1.「複雑性」は複雑か 2.複雑性 Vs. ? 3.複雑性という形式 4.偽の王としての複雑性 5.社会システムの複雑性と統一性 |
◇ 文献 |
対象を、何らかの単純な属性によって特徴づけられうる固定的で完結した存在としてではなく、複数の(あるいは、無数の)異質なベクトルによってそのつど合成されては変化していく、複雑で動的な秩序をもつものとして捉えること−−現在このような発想が、個別諸科学のみならず、芸術や社会運動を含めたさまざまな領域において脚光を浴びつつあるように思われる。あるいはこの動向を、プリゴジーヌにならって「存在から生成(発展)へ」と呼ぶこともできるかもしれない。事実、複雑性と矛盾が「開かれた統一性」を形成するという観点が、あるいはさまざまな差異の「ネットワーク的結合」からなる統一性という発想こそが、プリゴジーヌらの業績と「ポストモダン芸術」に共通のメルクマールを形成すると主張している論者もいる(Kuppers/Paslack [1991])。最新の物理学理論と現代芸術(ポストモダン)のどちらにおいても、「多数性が統一性の『展開形態』……として演繹されるのではなく、逆に統一性こそが多数性の内部での複雑な結合の結果として解釈されている」([同:163-4])、というわけだ1。 さらに政治の領域に関していえば、ハイアラーキカルな組織のもとで統一的な目的の実現をめざす従来の政党中心型の社会運動と、水平的なネットワークによって個別的な諸課題をゆるやかに結合しつつ「自己組織的」に進められる「新しい社会運動」を比較したうえで、後者を先の「ポストモダン」の流れのなかに位置づけることも可能だろう(Paslack [1990])2。いずれの場合でも、対象の統一性、すなわち対象を一義的に規定する単純な性質からではなく、複雑性から出発することこそが、新たな「パラダイム転換」の可能性をもたらすものと考えられているのである。
だがこの種の議論に対しては、ひとつの疑念を覚えざるをえない。とりあえず社会理論の領域に焦点をあてて議論していくことにしよう。なるほどそこでは、理論の対象である社会(厳密にいえば、全体社会Gesellshaft)は複雑なものとして捉えられている。社会はその複雑さと絶えざるダイナミズムのゆえに、「社会を成立させているのはこれこれの(例えば「下部構造」といった)要素である」などという安易な本質規定を許さない。したがってまた、そのような規定に基づく集権的な計画や、計画の実現をめざすコントロールなどは失敗せざるをえないのだ、と。だからこそ社会主義は死滅し資本主義が勝利したのだとの結論を導き出すのはいささか短絡的にすぎるとしても、この議論の内容自体は正しいように見える。だが、「社会という対象は複雑である」と語るその語り口は、はたして十分に複雑なのだろうか。「固定的な構造や特徴について語ることはできない」ということ自体が、あたかも社会の本質的メルクマールであるかのように語られていないだろうか。あるいは、「計画やコントロールは不可能である」という主張自体が、計画やコントロールを試みるあらゆる者を排除し抑圧するという、一種のコントロールの根拠となっていないだろうか。そこではいわば、無計画が計画されているのではないか3。
以下ではルーマンの議論を手掛かりにして、「われわれは複雑性について、あまりにも単純に語っているのではないか」というこの問題について考えてみることにしたい。