それは即ち、単に区別が強制されるということに生活世界の発生を基づける理論である。生活世界とは、人が「マークのない空間」をさしあたりどのように切り分けるにしても、不可避的な区別の凝縮物なのである(19)

 「マークのない空間」をどのように切り分けるにしても、その後の一切のオペレーションのうちには、その区別によって定立きれた差異が残る。[切り分けられた]他の側面に移行することは、可能性としては決して排除されえない。慣れ親しまれたもの と 慣れ親しまれていないもの との最初の区別は、慣れ親しまれたものを 凝縮 する働きをし、その後の区別によって押し退けられうる。われわれは後でもう一度この点に立ち戻るが、最初の区別は放棄されえない。なぜなら、最初の区別を放棄することは、慣れ親しまれたものから慣れ親しまれているという性格を奪うことを意味するからである。こうした意味において、慣れ親しまれていないもの もまた接近可能でありつづけるのであるが、それはどのようにしてなのか。

 スペンサー・ブラウンは、凝縮condensation の形式と全くパラレルにこのオペレーションを 無化cancellation の形式、即ちと表記している。先行するオペレーションをそのオペレーションによる区別の他の側面にも及ぼすために新しいオペレーションを行うことは、先行するオペレーションを打ち消すことになる(20)。 ここでもわれわれは──{前段で述べた}慣れ親しまれたものと慣れ親しまれていないものという区別がなされる場合でも、凝縮されていない区別 の場合におけるように──、区別されたものの間で起こる横断は指示を消し去るのではなく、そこに立ち戻る用意があるのだということを承認して、[先行するオペレーションの打ち消しという結論を]回避したい。なぜなら、慣れ親しまれたもの が濃縮されるのに応じて、人は 慣れ親しまれていないもの とも関わることができ、慣れ親しまれたもの と 慣れ親しまれていないもの との両者を区別の両面として保持することによってその区別へ立ち戻ることが可能になるからである。そうした両面間の横断が 慣れ親しまれたもの を 慣れ親しまれたもの たらしめる区別をつねに再活性化し、それによって 慣れ親しまれたもの に差異的な質を与える、と考えることができる。したがって、『四つの四重奏』(T・S・エリオット)が言うように、われわれは探究をやめない。そしてあらゆる探究の終わりは、われらの発足の地に達し、その地を初めて見ることなのだ(21)

 こうした理論的出発点が厳密な演算形式にもたらされるかどうかは、なお未決定としておかなければならない。また、こうした方法でフッサールの普遍数学というプログラムが遂行されるのかどうか、またどのようにしてなされるのかということについても、明らかにすることはできない。ここではただ、生活世界というテーマにとっての意義を提示することで十分である。 今やわれわれは、あらゆる慣れ親しまれた意味凝縮物の指示連関を生活世界と呼ぶことができる。そして、それと同時にわれわれは、区別にはつねにもう一つの側面があるのであって、どんなに広く知られたことからであろうと 、あらゆる意味からそれに接近しうることを知る。言い換えれば、世界が生活世界として現れるのは、コンテクストに応じた 慣れ親しまれたもの と 慣れ親しまれていないもの との区別によって世界が呈示される場合であるが、そのことは、慣れ親しまれたもの を複数のコンテクストにおいて再解釈することを決して排除しないのである。

IV.神話と象徴


生活世界を 慣れ親しまれている という性格の凝縮されたものと解釈する時、何が得られるのであろうか。

 特に明らかなことは、どのような区別によってオペレーションが始められようと、生活世界は必然的に自らを再建するということである。というのは、生活世界の世界性を地平の形式においてのみ見ることは避けがたいからである。問題なのは 慣れ親しまれた対象 の総体、生活世界の素材ではない。そうではなくて、慣れ親しまれていないもの をも含む地平においてのみ慣れ親しまれたものが経験されうる、その限りにおいて、世界は生活世界なのだということである。世界の地平は到達することも、──境界同様──超えることもできない。しかし、世界の内部においてその限界を突破することを可能とする差異、──即ち 慣れ親しまれたもの と 慣れ親しまれていないもの との差異──が確立される。慣れ親しまれたもの が 慣れ親しまれたもの を指示する生活世界が通常世界として十分である場合には、慣れ親しまれていないもの との境界が世界地平のように働く。だが、無世界的な無に陥ることなしに[慣れ親しまれたものが]慣れ親しまれていないもの に変化することも、この世界の内で可能なのである。慣れ親しまれた区別 が 慣れ親しまれていないもの のうちでも機能するかどうかは確かでない という限定を加えることよって、慣れ親しまれた区別 を 慣れ親しまれていないもの へ投影することができる。即ち、慣れ親しまれていないもの を敢えてそれとして指示しょうとする時、それによってなお世界のうちに留どまりながら再び[慣れ親しまれていないものに]立ち戻ることができるということである。

 このことが保証されている限り、またそれが保証されているがゆえに、十分に複雑なシステムにおいても、スペンサー・ブラウンが「再参入re-entry」と名づけたオペレーションがなお遂行されうるのである。区別は、その区別 によって 区別されたもの に再び導入される。それによって、慣れ親しまれたもの とそうでないも のとの区別それ自身が、慣れ親しまれた区別 となる。この「再導入」が適用される最も明瞭な事例は、おそらく神話である。神話が主題とするのは、慣れ親しまれた世界 と 慣れ親しまれていない世界 との差異にほかならない。そして、区別の再導入は、繰り返しから生じ、繰り返しに依拠するゼマンティクの形式においてなされる。場所と時間、ここと今、人間生活の諸々の制約と慣れ親しまれた状況 は、全く異なるもの[異なる場所や時間‥‥]に対して境界づけられる。よく知られた神話は、物語りの形式、即ち以前と以後とを区別する形式、物語ることができる歴史という形式においてそうした限定を行っている(22)

 神話がこうした機能を果たすのは、この世界に起こる現実の現象という様態においてのみである。さもなければ、神話が 慣れ親しまれたもの と 慣れ親しまれていないもの との差異を慣れ親しまれたもの のうちで表現することはできないであろう。神話の世界は決して別の世界ではなく、現にある通りの世界と関わっているのである。このことは、慣れ親しまれていないもの との境界がすぐ身近にあるような、ほんの一部しか知られていない世界に生きている場合に一層容易に起こりうることである。

 象徴の発明は、まさにそうした機能様態の置き換え過程を開始させる。神話は、まずは現実のうちに見い出され、次いで象徴的なものとして解釈され、ついには象徴が自由に構築れていないものとの差異の直接性は色褪せているように思われる。また、好奇心をもって[両者から等しい]距離を保つことは不要になっているように見える。そこで用いられる用語は、自然の秘密から(慣れ親しまれた諸部分 の 慣れ親しまれていない結合 としての)怪物にいたるまで、現実との関係を失ってしまっている。しかし、このことは、「生活世界」が過去のものとなり、一つの 慣れ親しまれた世界 に生きるということがわれわれにはもはやできないということを意味するものでは決してない。

【注】
(14) Edmund Husseel, Erfahrung und Urteil, aaO., この書の副題は「論理学の発生についての研究」となつている。これは独特だが、誤解を与えるものである。[back]
(15) われわれはここおよび以下で、オペレーション という抽象的な表現を用いるが、それは意識の志向的 オペレーション(フッサールのいう志向性)が問題であるのか、それともある社会システムのコミュニカティーフなオペレーションが問題なのかは未決定にするためである。[ここで用いるオペレーション概念には]両者が含まれるのであるが、現象学の理論構成とは違って社会的現象を意識の作用に還元することはしない。[back]
(16) Laws of Form. 2.Aufl., London 1971. を見よ。われわれは勿論、自己言及的な契機を構成する論理学と代数学の基礎づけを目指すこの理論に従うわけではなく、最初の第一歩を共に遂行した後はそこから離れる。しかし、たとえたまたまそれを利用することができるというだけであるにしても、われわれはこれとの親縁性を重視する。[back]
(17) 民族学的研究も、根源的な非対称性というこの見解を裏打ちしている。例えば、Rodney Needam (Hrsg.), Right and Left: Essays on Dual Symbolic Classification, Chicago 1973. に集められた素材を参照。[back]
(18) Aao., S.5. [back]
(19) これについては、オペレーション の出来事的な時間性に注目しつつ、凝縮condensation という観念によってなされた、Jurugen Markowitz, Verhalten im Systemkontext: Zum Habilitationsschrift, Bielefeld 1985. の分析を参照。[back]
(20) これは非常に広い意義をもった理論であるが、その最初のオペレーションに自己言及が導入されているわけではない。これについては、Flancisco Varela, A Caluclus for Self-Reference, International Journal of General Systemes (1975), S.5-24, による展開をも参照。[back]
(21) T. S. Eliot, Four Quartets, 13. Druck London 1968, S.43.[二宮等道訳「エリオット全集」1、中央公論社、1971年、416-7頁参照][back]
(22) 諸状況を覆う時間的経起の統一という、これと結びついた(と同時に最小限の)要求は、それ自体すでに進化的な達成物である。諸状況ならびに状況的配置だけを二分化する神話によってその前形態が与えられていた。このことを示すエジプトの発展に関しては、Jan Assman, Ägipten: Theologie und Frömmigkeit einer fruehen Hochkluturr, Stuttgart 1984, insb. S.117ff., 135ff. を参照。[back]
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