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2012-03-08 掲載

小宮友根『実践の中のジェンダー』小宮友根『実践の中のジェンダー』合評会

このコーナーには、2012年03月03日に明治学院大学にておこなった 社会学研究互助会第二回研究会「小宮友根『実践の中のジェンダー』合評会」における配布資料などを掲載しています。
このページには、全体討議における質疑応答のうち、WEB 掲示許諾のあったものを掲載しています。

このコーナーの収録物 小宮 友根さん (配布資料
  加藤 秀一さん (配布資料) (討議
  中里見 博さん (配布資料) (討議
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※本書の紹介ページ著作紹介 - 小宮友根『実践の中のジェンダー』(2011、新曜社)があります。あわせてご覧下さい。

小宮友根『実践の中のジェンダー』合評会 全体討議

第1章: 〈因果的に説明される領域〉と〈規範的に理解される領域〉との関係について
第3章: ミクロ-マクロ問題について
第7章: 5・6章と7章の分析作法の違いと両者の関係について
第7章: 〈「個人」というカテゴリーを用いた議論空間の構成〉と「被害」の吟味〉との関係について
その他: 「ジェンダー」概念が流布した事情について
その他: 語「性現象」・「ジェンダー」・「セクシュアリティ」の関係について

1章: 因果的に説明される領域と規範的に理解される領域

鈴木 生郎 (日本学術振興会PD(慶應義塾大学)/分析形而上学)
因果的に説明されるものと対比される独自のものとして規範的に理解される領域を確保しようとしていることまでは理解できます。しかし、両者が対立するものとして捉えられている点が理解できない。
  •  規範的な形で行為が同定されることがわかれば、それを利用して因果的な説明を構築することはできるでしょう。我々が直面している現実の事態に対して介入したり制御したりするということは、フェミニズムにとっても重要な課題なのではないでしょうか。 またそうした介入を試みようとするときに、さらに、進化生物学の知見を問題のないかたちで援用するということはありうるのではないですか。
    その意味で、規範的な領域についての研究も、因果的な説明に接続されていくような形で、協力的な関係を考えられるのではないかと思います。
  •  また、エスノメソドロジー研究の課題としても、「行為が因果的に理解される」ということは重要なものなのではないでしょうか。というのは、人が自分の行為を理解するときに、それが何らかの形で因果的に制御されるとか、過去の傾向性によって影響を受けるといったことは、我々の行為の理解にとって構成的であるはずだからです。また実際、5章において行為の意図について検討しているところでは、傾向性が持ち出されたりしています。意図の推定に傾向性が持ち出されるということは、実際の実践においておこなわれていることであり、さらに時には俗流ではあるかもしれませんが、科学的な・進化心理学的な「男女差に関する知見」が参照されたりすることもあります。そのように、実際の実践に関わる事柄として、因果的説明が表に出てくるということはあるでしょう。
小宮
「対立する」と考えているわけではありません。「順序があるだろう」と言いたいのです。ただ、その順序というものを、私はけっこう重く受け止めているということはあります。因果説明は科学的な記述の一つの基本的な形式なので、採用されやすく・受容されやすいのですが、そうした形式の説明が広範に行われるときに しばしば、前述の「順序」が無視されてしまったり、あまり気にかけられないということがあるだろう、と思っているからです。 だから、これが「原理的な対立」だと考えているわけではありません。ただ、実際に そうした問題が生じているときには、そこには釘を差しておきたいと考えているだけです。
 とはいえ、ジェンダーがらみで進化心理学の議論をみていると、しばしば──と表現されるよりはもっと多く──そうした事態に出会うという印象は持っています。だから私の書き方が、あたかも「進化心理学との全面対決」のように読めてしまうものになっていたとしたら──私自身には そういうつもりはないので──私の書き方が悪かったのだとは思いますが、そうした事情もあるわけです。
 鈴木さんが指摘されたとおり、因果的理解は行為理解の基本的な形式です。ただ、そもそも「何と何が因果関係にあるのか」を理解するということの中には──特に人間の行為の場合には──意味理解が含まれているだろうとは思います。また、個別的な出来事同士の関係だけでなく、事象の統計的な処理においても、「関連があるもの」というのは様々に出てくるわけですが、そのときに「どの変数間に因果関係が有りそうか/どれを擬似相関だとみなすか」といった様々な判断のやり方の中には、単に因果説明を行なっているだけではない、規範的な同定の水準が関わっているだろうとも思っています。
鈴木
哲学の分野において、行為が「規範的・意味的に理解されるのと同時に・因果的にも理解されている」という二つの焦点を持つという考えは、標準的なものだと思います。そのうちのどちらを重視するかという問題は、哲学的行為論における中心的課題ではありますが、私個人としては、どちらも行為にとって構成的なものだと考えています。例えば、意図について考えるときも、意図することがどういう規範的な連関を持つのかということも、意図の形成に傾向性とか性格とか過去の事情が因果的に影響を与えるということも、どちらも構成的に理解されている。だからこそ、科学的説明・因果的説明を呼びこむような素地を、すでに行為は持っているわけです。 ところが小宮さんの話を伺っていると、「規範的理解は必ず因果的理解に先行する」と言っているように聞こえる。それはやはり少し強いコミットメントに聞こえる、というのが私の印象です。
小宮
「必ず」かどうかはわからないですが、たとえば行為の意図を理解するときに、なにを説明項に/なにを被説明項に持ってくるのかということには──何でも持ってこれるわけではなくて、たとえば「性格」を持ってくるとか、たとえば「個々の行為」を持ってくる、といったように──限定がかかっているわけです。つまり、「何を持ってくれば、行為の原因について述べたことになるのか」という限定は、因果説明の仕組みにはかかわらない、行為の理解可能性にかかわる規範があるのではないでしょうか。
鈴木
そこは「因果的な繋がりがあるものとして、性格と意図との関係が理解されるのだ」と言いたいわけです。

3章: ミクロ-マクロ問題について。

鈴木 生郎 (日本学術振興会PD(慶應義塾大学)/分析形而上学)
3章では、マクロな現象も、我々のミクロな実践の中に現れてくる限りで問題にすることが可能であり、そのような仕方でミクロ-マクロ問題は解消されるのだ、と言われている。ミクロな実践の中にマクロなレベルが現れてくるということはわかるのだが、ここでは もっと強い主張──マクロなレベルのすべてがミクロなレベルに現れるとか、それ以外の形で捉える必要はない、というくらいのこと──がなされているようにも読める。そういうような強い主張までするのかどうか、たとえば、バイアスのような──本人たちはまったく気が付かないが、統計的には現れてくるような──現象についてはどういう態度をとることになるのか。
小宮
[未回答]

5・6章と7章の分析作法の違いと両者の関係について

金田 智之 (会社員/社会学(セクシュアリティ論))
5章(強姦罪)・6章(被害者の意思)と、7章(ポルノグラフィ)の傾向が違うという印象を受けました。5・6章は判例の分析をしており、これが第一部で展開された分析方針を実践していることはわかります。他方、7章は これまで積み重ねられてきたポルノグラフィーの法規制にまつわる言説を俯瞰したものであり、一部~6章までの流れとはやや異なるものであるようにみえます。さらにまた、5・6章が司法の話をしているのに対し、7章は立法の話をしています。それを同じ「法」ということで捉えてしまってよいのかどうかが気になります。
小宮
たしかに、5・6章は被害の経験について論じているのに対して、7章は被害の経験を論じている人について論じている、という違いがあります。
法という領域において両者がどういう関係にあるかと言えば、ルーマンの言葉を借りれば、前者は法システムの作動であり、後者は法システムの自己記述──それも法システムの作動ですが──です。つまり、前者では実際に法的な判断を下すということが行われており、後者ではどのように法的判断を下すことが正しいのかについて論じられている。そういう意味で両者は「違う」のですが、法的推論を行うことの中にも、どういう法的推論が正しいのかについて論じることの中にも、私たちが持っている常識的な知識や規範が同じように関わって・働いているだろうとは思っています。
金田
その、「同じように」というのが引っかかる。両者において日常知の使われ方はかなり違うのではないですか。それを一緒に論じてしまうというのは、この本にとって案外致命的なのではないかという気がします。1章~6章まで実践に即して論じてきたのに、7章だけが堂々巡りの議論を追いかけているように見えてしまう。
小宮
確かに、7章についても──5・6章と同様の仕方で──ポルノグラフィの被害経験についての記述ができたうえで、それを巡る議論を記述できれば、繋がりがよかったのだとは思うのですが、そこまで行けていないので、「マッキノンをどう解釈するか」みたいな話で止まってしまっているように見える、というのはおっしゃるとおりだと思います。。
金田
今後そこの部分の研究を進めていただくと、もっと問題が明確化できるかな、と思います。

7章:「個人」というカテゴリーを用いた議論空間の構成と「被害」の吟味

高田 敦史 (無所属)
「「女性の沈黙」を「総論」とする被害」とはどういうものかについて確認したい。
… この社会で特定のカテゴリーを適用される人びとがもつ経験が、もし単なる「不快感」以上のものであるならば、自己の不快感を軸にした反転可能性のテストは役に立たないだろう。それゆえ、さまざまな属性や地位のもとで生じる「被害」の吟味は、「個人」というカテゴリーを用いた議論空間の構成に、論理的に先立っていなければならないはずなのである。
 現実には私たちはさまざまな属性や地位を生きており、良くも悪くも、その中にある権力関係や支配関係を生きている。その社会生活の中で私たちが何らかの被害を受けるとき、その被害はしばしば、本質的に何らかの属性や地位と結びついている。ある人が殴られたとき、それだけでその人は犯罪の被害者であり得るだろう。けれど、殴られたその人が「黒人」であるがゆえなら、その人は同時に差別の被害者でもある。そのとき、その人が受けた被害を単に「殴られたこと」に還元して理解するなら、それは生じている被害の理解として不十分である。単に「私も殴られたら痛い」と想像してみるだけでは、決してその被害の「重み」を理解出来ないはずだ。(p. 279)
「黒人であるが故に殴られる」ことは、単に「殴られる」ことよりも重大な被害であるということには同意できるし、多くの人も同意するでしょう。ところが「「被害」の吟味は、「個人」というカテゴリーを用いた議論空間の構成に、論理的に先立っていなければならない」という主張のほうは、「個人がある以前に被害がある」と言っているように聞こえる。しかし「黒人であるがゆえに殴られた」ということも、それはそれで「個人が受ける被害」なのではないでしょうか。
小宮
「「様々な属性のもとで被害を受ける」といっても、それだって「個人が受ける被害」なのではないか」という言い方に反対するつもりはありません。ただ7章の議論との関係でいうと、いわゆるリベラリズムの議論空間の中では、社会の中に様々な個人がいて様々なことが起こっているときに、「相手に起こっていることを理解できるかどうか」という立場の交換可能性の議論は重要なポイントになるわけです。相手に起こっていることを理解できなかったら、それが自分に起こった時に善いと思うか悪いと思うかという判断ができないわけですから。 この議論空間の中で、特定の属性のもとで経験されているような不当性の経験というものを、その属性を切り離した所で言葉にしてしまうと、実は──単に殴られたというだけではなく──差別の経験であったかもしれないものを、単に殴られたものとして理解してしまうことになるだろう、ということが言いたかったわけです。「ある個人にどういう被害が生じているのか」ということをきちんと理解するためには、その被害が──単に「個人に対する」ものというだけでなく──ある個人の持つどういう属性によって生じているのか、ということが、まず理解されなければならない、ということです。
高田
いまの話はわかりました。
ところで、倫理学者であれば、そこからもう一歩進んで、「「黒人であるがゆえに殴られることは単に殴られること以上に悪い」と言えるのだとして、なぜそれが「より悪い」と言えるのか」といったことに関心を持ち、たとえば「それは個人の人格を傷つけるからだ」などなどといった理由を持ちだした議論を案出するのだと思うのですが、小宮さんの関心がそういった方向に向くことはあるんでしょうか。
小宮
倫理学についてはよく知らないので、倫理学的な問いというのがどういうものなのかはわからないですが。被害の経験を記述していくときに、その被害がなぜ悪いのかということがきちんと理解されなければいけないとするならば、「経験を記述する」という作業は「なぜ悪いのか」という問に答える作業にもなっているだろうと思います。もしそれが倫理学の問いに関わるというなら、関わることはあるのではないかと思います。
【3/8 追記】
倫理学者が論じる「Xはなぜ悪いのか」という問いと、人びとの経験するXの「悪さ」とはどのような関係にあるのか、という一般的な問いについて考えることが必要になるかと思います。「あまり関係ない」というのであれば私に言うべきことはありませんが、何らかの仕方で関係あるならば、被害の経験の記述は倫理学の問いともかかわることになるだろう。ということを述べたつもりでした。

「ジェンダー」概念が流布した事情について

金田 智之 (会社員/社会学(セクシュアリティ論))
小宮さんは先ほど「ジェンダー概念が日常生活のある側面をうまく説明できたから この言葉が広がっていった」と言っていましたが、他方、「ジェンダー」という言葉の流布に関しては、次のような見解があります: 女性学が80年代に制度化され、そこで「性役割」から「ジェンダー」への用語の変化が生じた。社会学の術語であった「性役割」が、文芸批評・文学理論などを含む学際的分野では使い勝手がわるく、曖昧な言葉である「ジェンダー」が導入され便利に使われ、さらにそれが社会学に導入されることによって、みんながジェンダー概念を使うように広がっていった、と。こうした見解についてはどう考えますか。
小宮
「学際的な局面で便利だったから」というのはそうなのかもしれませんが、「なぜそれが便利だったのか」と言えば、いろいろな領域に分散している様々なものを、曖昧ではあれそれなりに適切に指し示すことができたからではないか、とは思っています。

語「性現象」・「ジェンダー」・「セクシュアリティ」の関係について

志田 哲之 (早稲田大学人間総合研究センター招聘研究員/セクシュアリティ、親密性、ジェンダー)
  • 冒頭での「性現象」と「ジェンダー」の言葉の使い方から うかがわれるのは、「性現象」が上位概念であり、「ジェンダー」は「性現象」の中に含まれる概念であるように読み取れる。この読み方は著者の意図に沿っているでしょうか。
  • 本書において「性現象」にはどのような定義が与えられているのか。また(フーコーの『性の歴史Ⅰ』において、仏語「セクシュアリテ」の訳語に「性現象」があてられたように)「sexuality」という言葉と互換的なのか。互換的ではないように読み取れるが、互換的でなければ「性現象」を英訳するとどのような言葉になるでしょうか。
  • 本書には、たとえばポルノグラフィやセクシャル・ハラスメントといったセクシュアリティと密接に絡んだ話題が出てくるが、セクシュアリティという言葉がまったく出てこない。あえて排した意図はあるのか。意図がある場合、それによって得られる効用とはどのようなものでしょうか。
  • (「性現象」=「セクシュアリティ」ではないという読み取りを前提に)「性現象」「ジェンダー」に「セクシュアリティ」という3つめの言葉を加えたら、それぞれの位置関係はどのようなものになるでしょうか。
小宮
 本書では「性現象」という言葉は、性にかかわるすべての現象を包摂する言葉として用いています。「ジェンダー」「セクシュアリティ」という言葉で従来指し示されてきた現象がどれくらい切り分けられるかというのは難しい問題ですが、いずれにせよそれらが性にかかわる現象の(重なりつつも)異なった部分を示す言葉であるなら、本書の「性現象」はそれらの上位概念であるということになります(英訳についてはきちんと考えていませんでしたが、そういう事情なので一つの単語をあてるのは難しいでしょう)。
その上で、「セクシュアリティを排しているのでは」という問いに対しては、私としては「本書の事例検討の中で、セクシュアリティという要素を排しているがゆえに不適切な記述になってしまっている点があるとしたら、どのような点か」と「教えを乞う」ことでお答えにしたいと考えます。というのも、「人びとの行為や経験の理解可能性を記述する」という本書の掲げた方針からすれば、「ジェンダー」「セクシュアリティ」という概念を、データの分析を離れたところで人びとの行為や経験にあてはめる、という議論の作法は取ることができないからです。
本書の中では、いくつかのデータを用いて「そこで起こっていること」をできるだけ丁寧に記述したつもりではありますが、たしかに一般に「セクシュアリティ」と呼ばれる主題と密接にかかわるデータを扱っていますので、大きな見落としもあるかもしれません。もしあるとしたら、それをデータにもとづいて議論することができるというのも、本書の方針の利点だと私は思っています。
主催者追記
※評者である加藤さんもブログに見解をアップされています:
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