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社会システムの複雑性と統一性

馬場靖雄
93年度関西社会学会での報告原稿
『複雑性の海へ』(松岡正剛他共著、NTT出版、1994) に所収


.「複雑性」は複雑か
.複雑性 Vs. ?
.複雑性という形式
.偽の王としての複雑性
社会システムの複雑性と統一性
 文献

1.「複雑性」は複雑か

(1) ダグラス・クリンプは、モダニズムの黎明期と現代において、「引用」という同一の手法を用いて作品を制作した二人の画家を比較することによって、ポストモダンのこの特徴を明らかにしようとしている(Foster[1983=1987:81-103])。マネの「オランピア」では、「イメージを担う画面を一つの絵として読み取らせるような、構造的一貫性」をあくまで前提としつつ、ティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」の創造的変容が試みられている。デフォルメは、「マネのオリジナルな作品」という統一的全体に奉仕するために行われるのである。一方、「コンバイン・アート」の旗手であるロバート・ラウシェンバーグが、ベラスケスとルーベンスを題材にして制作した一連の作品においては、「原作の写真をシルクスクリーンに写し取り、それをトラックやヘリコプターなどの写真をも含む一つの画面へと作り上げる」という手法が用いられている。ラウシェンバーグがめざしているのは、一個の「創造する主体」の手になる統一的な作品ではなく、既存の雑多なイメージを「そのまま取りあげ、引用し、抜粋し、積み重ね、競合させる活動」それ自体なのである。

(2) 邦語での同様の議論としては、佐藤[1991]がある。そこでは、「生活クラブ生協」の活動が、「新しい社会運動」の代表例として取り上げられている。生活クラブ生協では、他の単一争点主義の運動(それは結局のところ、「革新政党による政権奪取」という最終目標へと絞りこまれていくことになる)とは異なって、平均七〜八人の主婦からなる「班」の水平的ネットワークという基礎のうえで「環境エコロジー、リサイクル、合成洗剤追放(石けんキャラバン)、反核・平和、代理人活動(地方議会に代表を送る政治キャンペーン)などの運動から、健康づくり、料理、バザー、子どもとの交流、産直まつり、生産者との交流、その他さまざまな学習会や催しなどにまでいたる、多種多様なボランタリーな活動が展開されている」([同:74])。もちろんそのような多様性のゆえに、生協内部では常に変異や曖昧性、緊張や矛盾が生じてくることになる。しかし、そのたびに当事者どうしが徹底的に討論して新しい方針を打ち出すというやり方を採用していることこそが、生活クラブ生協発展の原動力となっているのである、と。さらに、金子[1986]は、企業活動に関して同様の議論を展開している。

(3) スラヴォイ・ジジェク(Zizek [1992a])は同様のパラドックスが、あらゆる民主政において不可避的に登場してくることを示している。民主政においては、為政者は本来の主権者たる国民の一時的な代理人以上の存在であってはならない。したがって、王や貴族のように為政者の地位を永続的に専有しようとする者を排除し、権力の座を常に空白に保っておくことが民主政擁護者の義務である。ところがまさにそうすることによって、擁護者は自分を、あらゆる批判を受け付けない絶対者と化してしまうのだ。彼を批判しようとする者はすなわち民主政そのものの敵である、と。彼はいわば、逆さまの王となるのである。ジジェクのこの議論と、ルーマンの「自己言及的システムの閉鎖性と開放性」という論点との関連については、馬場[1993]を参照のこと。

対象を、何らかの単純な属性によって特徴づけられうる固定的で完結した存在としてではなく、複数の(あるいは、無数の)異質なベクトルによってそのつど合成されては変化していく、複雑で動的な秩序をもつものとして捉えること−−現在このような発想が、個別諸科学のみならず、芸術や社会運動を含めたさまざまな領域において脚光を浴びつつあるように思われる。あるいはこの動向を、プリゴジーヌにならって「存在から生成(発展)へ」と呼ぶこともできるかもしれない。事実、複雑性と矛盾が「開かれた統一性」を形成するという観点が、あるいはさまざまな差異の「ネットワーク的結合」からなる統一性という発想こそが、プリゴジーヌらの業績と「ポストモダン芸術」に共通のメルクマールを形成すると主張している論者もいる(Kuppers/Paslack [1991])。最新の物理学理論と現代芸術(ポストモダン)のどちらにおいても、「多数性が統一性の『展開形態』……として演繹されるのではなく、逆に統一性こそが多数性の内部での複雑な結合の結果として解釈されている」([同:163-4])、というわけだ1。 さらに政治の領域に関していえば、ハイアラーキカルな組織のもとで統一的な目的の実現をめざす従来の政党中心型の社会運動と、水平的なネットワークによって個別的な諸課題をゆるやかに結合しつつ「自己組織的」に進められる「新しい社会運動」を比較したうえで、後者を先の「ポストモダン」の流れのなかに位置づけることも可能だろう(Paslack [1990])2。いずれの場合でも、対象の統一性、すなわち対象を一義的に規定する単純な性質からではなく、複雑性から出発することこそが、新たな「パラダイム転換」の可能性をもたらすものと考えられているのである。

 だがこの種の議論に対しては、ひとつの疑念を覚えざるをえない。とりあえず社会理論の領域に焦点をあてて議論していくことにしよう。なるほどそこでは、理論の対象である社会(厳密にいえば、全体社会Gesellshaft)は複雑なものとして捉えられている。社会はその複雑さと絶えざるダイナミズムのゆえに、「社会を成立させているのはこれこれの(例えば「下部構造」といった)要素である」などという安易な本質規定を許さない。したがってまた、そのような規定に基づく集権的な計画や、計画の実現をめざすコントロールなどは失敗せざるをえないのだ、と。だからこそ社会主義は死滅し資本主義が勝利したのだとの結論を導き出すのはいささか短絡的にすぎるとしても、この議論の内容自体は正しいように見える。だが、「社会という対象は複雑である」と語るその語り口は、はたして十分に複雑なのだろうか。「固定的な構造や特徴について語ることはできない」ということ自体が、あたかも社会の本質的メルクマールであるかのように語られていないだろうか。あるいは、「計画やコントロールは不可能である」という主張自体が、計画やコントロールを試みるあらゆる者を排除し抑圧するという、一種のコントロールの根拠となっていないだろうか。そこではいわば、無計画が計画されているのではないか3

 以下ではルーマンの議論を手掛かりにして、「われわれは複雑性について、あまりにも単純に語っているのではないか」というこの問題について考えてみることにしたい。


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