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2000年7~9月:二つの「メディア」概念を巡って5

 Date: Mon, 18 Sep 2000 13:18:31 +0900
 From: 馬場靖雄
 Subject: [luhmann:01566] [DM] 差異を真剣に受け取る

相変わらずまとまった時間が取れません。こんな状態で細切れのコメントをするのがいいことなのかどうか判然としないのですが、大きなテーマですので少しずつ論じていくのも悪くないようにも思います。

菅原さんから内容豊富なコメントをいただきましたが、今日はそのうちの一点だけ。

あるもの(X)が、メディアであるか形式であるかを判定するさいに、Xが「何から区別されるかによって決まってくる」ならば、その「何」(y)は、xの「メディア/形式」の判定に先立って、「メディア/形式」のいずれかであることが決せられていなければならない
【略】
馬場さんの「規定性の階層関係」の発想は、この反照規定にもっとも親和的であるようにも思われますが、その発想は、ルーマンが「メディア/形式の区別」を(いわば)<抽象的・悟性的に>使用しているところに、ヘーゲル流の<反省>を持ち込むものではないでしょうか(この最後の部分は印象批評ですので、論証抜きで否定して下さって結構です)。

 この部分は、私の述べたことを理解されていないのか、それとも理解された上であえて別の理論構想を提案しておられるのか、判然としません。

 私が申し上げてきたのは、メディア/形式の区別は、それぞれの項目を確定した上で組み合わせるというようにではなく、両者の差異として(形式として)しか用いられないということでした。もっともわかりやすい例を挙げるならば、「(より)大きい/(より)小さい」という区別を考えてもらえばいいと思います。「差異」を「量」で規定するのは問題なしとしないのですが、今はその点はおいておきます。菅原さんのご主張は、「XがYより大きい」と述べるためには、まずもってYが(絶対的な意味で)大きいか小さいかを確定しなければならない、と言っているように聞こえます。

 むろんルーマンが差異それ自体からではなく、両項目をポジティブに規定することから始めているというご指摘や、あるいはそういうかたちで議論を進めるべきであるとのご主張ならわかるのですが、菅原さんの論法では私が用いようとしている、「(より)ルーズな/(より)リジッドな」という区別自体が不可能だということになってしまいます。私自身は各項目からではなく差異そのものから出発するのが、ルーマンの理論が「差異理論」である所以だと考えております。

 なお菅原さんは私の複雑性に関する議論をお読みいただいていたと思うのですが、あそこでの議論とこのメディア/形式の話とはパラレルであるのをご理解いただけるだろうと思います。複雑性は、(諸要素の)選択的な関係づけ/完全な関係づけという区別によって規定される概念ですが、「選択的な」も「完全な」も、それ自体としては判定不可能です。「完全な」は「選択的な」のほうから遡行して、その Woraus を探るというかたちでしか登場してきませんし、逆に「選択的な」を指し示すためには、すでに「完全な」を踏まえていなければならない。
要するに、この区別=差異=形式を投入すること自体によって、事態が複雑なものとして見えてくるのであって、まずふたつの関係づけのあり方をそれぞれ確認して、その後で事態が複雑であるかどうかを判定するというわけではありません。その点で、複雑性は、「観察者に依存した区別」によって成り立っています--そしてそれゆえに、他の観察者によって、この「選択的な/完全な」という区別の投入自体が選択的な関係づけとして観察される可能性を孕んでいる、と。最近どこぞで大澤真幸さんが、「あらゆる複雑性は社会性を孕んでいる」と述べていたのを読んだような気がしますが、おそらくそれは今述べた点と関わってくるのではないでしょうか。

すみません、やっぱり今書いてるもののほうに話が流れてしまいました。

 Date: Mon, 25 Sep 2000 08:49:14 +0900
 From: 菅原謙
 Subject: [luhmann:01600] Re: [DM] 差異を真剣に受け取る

【略】

馬場さん:

この部分は、私の述べたことを理解されていないのか、それとも理解され た上であえて別の理論構想を提案しておられるのか、判然としません。
私が申し上げてきたのは、メディア/形式の区別は、それぞれの項目を 確定した上で組み合わせるというようにではなく、両者の差異として(形式 として)しか用いられないということでした。もっともわかりやすい例を挙げる ならば、「(より)大きい/(より)小さい」という区別を考えてもらえばいいと 思います。「差異」を「量」で規定するのは問題なしとしないのですが、今は その点はおいておきます。菅原さんのご主張は、「XがYより大きい」と述べる ためには、まずもってYが(絶対的な意味で)大きいか小さいかを確定しな ければならない、と言っているように聞こえます。

 比喩は紛糾の素になる恐れもありますが、馬場さんの御指摘――特に、最後の一文――の通りです。厳密に言うと、Yが絶対的に小さいことが決まってしまう。これは、意外に思われるかもしれませんが、ルーマンの定義から導き出すことができます。

むろんルーマンが差異それ自体からではなく、両項目をポジティブに規定 することから始めているというご指摘や、あるいはそういうかたちで議論を進めるべきであるとのご主張ならわかるのですが、菅原さんの論法では 私が用いようとしている、「(より)ルーズな/(より)リジッドな」という区別 自体が不可能だということになってしまいます。私自身は各項目からでは なく差異そのものから出発するのが、ルーマンの理論が「差異理論」である所以だと考えております。

 私もルーマンのそれが差異理論であることを認めております。馬場さんと私との差異は非常に微妙であるということなのでしょう。もっとも、私はずっと馬場さんの後追いをしてきたわけですから、大きな差異はない、と信じておりますが。この点に関しましては継続審議ということで。

なお菅原さんは私の複雑性に関する議論をお読みいただいて いたと思うのですが、あそこでの議論とこのメディア/形式の話とはパラレルであるのをご理解いただけるだろうと思います。複雑性は、(諸要素の) 選択的な関係づけ/完全な関係づけという区別によって規定される概念ですが、「選択的な」も「完全な」も、それ自体としては判定不可能です。 「完全な」は「選択的な」のほうから遡行して、そのWorausを探るというかたちでし か登場してきませんし、逆に「選択的な」を指し示すためには、すでに「完全な」を踏まえていなければならない。
要するに、この区別=差異=形式を投入すること自体によって、事態が複雑なものとして見えてくるので あって、まずふたつの関係づけのあり方をそれぞれ確認して、その後で事態が複雑であるかどうかを判定するというわけではありません。その点で、 複雑性は、「観察者に依存した区別」によって成り立っています--そしてそれゆえに、他の観察者によって、この「選択的な/完全な」という区別の 投入自体が選択的な関係づけとして観察される可能性を孕んでいる、と。最近どこぞで大澤真幸さんが、「あらゆる複雑性は社会性を孕んでいる」と述べていたのを読んだような気がしますが、おそらくそれは今述べた点と 関わってくるのではないでしょうか。

 「要するに」以下は私も認めるところですが、「メディア/形式の区別」の話とどのように関連するのでしょうか。できれば、システム(または観察者)が「メディア」と「形式」とをどのように区別するのか――この一連のプロセスを再構成していただきますれば、隙間が埋まりますので、大変有難く存じます。

 なお、あたりまえのことよ、と失笑を買うかもしれませんが、「複雑性」の話が出てきたので付言します。いま、X≠YなるXとYとがあって、両者が階層構造を形成しており、かつ、それぞれを構成する要素の数が同じであるとき、そのときでさえ、いっぽうを「メディア」とし、もういっぽうを「形式」と断定することが可能である――しかも、このことは、複雑性の縮減をも満足する。また、メディアの複雑性を計算するには、従来のグラフ理論の公式を用いることはできないことも、今後の議論の叩き台として付け加えておきたいと思います。

 「完全な」というのは「全面的な」というニュアンスを含むものですか。「すでに「完全な」を踏まえていなければならない」というときの「踏まえていなければならない」というのはどういう意味でしょうか――確認させて下さい。というのも、ここまでは、馬場さんと私のこれまでの主張とには齟齬がないからです。おぼろげながら感じますことは、このつぎのステップで馬場さんと私の違いが顕在化するのではないでしょうか。

 今回は論証抜きで結論だけを申し上げました。

  馬場さんの締め切り後に、簡単な論証を付けたメイルをお届けしたいと存じます。

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