このページに ものすごく久々にアクセスしてみたら、ものすごくどうでもいいことが書いてあって頭が痛くなったので 10年越しの追記をしておくことにする。
まず、文中「あとで追加する」と記しつつも放置してあった点について。
私が、「二歩目でルーマンはスペンサー=ブラウンから離れる」と言っているのは、たとえば「生活世界」論文の 次のような箇所のことを指している:
しかし{スペンサー=ブラウンが「凝縮condensation」について述べるのとは異なり}、この世界では、その意味を変更せずに二度指示されるものはない。[...] 指示が繰り返されることによって、指示されたものは慣れ親しまれたものとなり、人がそこから出発したところの区別が同時に、慣れ親しまれたもの と 慣れ親しまれていないもの という付加的性格を獲得する。
ここでもわれわれは [...] {スペンサー=ブラウンのいう「無化cancellation」を} 回避したい。なぜなら{この世界では}、慣れ親しまれたもの が濃縮されるのに応じて、人は 慣れ親しまれていないもの とも関わることができ、慣れ親しまれたもの と 慣れ親しまれていないもの との両者を区別の両面として保持することによってその区別へ立ち戻ることが可能になるから{→つまり「無化cancellation」などということは生じないから}、である。
ルーマンがここで述べているのは、スペンサー=ブラウンのいう「凝縮condensation」や「無化cancellation」に相当することは、現実の社会生活においては生じない(そうではなく、それとは別のこと──馴れ親しみや、馴れ親しみのもとでの-馴れ親しまれていないものへの-アクセス──が生じる)というほどのことだろう。
ならば──「ふつう」であれば──議論は 次のように進んでしかるべきである。すなわち、
- 「凝縮condensation」や「無化cancellation」というブラウン算術の基本概念(や記法)は、社会生活の記述のために役立てることができない。
- したがってまた、「再参入reentry」などのような(「condensation / cancellation」から派生するすべての)概念も使用できない。
- つまり要するに、社会学は スペンサー=ブラウンに頼ることはできない。
これは実に穏当な結論である。頼れないものに頼らなくても誰も(したがって社会学も)困らないはずだから、議論は──「ふつう」であれば──ここで終わりである。
ところが、ルーマンは、そのように議論を進めない。依拠する必要も(権利も)ないはずの記法や概念に、にもかかわらず なお訴えようとするから、それで、私はそれを訝しんでいる、・・・というのが下に読まれる文章である。
明らかなことだが──にもかかわらず、10年前の私はそれを疑問形を用いて表現しているわけなのだが──ここで訝しむ必要はない。
単に、「ルーマンのこの議論はおかしい」というだけの話である。そして議論は──現在の私であれば こう書くが──ここで終わりにしてよい。
そもそも。60年代の後半に、スペンサー=ブラウンが(ごく)一部の人々の注目を集めたのは、サイバネティクスの変容期(終焉期?)に 山師ハインツ・フォン=フェルスターが主催した(破産に終わった)人工知能研究プロジェクト、というコンテクストにおいてのことだった(そんなわけで、重鎮グレゴリー・ベイトソンの著作にも 彼の名前は少しだけ登場する)。
フランシスコ・バレラが「ブラウン代数」を大々的に取り上げたのも そのコンテクストにおいてのことであるし、
中期以降のルーマンのテクストで鍵概念となっている「観察」(←「区別の一方を指し示すこと」云々 というアレ)なる概念も まさにこのコンテクストの中で・スペンサー=ブラウンの影響のもとで・特別の重みをもって論じられたものである。
そしてまた、中期ルーマンの中核的概念となった「オートポイエーシス」も このプロジェクトのなかで誕生したものだった。
ちなみに、ルーマンが用いている フェルスター山師由来のDQNワードには、ほかにも「固有値」や「(非)トリヴィアル・マシン」などなど いろいろなものがある。個人的には、これらは すべて
禁止語指定した方が 研究水準の上昇に資すると思う。
要するにルーマンは、「その手のもの」を ごっそりと一括して導入したのである。
いま振り返って・後知恵的に言ってしまえば、この(破産した)プロジェクトは(なにしろ破産しただけあって)ほんとうに見るべき価値の少ないものだったように思われるわけで、そうであるだけに、ルーマンが 不幸にも
まさにそのプロジェクトを選んでたくさんの概念を借りてきてしまった、というのは もう目を覆いたくなるような 悪手であった。
これはルーマンの目利きの悪さを物語っているわけだが、要するにルーマンは、ゴミの山に迷い込んでしまったのである。 私にはそのように思われる。
私としては、ルーマニ屋はなによりもまず、これらの ゴミのような概念セットを 一旦 すべて捨てるところから議論を仕切りなおしたほうが よいと思う。 というかせめて、ああいうのを使ってると たいへん頭が悪そうに見えてしまう、という事実があることには気づこう>誰か。
まぁ、どっちにしろ私自身は どれも使わないから関係ないけどね。
・・・という「サイバネティクス傍流史」を踏まえたうえで 再度自分の文章を振り返ってみると、これを書いた時点では、まだ私は、「社会学におけるシステム論の身分」について 明確な見解をもつことができていなかったように思う。今なら、
- 社会生活の記述のための概念は、どこかよその場所(ex.システム論)から「セットで持ってきて」あてがうべきものではなくて、分析の中で・対象に相応しい概念が探索されるべきなのであって、
- 「システム」概念は社会学には必要がないし、もしも使うのだとしても、ヒューリスティックな使用──社会学史から別の表現を借りて来ていうなら、感受概念(sensitizing concept)としての使用──にとどめるべきだ、云々
と書いて話を終わらせよう=先に進めようとするだけなのだが。
この抽象水準での敷衍──上記のような事情のもとで、ルーマンとどのように付き合うべきかについて──は、その後に [1] で少しは書いた。「ならばどういう研究がありうるのか」ということは 共著本 [2] [3] で それなりに示せていると思う。お読みいただければ幸いである(>誰か)。
というか、これらを出版するための準備を通じてようやく私は、「社会システム論」から
ちゃんと卒業することができた、ということかもしれないけどね。
酒井です。
さて、ひさびさのSBネタです。黒木さんルーマン・フォーラムご登場一周年記念の秋、ということで。
黒木玄さん[luhmann:03029] にて曰く:
ルーマンがスペンサー・ブラウンを頻繁に引用してしまったことはルーマンの弱点の一つになっていると思うし、ルーマンが引用しているという理由で自分もまたスペンサー・ブラウンを大真面目に引用してしまっている人たちは自分自身が権威に弱いことを大声で宣伝しているに等しいと思います。
・・・ということでございまして。
前に書いたとおり、『日曜社会学』に「SBコーナー」をつくろうとしてて、議論の回顧をしつつ つらつら考えておったのですが、或る一点から思考が先に進まないでいます。
で、とりあえず進まないあたりの消息を少し。
一年前、黒木さんへのお返事のほとんど一番最初の頃に書いたように、ルーマンは、スペンサー=ブラウンに言及する際に、「最初の一歩」を借りて、すぐにその場を離れてしまいます*。
* 「これ以降は、この著者のやり方には従わない」とかなんとかいって。ここは、バレラ/郡司/大澤などなどの態度と異なるところ。
このあたりをはっきり書いてたのは、例の
「生活世界」論文だったと思う。いま手元にないので、届き次第再読して、報告しましょう。
これまでルーマンフォーラムではほとんど議論されてこなかったことですが、この「離脱」を目にしてまず問題にすべきは、まず、
[1]「離れる」理由はなんなのか?
ということであり、そして次に(黒木的批判との関係でいえば)、
[2]「離れ」とけば「SBへの言及という大罪」(^_^;)は免れるのか?
ということ、でしょう。
で。
[1]は或る意味こたえやすい*。とりあえず、サイトに載せるときには簡単にまとめてかいときます。
[→追記参照]
* でも、これまでの議論では、この点について明示的にはほとんど誰も**言及していない。これはいかがなモノか。
** 黒木-酒井のやりとりの最初期に、私が少し触れてる以外は、馬場さんが(具体的にではないが)触れている。とはいえ。
[2]はいろんなファクターが絡むので評価はむつかしいですが、どっちみちまず、
[3]アヤしいモノをアヤしくないものであるかのように典拠にするのは態度悪い
という点については、ルーマンを擁護することはできませんわな。
ただしこの人の場合、著述家がもつ悪癖をスバラしくたくさん兼ね備えすぎてるので、マジでこれをあげつらいはじめようとおもえば、こんなハナシではぜんぜん済まなくなるのだった(-_-;)。
詐欺師も悪いが、(あからさまに)詐欺師(であることがわかるヤツ)に騙される[=ベタにつきあう]ヤツも、かなり「悪質な消費者」ではあるよ。まぁみなさん気をつけましょう、ってことで(-_-;)
ま、それはそうなんだけども、しかし。
ルーマンが「離れる地点」というのは、なんと算術の第二歩目*、つまり、
condensation / cancellation
というところからなのでした(^_^;)。
ルーマンはそこで、“これら”の文字通りの使用をともに認めない、といってるわけです。
手元に文献(
「生活世界」論文)がないので、記憶に基づく再構成ですが、そこでのルーマンの態度は、
「論理学ではどうだかしらんが、社会学ではこれじゃ使えない*んだよね」
というものだったと思います。
この点に限って言えば、だから、「権威に追随」してるというよりは、(論理学的に正しい/正しくないという)判断を控えたまま言及している“だけ”なわけなのでした。
* この理由は、上の「*」で言及しているのと同じモノ。
ところで第三者的にいうと(黒木さんの証明をみてもわかるように)、
condensation / cancellation に従わない
というのは、結局、
ブール代数の流儀には従わない
というのと“同じ事”になるのでした。
しかしそうすると? ──むしろ出てくるのは、
[4]じゃあんた、いったい何がしたくて言及してるのよ?(苦笑)
という疑問になるわけです。
で、こういうことになると、もはや黒木さんの問題にしている論点とは(まったくとは言わないが)かなりずれてきてしまうのだった。
[4]への“とりあえずの”答えは、
【4】まぁ、Drawing a distinction! つーキャッチコピーだけもらっといたのよね。へへっ。
ってことにでもなりましょうか。
もう少し詳しく書くと、ここで生じる問いには、少な くとも次の(レヴェルの異なる)ものがあると思います。
[5]SBの議論そのものにほとんど従っていないにもかかわらず、それでもSBに言及するのはなぜ?
[6]condensation / cancellation には従わないながらも、「再参入」「虚状態imaginary
state」という言葉は使用する── ・・・しかしそんなことできるのか?
・・・などなど。
[5]は、たぶん「動機」に関わる問題で、これは、以前酒井が書いたように、「スピノザ(あるいはクザーヌス)このかた」の伝統に棹さしているという自覚が採らせている態度だとは、とりあえずいえるでしょう。
その場合、「導かれてる結論には同意しないが、心意気はわかるよっ!うんっ!」というハナシに、とりあえずはなりましょう。
いま少し詰めて考えれば──しかしここでは「考えずに」放言してよければ──問題になるのは、
〈否定〉というカテゴリーと〈区別〉というカテゴリーの区別
だ、と思う。
[6]は「ヨリ理論的*」な問題(?)で、今の私にはちょっと語る言葉がないです。ヨワカラン。
「再参入」はともかく、imaginary state のほうは、どう説明するのよ!?
* と書いてはみたが、〈否定/区別〉-区別だってかなりシビアな問題であろうて(^_^)。はは。
ということで、いま私が立ち止まってるのは、こんな地点。
──ということを、「新企画掲載準備」もかねて、まとまらないままにつらつらと書いてみました。
ではでは。