複雑性概念のうちには、視座の複数性が含意されてる。この概念の対象となる社会の複雑性は、それらの複数の視座に基づく作動(あらゆる種類のコミュニケーションをこう呼んでおくことにしよう)の総体であるが、同時にそのように記述することもまた、それらの視座のひとつである。それゆえに、複雑性は決して(「自生的秩序」等として?)名指されうる「枠組み」や「基盤」とはなりえない。そもそも、その名指し自体はどこに位置するのか? もし対象から離れたところから名指しが行われているのであれば、そこで捉えられているのはあくまで統一性としての複雑性にすぎないのである。
だが、おのおのが普遍的で閉じられているがゆえに相互に媒介不能な区別を用いた諸作動が、いかにして秩序を形成しうるのだろうか。統一的な秩序についてのいかなる記述も、ポジティブなかたちをとる以上、選択的なものでしかありえない。だが選択的な視座に基づく諸作動の集合が、現に秩序をもったひとつの(!)社会を形成しているからには、必然的にそれらの統一性を可能にする「基盤」が存在するはずではないか10。そしてまさにその統一的基盤にこそ、「複雑性」という名が与えられるべきではないのか。
ここで注3で言及したジジェクの議論に立返ってみよう。議論の要点はこうであった。民主政はあらゆる独裁者を排除しなければならないが、そうすることによって、あらゆる独裁者の排除を主張する者を絶対的な独裁者の地位に押し上げてしまう。だがジジェクの議論の眼目はその後にある。ジジェクによれば、ヘーゲルは『法の哲学』(Hegel[1821=1991])において君主制を擁護しているが、それは決して彼が「反動的」な思想家だったからではない。むしろヘーゲルにおける君主は、民主主義のこのパラドックスのゆえに意味をもつものとして位置づけられているのである。空白の擁護者自身が空白を埋めているではないかとの批判の前で、民主政は自己規定不能状態に陥らざるをえない。そこに王という、民主政とはまったく無関係の存在が登場して、「これが余の意思だ」という言葉を投げ与えるのである。民主政はこの言葉を手掛かりとして、方針を定めることができる。しかしだからといって王が民主政を代表したり根拠づけたりするわけではない。王の言葉を機能させるのはあくまで民主政のメカニズムなのだから11。王は単にそこに存在するだけの「モノ」として、いわば物理的な足掛かりとして、用いられるのである。王は民主政に統一性を与えるように見える。しかし王が実際に示しているのはむしろ、民主政の統一性は「欠如」あるいは「亀裂」のかたちでしか存在しえないということなのである。ラカンの言葉を借りるならば、「(権威ある)いかなる言表されたものも、その言表行為自体のほかに保証をもってはいない。……すなわち、話されるのが可能な〔統一性を保証する〕メタ言語は存在しない。……〈立法者〉(〈掟〉を立てると主張する人間)が、これを代理すると称して姿を現しても、それは詐欺師としてである」(Lacan[1966=1981:323]、〔〕内引用者)。王の権威を「基礎づける」審級は存在しない。したがって、「君主の概念は、導出された事態などではありえず、むしろ、端的に自分が出発点をなす事態でなければならない」(Hegel[1821=1991:463])のである。詐称している身分をあらゆる行動の出発点とすることこそ、詐欺師の要諦であろう。
形式としてはたらくあらゆる区別においても、民主政と同様の問題が生じてくる。閉じられた区別である形式それ自体だけでは、二項相互の自己言及的関係以外には手掛かりをもたないがゆえに、無規定とまではいわなくとも、無内容にならざるをえない。例えば機能分化して完全に実定的となった法システムは、もはや法の外に根拠をもつような道徳や宗教的戒律に頼って法の内容を定めることができなくなる。実定法が効力をもつのは、それが合法的な手続きに従って定められた(そして、同じ手続きによって改変・廃棄されうる)からにすぎない。それゆえに、そのような法システム総体のレベルでは、「不法行為とは合法的でない行為である、不法でない行為は合法的である」というかたちでの規定しか許されなくなる。あえてポジティブな規定を求めるならば、「法は法である」ということになるだろうか。この無内容な規定に内容を与える(ルーマン流にいえば、「脱トートロジー化」する)ためには、政治システムにおいて下された決定(立法)を自己の作動の前提として採用しなければならない。法は民意に基づく立法行為によって規定され、根拠づけられるのだ、と。だが王の言葉の場合と同様に、政治による決定が法の「根拠」として働くのは、それが「民意」を代表しているから云々ではなく、政治的決定が事実として下されており、それが法システムの自己規定に役立つからにすぎない。政治によって立法が可能になるという事態もまた、法的手続きによって定められているのだから。まさに〈立法者〉は「法の、法による、法のための」詐欺師なのである12。
以上から明らかになるように、選択的視座に基づく作動は、複数的で相互にインコンシステントであってもかまわないのだ。問題は作動の「根拠」や「正しさ」ではなく、ある作動に別の作動が接続しうるということなのだから(Luhmann[1990b:367])。そして接続は、時間の流れのなかで常に生じてしまう。王の言葉が意味をもつのは、王が「余はかく欲する」と実際に述べた(ラカンの言葉で言えば、「言表行為をなした」)からであって、彼が何を欲しているかは問題ではない。王の言葉は最初から「何でもかまわない」のである。しょせん王は「モノ」にすぎないのだから。あるいはモノでないとしても、せいぜいのところ無内容の詐欺師なのだ。念のために述べておくならば、以上のように主張するルーマン自身の議論の意味も、実際に(著作として)コミュニケートされており、たとえ「批判」というかたちではあれ、何らかの反応を引き起こしているということにある。それではルーマンも、そして筆者自身もまた詐欺師だということになりはしないかという点については、問わずにおくことにしよう。詐欺師は自分からはそう名乗らないだろうから。
しかしだとすると、一定の内容の発言(言表行為)や記述に何が接続されるか(そこから何が生じてくるか)は、発言・記述の内容からは明らかにならないということになる。第一節で述べたように、「コントロール不能」というテーゼからコントロールが生じうるという事態は、その一例である。にもかかわらず個々のシステムは、偶然的に生じた接続結果を、自己の図式を前提としつつ、必然的なものとして解釈しようとする。新たに制定されたこの法は、憲法第何条の精神から必然的に導き出されるものである、といったぐあいにである。あたかも、王が詐欺師ではなく本物であるかのように、である。
複雑性も、統一性として記述される場合には、本物を詐称する偽の王として働くのである。偽の王の「本来の」素性を調べてみたり、どうしたらその言葉を「正しく」解釈できるかを論じてみても無駄であろう。むしろ必要なのは、複雑性が王として祭り上げられることから何が生じるかを観察・記述することである。もちろんその記述もまた選択的であることを免れえない。しかしだからといって、個々の結果を記述することが無意味だということにはならない。その記述もまた接続可能な作動として生じるのだから。もちろん、記述することから今度は何が生じるのかも、また記述されねばならないのだが(以下同様)。