そもそも、支えのない状態においていかにして複雑性について語りうるのだろうか。あるいはこの問いは無意味かもしれない。現にわれわれは今でも複雑性について語っているのだから。だがすべてに適用されうるような複雑性というこの概念は、もはや特定の対象の属性ではありえない。むしろそれは単一の属性ではなく、対象の観察において普遍的に用いられる図式としての区別だと考えるべきではないのか。例えば「合法」という概念は、合法的な行為には適用できるが不法な行為には適用できないという、反対項による限定なしには意味をなさない。だが合法/不法という区別の図式は、二項目だけで完結しており、「第三項」を必要としない(あるいは、その存在を許さない)がゆえに(例えば、合法/不法/不真面目といった組合せはまったく意味をなさないだろう)、いかなる行為を−−あるいは、自然現象をすら(注8を参照)−−観察する場合でも普遍的に用いられうるのである。この意味で、合法/不法という区別は「閉じられている」といってもいいだろう。ルーマンは、対象を観察・記述する際に用いられる普遍的で閉じられた区別を、スペンサー=ブラウンにならって(Spencer-Brown[1969=1987])、「形式」と呼んでいる。それに従うならば、複雑性とはある対象がもつ(そして他の対象はもっていない)属性ではなく、あらゆる対象を観察するために用いられうるさまざまな形式のうちのひとつなのだ、ということになる。
ルーマンによれば、複雑性について語られるとき前提とされているのは、〈諸要素が完全に関係づけ可能/選択的にのみ関係づけ可能〉という区別である。あるシステムに含まれる要素の数が増大するにつれて、それらの間に成立しうる関係の数は飛躍的に増大する。したがってそれらのすべてを同時に(完全に)実現することはもはや不可能になる。このように要素間の関係を選択的に実現しなければならなくなったシステムを、われわれは「複雑である」という。ルーマン自身の言葉で定義しておこう。「相互に関連する諸要素の集合(Menge )において、それらの要素に内在する結合能力の限界ゆえに、あらゆる要素がいつでも他のあらゆる要素と関係することができなくなった時、その集合を複雑であるというのである」(Luhmann[1984:46])。〈完全な/選択的な〉という区別を用いて対象を記述したとき、その対象が「複雑な」ものとして登場してくる、というわけだ。「このように考えるならば、〔複雑性という〕この概念が指し示しているのはもはや対象(あるいは、対象の種類)ではないということは明らかである。むしろそれが意味しているのは、特定の区別を用いてなされる対象の記述〔の方法〕のことなのである」(Luhmann[1990a:62]、〔〕内引用者)6。
以上の議論から派生するいくつかの論点について簡単に触れておくことにしよう。
第一に、〈完全な/選択的な〉というこの区別は、対のかたちでしか用いることができない。まず諸要素のあいだの完全な関係づけを確定して、それとの比較において現存の関係の選択性について語る、というように一方向的に進んでいくわけにはいかないのである。というのは、完全な関係づけは不完全な関係づけの否定を通してしか語りえないからだ7。あるいは、完全な関係づけは、不完全な関係がそこから選択されてくる出所(Woraus)である、といってもいいだろう。ある関係づけの様式をポジティブに確定・規定したとたん、その関係の布置(あるいは、その一部)と機能的に等価な他の可能性が視野に入ってくることになる。今はこの関係づけが実現しているが、あの関係づけでもよかったはずだ、と。規定された関係の布置は、他のあらゆる可能性の否定を伴わざるをえないのであり、その意味で選択の結果と見なされる他はない。規定は「諾(Ja)よりも多くの否(Nein)を産出する」(Luhmann[1971a:39])。完全な関係づけは、この「否」を通して現れてくるのである。
それゆえに、「複雑性」をめぐるルーマンの議論を、次のように解釈してはならない。すなわち、「それ自体として」複雑な世界と、認識ないし情報加工能力のうえで限界のあるシステムとの格差のゆえに「複雑性の縮減」が必要となる、というようにである。「それ自体として」複雑な世界は、ある意味では選択された関係の方から「遡って」見いだされたものに他ならないのである。「ある意味で」といったのは、選択された関係もまた完全な関係づけのほうから「遡って」見いだされねばならないからである。いずれにせよ複雑性は、システムから独立して存在し、ただそれを前提として受け入れるしかないような「所与」ではないのである。複雑性はシステムによって「構成される」のだ、といってもよい8。
第二に、〈完全な/選択的な〉という区別は、いわばそれ自身のうちへと折り返されねばならない。つまりこの区別は、当の区別を区別自身に適用することを要求しているのである。
先にも述べたように、形式としてのこの区別は普遍的であり、かつ閉じられている。あらゆる対象を、この区別を用いて観察・記述することができる。いかなる要素も完全に関係づけられるか、それとも選択的に関係づけられるかのどちらかであり、どちらか以外ではありえないのである。しかしあらゆるものに適用されうるということは、複雑性を形成するこの区別のみに与えられた特権では決してない。経済システムの作動の前提となっている〈支払い/不支払い〉という図式もまた、あらゆる対象の観察において用いられうるのである。学システムにおける〈真/偽〉、法システムにおける〈合法/不法〉などについても事は同様である9。機能的に分化した各システムは、それぞれの区別(「コード」と呼ばれる)を自己の作動の前提とするが、その際、「ひとつの機能システムは、他のシステム用の他のコードが選択状況をつくり出すという点を考慮しなくてよい(また考慮してはならない)のである」(Luhmann[1988:86=1991:71])。各々の区別がそれぞれ普遍的な適用可能性を有しているがゆえに、相互を媒介するような観点は存在しえない。二つの区別の関係について論じられる際には、第三の区別が「盲点(blinder Fleck)」の位置に置かれねばならない。例えば、〈真/偽〉を前提とする学システムにおいて、経済と法の関係について問う場合のように、である。もちろん逆に、現在の学に対する法的規定がはたして経済的に引き合うのかなどと問うこともまた可能である。いずれの場合でも、明らかになるのは、学から見た経済と法の関係、経済から見た学と法の関係などにすぎないのであって、二つの区別の関係を「客観的に」(すなわち、いかなる区別に対してもニュートラルに)捉える(媒介する)ことはできないのである。いうまでもなくおのおののシステムは、自分のものの見方こそが「客観的」であると主張するだろう。だが実際には「システムから独立した〈客観的存在〉などというものはない。あるのはただ、関係〔=区別〕の関係づけのかたちをとる客観化の諸戦略のみである」(Luhmann[1977:69 ])。
複雑性を構成する区別もまた、普遍的に適用可能な諸区別のうちのひとつにすぎない。しかし他方で、複雑性は「特権的」な位置を占めているともいえる。というのは、件の区別のうちに、当の区別が多数のうちの一つにすぎないということが含意されているからだ。「複雑性概念の根底にあるのは─非選択的な関係づけから選択的な関係づけを区別する形式である。しかし他方で、このように区別することからしてすでに、一方(選択的な)か他方(完全な)かの選択を強いるのである」(Luhmann [1990a:72])。〈完全な/選択的な〉という区別のなかに、選択性の問題が再登場してくる。すなわち、この区別自体は完全な関係づけなのか、それとも選択的な関係づけなのか、というわけだ。答は明らかであろう。この区別が対象の観察・記述の際に用いられうる多くの形式のうちの一つである以上、「あの形式ではなくこの形式を」という選択の手続き抜きにそれを採用することはできないのである。したがって複雑性は、〈完全な/選択的な〉という区別を用いた記述であると同時に、自分自身が多くの可能な選択的記述のうちの一つでしかないということを示していることになる。
ここまでの議論によって、最初に提起しておいた疑念に、とりあえず答えることができる。対象である社会が複雑であると述べるだけでは不十分である。そう述べること自体もまた複雑性それ自体のうちにあるという自己包含関係こそが複雑性を形成するのだから。だとすれば、従来複雑性の概念がほとんど無定義のまま用いられてきたのにはもっともな理由があるのかもしれない。つまり、今述べたような意味で複雑性自体が自己言及的な性質をもっているからである。複雑性は、単一の記述によって概念的に再現するには、あまりにも複雑すぎるのである(Luhmann [1984:45])。