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このコーナーには、2012年03月03日に明治学院大学にておこなった 社会学研究互助会第二回研究会「小宮友根『実践の中のジェンダー』合評会」における配布資料などを掲載しています。
このページには、全体討議における質疑応答のうち、WEB 掲示許諾のあったものを掲載しています。
このコーナーの収録物 | 小宮 友根さん (配布資料) | |
加藤 秀一さん (配布資料) (討議) | ||
中里見 博さん (配布資料) (討議) | ||
全体討議摘要 | ←このページ |
※本書の紹介ページがあります。あわせてご覧下さい。
… この社会で特定のカテゴリーを適用される人びとがもつ経験が、もし単なる「不快感」以上のものであるならば、自己の不快感を軸にした反転可能性のテストは役に立たないだろう。それゆえ、さまざまな属性や地位のもとで生じる「被害」の吟味は、「個人」というカテゴリーを用いた議論空間の構成に、論理的に先立っていなければならないはずなのである。「黒人であるが故に殴られる」ことは、単に「殴られる」ことよりも重大な被害であるということには同意できるし、多くの人も同意するでしょう。ところが「「被害」の吟味は、「個人」というカテゴリーを用いた議論空間の構成に、論理的に先立っていなければならない」という主張のほうは、「個人がある以前に被害がある」と言っているように聞こえる。しかし「黒人であるがゆえに殴られた」ということも、それはそれで「個人が受ける被害」なのではないでしょうか。
現実には私たちはさまざまな属性や地位を生きており、良くも悪くも、その中にある権力関係や支配関係を生きている。その社会生活の中で私たちが何らかの被害を受けるとき、その被害はしばしば、本質的に何らかの属性や地位と結びついている。ある人が殴られたとき、それだけでその人は犯罪の被害者であり得るだろう。けれど、殴られたその人が「黒人」であるがゆえなら、その人は同時に差別の被害者でもある。そのとき、その人が受けた被害を単に「殴られたこと」に還元して理解するなら、それは生じている被害の理解として不十分である。単に「私も殴られたら痛い」と想像してみるだけでは、決してその被害の「重み」を理解出来ないはずだ。(p. 279)