socio-logic.jp

公開:20181222 更新:20190104

なぜ『社会学はどこから来てどこへ行くのか』はどこにも辿り着かないのか
酒井泰斗

0. はじめに
  • 0-1. この文書について
  • 0-2. 第8章の構成
    (2018.12.22公開)
1. 『社会学入門』への評価
  • 1-0. 要約
  • 1-1. 評価の端緒
    • 1-1-1. 三先生による評価の骨子
  • 1-2. 周辺の議論の流れ
    • 1-2-1. 付:社会学(史)の見直し
  • 1-3. 三先生による評価への反論
    • 1-3-1. バージョン1
    • 1-3-2. バージョン2
    • 1-3-3. 付:『社会学入門』稲葉書評〔未遂〕
  • 1-4. 話法集成(閲覧注意)
    (2018.12.22公開)
2. 調査協力者に対する作法
3. 社会問題のゲーム
4. 他者の合理性を理解する
5. 社会問題の実在性
     

0.はじめに

このことこそ、「普通である」ということなのだ。 それについて何も経験せず、何も考えなくてよい人びとが、普通の人びとなのである。
(岸 政彦『断片的なものの社会学』p. nn)

0-1. この文書について

0-2. 第8章の構成

1. 開き直りと割り切り:筒井・前田『社会学入門』への評価について

1-0. 要約

このパートの主要主張は次のとおり:

1-1. 評価の端緒

  1. 最初に『どこどこ』を一読した際、私は 稲葉先生のこの見立てに乗っかったうえで右のようにツイートしてしまったのであるが、その後『社会学入門』を再読したところ、これが誤りであることがわかった。このツイートを撤回したうえで著者両名にお詫びしたい。
     『入門』未読の人たちが、私と同様に 本書について誤った印象に導かれてしまうことを、私は危惧している。[戻る]
  2. ここでは量的研究の話になっているが、『入門』の著者たちはこれが量的研究にも質的研究にも言えると考えているので、以下では「社会学観」と呼んでおく。[戻る]
  3. たとえば、「社会学の研究者は調査対象である普通の人々の反省的部分だ」[0511]といった主張は、研究対象と研究観察者の距離を稼ぐことで客観性を確保しようとする いわゆる「科学的」な研究観から遠い。これを捉まえて「開き直っている」「割り切っている」と評されているのであれば、それはそれで──賛成するかどうかは別として──理解できる。しかしここでそうした主張が行われているわけではない。[戻る]
  4. がんばって探してみると、たとえば次の発言などは P に関係しそうな候補に見えないこともない。
    0520
    「それが何か」ということを社会学者が決定するのではなく、「それが何だと言われているのか」ということを人々に聞きにいく。それが社会学の仕事だと、それはそのとおりで、私たち「普通の」質的もさんざんそれをやってます。むしろ私たちは最初からそれを目指してやっている。でも、どこで〔エスノメソドロジーと〕分かれてくるかというと、その先なんですよね。
    しかしこれもやはり P には触れていない。「それが何か・何だと言われているのか」というのは「項目」に相当するのだろうから、ここでも話題になっているのはあくまで Q だけである。[戻る]
  5. 通りすがりに「ライフコースがあまりに標準的すぎて」[0517] に一言しておくと。
    • 『入門』が章として立てているのは次の項目である: 出生、学ぶ/教える、働く、結婚・家族、病い・老い、死、科学・学問。このうち、「逆に使えない」のは、具体的にはどのパートなのだろうか。
    • また常識的に考えて、標準を設定したり標準に従ったりすることは、標準的ではないものを取り扱うためにも使える。たとえば、「家族」の章では、家族社会学のなかで家族の定義に関する論争があり、それは標準的な家族という(研究者の間にも残っていた)通念を見直して家族の(実際の・すでに存在してきた)多様性を直視するよう促すものでもあったことが紹介されている、というように。 [戻る]

1-1-1. 三氏による評価の骨子

  1. ずっと先の [1108-1110] は、第三者的にみると、P(研究者と調査対象は〈我々〉関係にある)との比較を論じてもよかった話題に見える。
    1108
    僕の中で、本当には僕はエスノメソドロジーとも共有していると思うんだけれど、人びとが何を思っているのかということが一番大事なんだけど、その人びとというのは、「自分と違う人びと」なんですよね。この分割された社会の、自分の側にはいない人びと。
    1109
    北田
    そこが、ちょっと違うのかな。
    1110
    違うんですかねやっぱり。同じ合理性ではあるんですよ、でも。同じ合理性を持っているのは、持っているんだけれど。だから、みんな同じことをしているんだけれど。
     この箇所については本文書第4章(をもし書くことがあれば、そこ)で取り上げよう。[戻る]

1-2. 第8章の議論の流れ:社会学史、社会問題、エスノメソドロジーの抽象性


  1. 一生懸命探した結果、関係ありそうな記載を一箇所だけ見つけることができた。ありそうなだけであるが。
    0603
    (325)
    北田
    シカゴのような系譜は築けなかったんだけれど、「社会問題は存在する」「そしてそれは解決されねばならない」というところからスタートする、彼〔デュボイス〕の地点というのは、やっぱりちょっとシカゴの流れとは違っていて、社会学の原点として我々は押さえるべきだろうし、多かれ少なかれ日本でヴェーバーとデュルケームとか、そういう派手なものをやっていなかった人たちの社会調査って、手探りでけっこうそういうふうなことをやっていたんじゃないかなって思う。その系譜が、社会学史とかでは忘れ去られている。何しろ「地味」ですからね。だけど、それが1990年代以降、アメリカではデュボイス・リバイバルが凄いことになっていて、今はもう教科書とかにも出てくるようにもなっている。「可能性の中心」的な救済史観も一巡してて、ハッキング的な「調査論」も続出しています。日本語圏ではいまだ無名のまま、というか『黒人のたましい』が岩波文庫の赤表紙に収められているように「文学」として受容されている。デュボイスの忘却は、社会学の存在意義そのものの忘却を意味しているように思えてなりません。
    [戻る]
  2. ちなみに、岸先生の このフリに対する北田先生の回答は、岸先生にとっては都合のよいものではなかったはずである。
    『質的社会調査の方法』その他の著作から推察するに3、岸先生は 自らをシカゴ学派の末裔だと捉えているはずであり(そもそもこの自認からして疑いを入れる余地があるように思うのだがいまは措くとして)、またそうであるからこそ やすやすと自らを〈本流~普通の質的調査〉の側に位置づけて語ることができるわけである。
     このリクエストに対して北田先生はしかし、〈エスノメソドロジーの抽象性〉を述べるために、よりによって なんとシカゴ学派まであわせて爆破してしまった。つまりエスノメソドロジーは、岸先生の依拠するシカゴ学派と 同様に 抽象的だ、と述べてしまったのである。当然ながら、この選択肢は岸先生には使えない。だからその後の流れでは、5頁かけたせっかくの この演説は 再び使われることなく捨て置かれることになったのではないだろうか。[戻る]
  3. たとえば『質的社会調査の方法』29頁には「社会学者たち、特にマックス・ウェーバーとシカゴ学派の後を継ぐ社会学者たち」という表現が登場し、そこに次のような議論が続く:
    社会学といってもいろいろなタイプのものがありますが、質的調査にもとづく社会学は、多かれ少なかれ、100年前のドイツ社会学の祖であるウェーバーを継承しています。
    また同書巻末の選書も見よ。

1-2-1. 付論:社会学(史)の見直しについて

  1. この論文集は、その後2016年4月にナカニシヤ出版から刊行されている。[戻る]
  2. 強い根拠を持っているわけではないので、もし「違う」と言われればすぐに全速で引っ込める準備をした上で言うのだが、『どこどこ』で北田さんたちの使う「(具体的な社会問題ではなく)抽象的な問題に取り組むエスノメソドロジー」という現実世界に指示対象を持たないこの表現は、実はむしろ、かつて《「社会的」という語を規範性抜きに使用する若手リベラル派社会学者》と批判された若き北田暁大その人の立場を指している、ということはないだろうか(その場合北田先生は、過去の自分となんらかの意味で決別するために、エスノメソドロジーを依代に使っていることになる)[戻る]

1-3. 三先生による評価への反論

1-3-1. 反論:バージョン1

  1. グラウンデッド・セオリー・アプローチは量的研究にパラレルに組み立てられた質的アプローチだから、ここでも量-質のブリッジをおこなっていることになる、と言えるかもしれない。[戻る]
  2. EM から RCT にアプローチすることはできても逆はありそうにないので、「RCTとEMの比較」はEM側からしか行われないだろうから。[戻る]
  3. 起こるとすれば、次のどちらかの水準でではないだろうか:
    • イ)社会学周辺の多種多様な諸研究を、スペクトルのかたちで紹介する
    • ロ)それを「RCT – EM」という二極を使っておこなう
    そして、ロの水準での代案は「別の座標軸を提案する」という形をとるだろうし、イの水準での対案は次のどちらかの仕方で提起されるのではないだろうか:
    • スペクトルではないかたちで紹介する
    • 多種多様な研究の紹介はおこなわない[戻る]

1-3-2. 反論:バージョン2

  1. 著者自身の見解を強く打ち出すのではなく、それぞれのスタイルの研究手法を採用している研究者たちにも同意してもらえることを目指して諸研究を紹介しているところに(も)、本書の特徴はある。そして、なるほどこの点で──三先生が指摘しているのとは異なり、むしろこの点でこそ──、岸・石岡・丸山『質的社会調査の方法』と『社会学入門』で紹介されている「質的研究」の中身は確かに大きく異なっているように思われる。 [戻る]

1-3-3. 付:『社会学入門』稲葉書評について[未遂]


1-4. この箇所で使用されている話法のコレクション(閲覧注意)

0515 岸 いわゆる普通の質的の人らがやっていることと、ここで前田さんがすごいエスノメソドロジー寄りのことを言っていることの間に、大きな齟齬があると思うんですよ。それって、現実とだいぶずれてないですか?
0517 岸 あれは普通のひとからみると、相当な違和感を感じる本だと思いますよ。異常にエスノ寄りだし、
0520 岸 いま北田さんから、たとえばエスノメソドロジーとか概念分析と、オーソドックスな質的の仕事というのは、実は課題が全然違うんじゃないか、という話がありました。エスノメソドロジーや概念分析は、すごく割り切った方法であって、だからこそ非常にエレガントで経験的、実証的なツールとして強力なものになったわけですよね。
0807 岸 相互行為やコミュニケーションの研究それ自体は、とても重要なものですよ。でも、社会学者がいま現実におこなっているほとんどの質的な研究を、それで取って代わることはできないでしょう。

ページの先頭へ