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前回のメイルで、
「象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアは、二値コード化されているはずなので、諸要素がリジッドに結びつけられているのではないか、それにもかかわらず、それに「メディア」という語を使用するのはどうしてなのか」
という質問をいたしましたが、その解答のヒントが見つかりましたので御報告いたします。つまり、これらメディアは、意味というもっとも一般的なメディアがそれぞれの機能システムのために特定化されたものである、というのがルーマンの考えのようで、そこから「メディア」という名称を継承している、ということなのでしょう。よって、その内部において形式が形成されたとしても、名称の由来はそこにはないのであってみれば、メディアのまま名称を変更する必要がない。しかし、また別の可能性としては、コミュニケーション・メディアが形式を獲得して、いわば排他的連言のように、われわれに顕在的に迫ってきたとしても、無数の組合せ可能性がそれでも(潜在的/理論的に)留保されているから、メディアという名称でもよい、ということも考えられます。後者の場合は、メディアと形式との差異としてしか現れないということに対応する事態と解釈することができますが、それでも、これだけでは「コミュニケーション・メディア」が、なにゆえに、「メディア」と称されるのかは不分明であったわけです。というのも、後者だけを論拠に、コミュニケーション・メディアを「メディア」と称するならば、メディアと形式という形式はア・プリオリに優等項と劣等項との差異を帯びることなってしまいますが、ルーマンにそのような記述は存在しないように思われるからです(もっとも、いずれ発見されるかもしれませんが)。
というわけで、一人相撲のような格好になってしまいましたが、前回のメイルでの質問はこれで一応決着をみた、ということにしたいと思います。お騒がせしました。しかし、ロジックがあるのか、という問いには答えたことにはならないでしょうから、こちらは継続して考えなければならないでしょう。
菅原さんがご自分で決着をつけられたようですので、特に申しあげるべきこともないのですが、思いつき程度に。
菅原さんが、[01409]で、次のように書いておられたのは、やや意外でした。
象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアは、二値コード化されているはずなので、諸要素がリジッドに結びつけられているのではないか、それにもかかわらず、それに「メディア」という語を使用するのはどうしてなのか、と。
この問いの立て方だと、「リジッドな結合」は、それ自体としての対象に帰属させうる属性であるとみなされていることにならないでしょうか。菅原さんご自身[01410]でも述べておられるとおり、「何と比べてリジッドなのか」というように問われなければなりません。つまりメディア=ルーズ/形式=リジッドという区別(=形式)の一項としてのみ「リジッドな……」と語りうるのであって、二値コードが「それ自体」リジッドであるかどうかと問われても、答えようがありません。コード化されていない、まったく事実的にのみ生じるコミュニケーションの結合に比べれば(あるいは、菅原さんご指摘のように、意味というよりルーズな結合に比べれば)リジッドでしょうし、コードを前提にして形成される特定のプログラム(例えば、真/偽のコードのもとでの特定の学知的理論)に比べればルーズであるとしか言いようがありません。そして後者の区別のもとで観察されている限り、二値コードはメディアとして働いているということになります。
機能分化した現代社会での通常のコミュニケーションにおいては、プログラムに対する疑念や反論は生じるが、二値コードそのものは疑われることなく通用し、多用なプログラムへと再結合され続ける。その限りにおいて、二値コードはコミュニケーション・メディアである……ということになります。その点で、二値コードを「コミュニケーション・メディア」と呼ぶのは、「単に分析的な」、つまり研究者の恣意的決断に基づく議論ではなく、現代社会のシステム論的記述を踏まえた判断でもあるはずです。
最後の論点は、盛山和夫先生の新著 『権力』p.174 以下の議論とも関わってくるように思うのですが、その点については、その気になったらまた後ほど、ということで。
馬場様および皆様へ。ご無沙汰いたしておりました。
馬場さん発の
Sent:Thursday, July 13, 2000 3:19PM
Subject:[luhmann:01395] Re: 二つのメディア概念
に立ち返り、メディアの話を続けることを御許し下さい。
まずは馬場さんの御発言の一部を引用いたします:
前者に関しては、菅原さんも触れておられたように思いますが、Die Kunst der Gesellschaft, S.172 で明らかにされています。質料/形相の場合とは異なって、メディア/形式の区別は多重的に用いられうるからである、と。
【略】
その点で、「コミュニケーション・メディア」について論じるのは、必然性があるか否かについては判断を保留しますが、それなりの理由があるように思われます。
この中で、いまひとつ判然といたしませんのは、「ルーズに/リジッドにカップリングされる要素も、それ自体、別のメディア を前提とした形式である」という箇所です。これは『社会の芸術』(S.172)のどの文章に基づくものでありましょうか。また、「同時に文という形式のメディアでもある」というのも、どの文章に依拠されての御発言でしょうか。
このような瑣末な点を取り上げましたのは、「メディア/形式-関係の進化的重層構造(化)」の話と、ある状態にある--じつは、一部のものに関しては、「顕在性/非顕在性(潜在性/可能性)」の区別ともリンクしている--或るものをメディア と断定するのか、形式と断定するのかという話とが、混同されているように思われて仕方ないからです(密接に関連していることは否定しませんが)。というのも--ルーマンがそのような表現を許してくれるかどうかは分かりませんが--前者は経験的で綜合的な問題であるのに対して、後者は経験的で分析的な問題であり、やはり区別されなければならない、と思うからです。
そして、後者を前者に還元しますと、以下の反証例を提示することができます(また、今回は割愛しますが、理論上のアポリアも)。
すなわち、ルーマンが「メディア/形式の区別」を「形式」であると断定したとき、彼は当の「区別」以外のなにものも引き合いに出してはいない、と。
あるいは、貨幣は使用されるとき(=顕在性の側にあるとき)は「形式」であるといわれますが――コミュニケーション・メディアはつねにすでにコード化されて現れる=使用される――、このときも、貨幣以外の何ものかとの比較対照のうえ、「形式」であると断定されているわけではありません。また、使用以前(=可能性・潜在性の側にあるとき)、貨幣は「メディア」と断定されていますが、この場合も同様です(貨幣の話は『社会の経済』参照)。このことは「権力」の場合とても同様ではないでしょうか。
そこで再び馬場さんの御見解を引用させていただきます:
権力というメディアが通用しているということは、その権力をあのためにもこのためにも動員しうるという関係結合の余地が幅広く想定されている(ゆるやかなカップリング)ということを意味します。
【略】
その ように緩やかな幅広い結合可能性をもった権力を前提として特定のコミュニケーション連鎖を形成することが「形式」の確定にあたる、ということでうまくつながらないでしょうか?
まず、「ハイダーの議論とコミュニケーション ・メディア論が比較的うまくつながっているように思えたのは」とございますが、私はハイダーとコミュニケーション・メディア論との接合の適否に関しましては問題にしていません――そこまでの知識がないから――ので、この点に関しましては何も論じる資格はありません。
そこで、コミュニケーション・メディアが話題となっているということで、再び「顕在性/非顕在性(潜在性/可能性)」の区別とのリンク――リンクとはいえ、それは「外的」なものに他ならず、顕在性=形式という等式が論理-必然的に成り立つわけではなく、経験的に両者が交差する場合があるという程度のことでしかない――を念頭に置けば、権力の具体的な行使に先立って(可能性の状態にある)、馬場さん御指摘の通り「命令の実行/回避されるべき選択肢」として、それぞれ何を持ってくるか、ここではさまざまな可能性に開かれている(「サンクション手段が十分に一般化されれば」というのは、以下の開放性を経験的に調達するための前提条件として、メディアの諸要素が形式となっているということ)。
よって、このとき、権力は要素の組み合わせ可能性の開放性が確保されている状態にあるので、定義から(メディア/形式の区別から)「メディア」であると断定される。この権力が具体的に行使される段になれば、「言うことを聞け/解雇」あるいは「金払え/暴力行使」といったさまざまな要素の組み合わせのなかから、ひとつだけが選び出されて自我のもとに届けられる。このときは、それ以外の要素の組み合わせがないものとして(そのつどの)権力は具体的にコード化される(別様にでもあり得る、というふうな問いを立てられるというのは別の話――念のため)。この状態にある権力は定義から「形式」--形式とメディアとが同時に顕在化しなければならないということならば、形式化されたメディア--である。このように考えますが、いかがでしょうか。
余談:
馬場さん:
ルーマンは同じ箇所に、権力の限界は、 自我(命令の受け手)が他者(権力保持者)に、サンクションを行使するよう強制することのうちに(も)あるとの奇妙な一節をさしはさんでいる のだと思います
について。
自我によってサンクションの側が選択されたときの他者と自我の(予想)利得を
(他者/自我)=(-3/-4)
と仮定しますと、自我は他者に対して
「やれるもんならなってみー。俺も損するが、おめぇーも血流すことになるぜー(-3の損はするぜー)」(言葉使いが悪くてすいません)
とブラフをかけることができる。
他者としては、少なくとも自分(他者)にとっては正の利得となるような選択肢のほうに、自我の行為が接続するよう自我を動機づけたいわけですから、サンクションの側が選択されたならば動機づけとしては失敗ということになるでしょう。(そして、他者はそれに対して何かしらの反応を示さなければならない=サンクションの行使を強制される格好になる。)しかし、自我の選択がサンクション側に接続する可能性を“つねに”排除するほど、権力は規定力を持っているわけではないので(ブルーマーの構造概念を髣髴とさせる)、サンクションの側が選択されるのは他者にとっても痛いわけです。よって、ここに権力の限界を見ることは不思議ではない。
しかも、(-3/-4)というのが他者の事前予測にすぎないとすれば、自我がサンクションの行使ウェルカムの態度をとり、他者が実際にそれを行使したときの実際の利得は(-8/-3)になるかもしれない。いま、サンクションが物理的強制力の行使であったとするならば、暴力行使のリスクは他者にとって予想外に高くつくこともあり得る。暴力を行使すれば、他者への人格的信頼が失われることもある――「××は血も涙もねぇー」:権力は人格的信頼によって補完されなければならないというのが、ハーバーマスのパーソンズ批判を受けてのルーマンの見解だったと思います――、行使しなければ、「ナメラレル」ということもあるでしょうね。「しかしこれは本題とは関係ない話ですね。」
おしまい。
以上の文章は多分に記憶に基づいて書いていますので、事実誤認がありましたら皆様御指摘下さい。
追伸。アナロジーとロジック(演繹)は区別されなければならない。