「すべてが可能なのかもしれない−−しかし、私はほとんど何も変えることができない」という言葉(Luhmann [1971a:44])こそが、ルーマンのシステム理論の根本的性格を示していると、論敵である「批判理論」家ユルゲン・ハーバーマスは述べている(Habermas[1973:179=1979:211])。ルーマンの理論は、社会の現状をそのまま追認する、度し難い保守主義に基づいているのだ、と。しかし、ジジェクがヘーゲルの「反動的」な議論を読み変えたように、この言葉ももっとポジティブに読めるのではないか。すなわち以下のようにである。〈完全な/選択的な〉という区別も含めてすべてが選択的だとしても、「あらゆることは相対的であり、したがって決定不能である」という結論にはならない。「変えることのできない」個々の作動の事実性を手掛かりにして、決定を下すことが常に可能だからである。王が詐欺師だということを見抜いたとしても、王が何かを語ったという事実そのものを(そして、それに基づいてなされた臣下たちの行為を)無化してしまうことはできないのである13。あるいは、「決定不能性」を主張することもまた、決定のための足場として働きうるし、したがってそこから何が生じているかを記述する(あるいは、「決定」する)ことはできるのだといってもいいだろう。王の不在によって定義される民主政のうちに、王の言葉が欠如というかたちで書き込まれているのと同様に、決定不能性について語ること自体のなかに、すでに決定が書き込まれているのである。 逆説的に述べるならば、「社会は複雑であり、統一性としては記述できない」という議論によっては複雑性を捉えることはできない。むしろ、「社会の統一性は常に記述可能である−−ただし、複数の視座から、複数のやり方で」というべきではないのか。複雑性は否定ではなく、断固たる(しかしながら同時に自己限定的な)肯定のうちにある14。
あるいはこう言い換えることもできる。複雑性は、「見えざる手」によるソフトな調和としてではなく、無媒介的な衝突によって、すなわち「闘争」によって、もたらされるのである、と。「批判的社会学の終焉」(Luhmann[1991b])は、闘争の終焉を意味するわけではない。むしろその逆こそが正しいのである15。