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社会システムの複雑性と統一性

馬場靖雄

4.偽の王としての複雑性

(10) このような問題設定自体が、偶然的なものと必然的なものとの自己言及的な循環関係に基づいていることを指摘しておかねばならない。それは、ルーマンがドゥンス・スコトゥスを引用しつつ述べているように(Luhmann[1975:213=1986:242])、「何ものかが偶然的であるならば、何ものかは必然的である(si aliquod ens est contingens, ergo aliquod ens est necessarium)」という論法に依拠しているのである。ここに偶然的なものが存在している。単に偶然的なものだけでなく、どこかに必然的なものも存在するはずだ、というわけである。しかし出発点である「偶然的なもの」は、必然的なものの否定というかたちでしか把握されえないのである。あるいは、この問題設定の全体が、必然的/偶然的という区別を採用したことから生じた効果に他ならないのだといってもいいだろう。そしてこの区別の採用自体は必然的でも偶然的でもありえない。区別を採用して初めて、「偶然的か必然的か」と問えるようになるのだから。

複雑性概念のうちには、視座の複数性が含意されてる。この概念の対象となる社会の複雑性は、それらの複数の視座に基づく作動(あらゆる種類のコミュニケーションをこう呼んでおくことにしよう)の総体であるが、同時にそのように記述することもまた、それらの視座のひとつである。それゆえに、複雑性は決して(「自生的秩序」等として?)名指されうる「枠組み」や「基盤」とはなりえない。そもそも、その名指し自体はどこに位置するのか? もし対象から離れたところから名指しが行われているのであれば、そこで捉えられているのはあくまで統一性としての複雑性にすぎないのである。

 だが、おのおのが普遍的で閉じられているがゆえに相互に媒介不能な区別を用いた諸作動が、いかにして秩序を形成しうるのだろうか。統一的な秩序についてのいかなる記述も、ポジティブなかたちをとる以上、選択的なものでしかありえない。だが選択的な視座に基づく諸作動の集合が、現に秩序をもったひとつの(!)社会を形成しているからには、必然的にそれらの統一性を可能にする「基盤」が存在するはずではないか10。そしてまさにその統一的基盤にこそ、「複雑性」という名が与えられるべきではないのか。

(11) ヘーゲルは、「意思の自己限定」に関して次のように述べている。「『私』は自己を限定するが、それはあくまで、この『私』が否定性を自分自身に関わらせる運動であるかぎりのことでしかない。『私』は自分自身に関わるこうした運動なのだから、こうした限定を受けていても、やはり痛痒を感じない。つまり私は、この限定が自分の、しかも理念にかなった限定であるということを、いいかえれば、自分をそう定めたのであるから、その状態にあるのであって、それにけっして縛られることのない単なる一つの可能態にすぎないということを、知っているのだ」(Hegel[1821=1991:142])。あるいは、規定性をもたらすこの外的な存在(王の言葉)は、ラカンのいう「対象a」、すなわち「『快感原則』の閉じた回路を中断しその均整のとれた運動を脱線させる障害物」(Zizek[1992b:50])に相当するということもできよう。だが実は、この「外的」存在である「対象aは空間中に実際に存在する存在物ではなく、それは究極的には、対象に直接到達しようとするまさにそのときに我々を逸らせてしまう空間自体のある歪みに他ならない」(同)。以下の本文で述べることを先取りして、ルーマン流にパラフレーズすれば、こうなるだろう。自己言及的システムは、閉鎖的なトートロジーを打破して(あるいは、そこから生じるパラドックス──「空間の歪み」──を隠蔽して)規定性を獲得するために、外的で偶然的な要因との接触(開放性)を「必要」とする(この「必要」の意味については注12を参照)、しかしその開放性は閉鎖性の系に他ならないのだ、と。馬場[1990:13]でわれわれは、あらゆる言説がそのような外的規定要因として働きうるということを、フーコーやアルチュセールに倣って「非物体的なものの(あるいは、空想的なものの)唯物論」というタームによって表現した。しかし今の議論によれば、そもそも「『物質matter』なるものはなにものでもなくただ空間の彎曲であ」り(Zizek[1992b:54])、したがってそれは「……前もって与えられているものではなく、その存在論的地位がいわば二次的なものなのであって、言い替えれば、ドイツ観念論のもとでこの語が獲得した厳密な意味で構成されたものなのである」([同:51]、なお注8最後の論点をも想起されたい)。こうしてわれわれは、「構成主義的唯物論」といういささか奇妙な立場へと到ることになる。だがこの「唯物論」の内実については別稿に譲ることにしたい。

 ここで注3で言及したジジェクの議論に立返ってみよう。議論の要点はこうであった。民主政はあらゆる独裁者を排除しなければならないが、そうすることによって、あらゆる独裁者の排除を主張する者を絶対的な独裁者の地位に押し上げてしまう。だがジジェクの議論の眼目はその後にある。ジジェクによれば、ヘーゲルは『法の哲学』(Hegel[1821=1991])において君主制を擁護しているが、それは決して彼が「反動的」な思想家だったからではない。むしろヘーゲルにおける君主は、民主主義のこのパラドックスのゆえに意味をもつものとして位置づけられているのである。空白の擁護者自身が空白を埋めているではないかとの批判の前で、民主政は自己規定不能状態に陥らざるをえない。そこに王という、民主政とはまったく無関係の存在が登場して、「これが余の意思だ」という言葉を投げ与えるのである。民主政はこの言葉を手掛かりとして、方針を定めることができる。しかしだからといって王が民主政を代表したり根拠づけたりするわけではない。王の言葉を機能させるのはあくまで民主政のメカニズムなのだから11。王は単にそこに存在するだけの「モノ」として、いわば物理的な足掛かりとして、用いられるのである。王は民主政に統一性を与えるように見える。しかし王が実際に示しているのはむしろ、民主政の統一性は「欠如」あるいは「亀裂」のかたちでしか存在しえないということなのである。ラカンの言葉を借りるならば、「(権威ある)いかなる言表されたものも、その言表行為自体のほかに保証をもってはいない。……すなわち、話されるのが可能な〔統一性を保証する〕メタ言語は存在しない。……〈立法者〉(〈掟〉を立てると主張する人間)が、これを代理すると称して姿を現しても、それは詐欺師としてである」(Lacan[1966=1981:323]、〔〕内引用者)。王の権威を「基礎づける」審級は存在しない。したがって、「君主の概念は、導出された事態などではありえず、むしろ、端的に自分が出発点をなす事態でなければならない」(Hegel[1821=1991:463])のである。詐称している身分をあらゆる行動の出発点とすることこそ、詐欺師の要諦であろう。

(12) 以上の議論を、「法システムが存続していくためには政治による決定が必要である」(あるいは、「政治的決定の意味は法システムの機能要件を充足することにある」)というように解釈してはならない。やや長くなるが、再びヘーゲルから引用しておこう。「王位が空席となったとき、確定した王位継承によって、すなわち、血統による自然な継承によって、党派の分裂が防止されるということは、一つの面として、正当にも夙に王位の世襲制を擁護するために主張されてきたやり方であった。けれども、この面はあくまで結果にすぎない。この面が根拠にされるようなことがあれば、[王位の]尊厳はへ理屈の領域に引き下ろされることになろう。この尊厳の特質は、あくまでこの無根拠な直接態とこの究極の自体性にあるのである。それなのに、もしそのようなことがなされたとすれば、この尊厳を根拠づけるために、それに内属する国家の理念ではなく、それの外部の何か、例えば国家ないし人民の幸福〔福祉〕といったような、それとは異質の一思想がそれに押しつけられることになる」(Hegel[1821=1991:469-70])。「国家ないし人民の幸福」「法システム存続のための機能要件」などについては、事実性による規定がもたらされた後で初めて、語りうるようになるのである。
 またそれゆえに、いまだに事あるごとに繰り返されている紋切り型のルーマン批判、すなわち「ルーマンの『オートポイエーシス』においては、多様性が産出されはするが、それらは結局自己同一的なシステムの(存続の)論理に回収されてしまう」といった議論(例えば、村上[1992:172-3]、柿本[1993])はまったくのナンセンスであるということも指摘しておきたい(むしろわれわれとしては、この批判を「多様性のネットワーク」や「ポストモダンの合理性」を提唱する論者にそっくりそのままお返ししたいところだ)。オートポイエーシス自体が指し示すのは、「無」ないし「亀裂」以外の何ものでもなく、外部からの偶然的な「一撃」がないかぎり、そこにはいかなる「自己同一性」も成り立ちえない。「システムの論理」は事実的規定を前提とする自己観察のレベルにおいてのみ(したがって自己欺瞞のなかでのみ−−つまり詐欺師の言葉を信じる〔ふりをする〕かぎりにおいてのみ)、確定されうるのである。逆説的な言い方をすれば、「システムの論理」とはオートポイエティック・システムの理論にとって、「出発点」や「前提」などではなく、むしろセカンド・オーダーの観察によって読み解かれるべき「症候」、すなわち「普遍主義を裏切るようなある『病理学的』不均衡」(Zizek[1989=1991:252])に他ならないのである。それゆえに、「システムの論理」に対抗するためにシステム理論以外の「根拠」(例えば、「生活世界」や「対話的合理性」など)に依拠する必要はない。というよりも、それらの「根拠」もまた「症候」の一種なのだ。

 形式としてはたらくあらゆる区別においても、民主政と同様の問題が生じてくる。閉じられた区別である形式それ自体だけでは、二項相互の自己言及的関係以外には手掛かりをもたないがゆえに、無規定とまではいわなくとも、無内容にならざるをえない。例えば機能分化して完全に実定的となった法システムは、もはや法の外に根拠をもつような道徳や宗教的戒律に頼って法の内容を定めることができなくなる。実定法が効力をもつのは、それが合法的な手続きに従って定められた(そして、同じ手続きによって改変・廃棄されうる)からにすぎない。それゆえに、そのような法システム総体のレベルでは、「不法行為とは合法的でない行為である、不法でない行為は合法的である」というかたちでの規定しか許されなくなる。あえてポジティブな規定を求めるならば、「法は法である」ということになるだろうか。この無内容な規定に内容を与える(ルーマン流にいえば、「脱トートロジー化」する)ためには、政治システムにおいて下された決定(立法)を自己の作動の前提として採用しなければならない。法は民意に基づく立法行為によって規定され、根拠づけられるのだ、と。だが王の言葉の場合と同様に、政治による決定が法の「根拠」として働くのは、それが「民意」を代表しているから云々ではなく、政治的決定が事実として下されており、それが法システムの自己規定に役立つからにすぎない。政治によって立法が可能になるという事態もまた、法的手続きによって定められているのだから。まさに〈立法者〉は「法の、法による、法のための」詐欺師なのである12

 以上から明らかになるように、選択的視座に基づく作動は、複数的で相互にインコンシステントであってもかまわないのだ。問題は作動の「根拠」や「正しさ」ではなく、ある作動に別の作動が接続しうるということなのだから(Luhmann[1990b:367])。そして接続は、時間の流れのなかで常に生じてしまう。王の言葉が意味をもつのは、王が「余はかく欲する」と実際に述べた(ラカンの言葉で言えば、「言表行為をなした」)からであって、彼が何を欲しているかは問題ではない。王の言葉は最初から「何でもかまわない」のである。しょせん王は「モノ」にすぎないのだから。あるいはモノでないとしても、せいぜいのところ無内容の詐欺師なのだ。念のために述べておくならば、以上のように主張するルーマン自身の議論の意味も、実際に(著作として)コミュニケートされており、たとえ「批判」というかたちではあれ、何らかの反応を引き起こしているということにある。それではルーマンも、そして筆者自身もまた詐欺師だということになりはしないかという点については、問わずにおくことにしよう。詐欺師は自分からはそう名乗らないだろうから。

 しかしだとすると、一定の内容の発言(言表行為)や記述に何が接続されるか(そこから何が生じてくるか)は、発言・記述の内容からは明らかにならないということになる。第一節で述べたように、「コントロール不能」というテーゼからコントロールが生じうるという事態は、その一例である。にもかかわらず個々のシステムは、偶然的に生じた接続結果を、自己の図式を前提としつつ、必然的なものとして解釈しようとする。新たに制定されたこの法は、憲法第何条の精神から必然的に導き出されるものである、といったぐあいにである。あたかも、王が詐欺師ではなく本物であるかのように、である。

 複雑性も、統一性として記述される場合には、本物を詐称する偽の王として働くのである。偽の王の「本来の」素性を調べてみたり、どうしたらその言葉を「正しく」解釈できるかを論じてみても無駄であろう。むしろ必要なのは、複雑性が王として祭り上げられることから何が生じるかを観察・記述することである。もちろんその記述もまた選択的であることを免れえない。しかしだからといって、個々の結果を記述することが無意味だということにはならない。その記述もまた接続可能な作動として生じるのだから。もちろん、記述することから今度は何が生じるのかも、また記述されねばならないのだが(以下同様)。


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