エスノメソドロジー |
ルーマン |
研究会 |
馬場靖雄論文書庫 |
そのほか |
締め切りがいよいよ切迫してきました。この先あまりまとまった時間がとれそうにありませんので、とりあえず思いつきを書き連ねて、菅原さんに補足をお願いしたいと思います。
この中で、いまひとつ判然といたしませんのは、「ルーズに/リジッドにカップリングされる要素も、それ自体、別のメディアを前提とした形式である」という箇所です。これは『社会の芸術』(S.172)のどの文章に基づくものでありましょうか。また、「同時に文という形式のメディアでもある」というのも、どの文章に依拠されての御発言でしょうか。
『社会の芸術』の参照は「最終要素」に関してのみです。語と文の例は、確かライデン学派関係の論文でだったと思いますが、さしあたり目に付いた別の箇所を引用しておきます。
言語がメディアであるのは、それが何かを(多少とも規定されたものを)言うために用いられる限りにおいてである。それに対応して、われわれにとって真理がメディアとして通用するのは、それが、理論を定式化し、文を真ないし非真として指し示すための契機を与えてくれる限りにおいてである。(Die Wissenschaft der Gesellschaft, S.182-183)
ここでは明らかに、言語-真/非真のコード(真理)-文という、規定性の階層関係が想定されているように思われます。言語一般がもたらすルーズな結合可能性を背景とすれば、真/非真という区別は、より柔軟性の小さい、規定されたコミュニケーションの接続を可能にする。しかしそのコミュニケーションも、特定の理論や文をめぐるより「具体的」なコミュニケーションとは、より幅広い(無規定な)接続可能性をもつという点で区別される、というように。
それとの関連ですが、菅原さんが貨幣を例に主張されようとしていることが、よく理解できません。貨幣が ある場合には形式として、別の場合にはメディアとして登場してくるなら、それはすなわち、メディアか形式かは、何から区別されるかによって決まってくるということを意味しているのではないでしょうか。たとえ区別の他項が明示されていないにせよ、です。また、分析的/経験的(ミスタイプされてますが、これでいいんですよね?)なレヴェルを混同しているというご指摘についても、正直私にはよく理解できません。メディア/形式の区別は、固定的なメルクマールによるのではなく、「観察者に依存した区別」(Die Gesellschaft der Gesellscaft, S.195) です。
その点ではこの区別は分析的である。しかしそれは「単に分析的な」ものでもない。なぜならばこの区別が、現実のコミュニケーションにおいて常に用いられているからである--社会学理論のコミュニケーション(つまり、ルーマンが現にそう述べているということ)も含めて。である以上、この区別は常に他のコミュニケーションとの接続という制約のもとに置かれるのであって、決して恣意的ではありえない。
ルーマンにおける分析的/経験的の区別は、常にこのようなかたちで再結合されているのであって、無条件に前提とされるべきものではありません。
菅原さんは結局のところ、メディアであるかないかを「それ自体として」判別する基準を求めておられるのでしょうか? もしそうなら、それは何のためになのでしょう。そしてまた、「メディア/形式の区別は最終要素への問いを省いてくれる」という論点と、どうかみ合ってくるのでしょうか。
菅原です。
【略】
(A) 誤植の件。馬場さんのメイルでは「分析的/経験的」というように、わざわざスラッシュが挿入されていますが、これは誤解を招く表現ですので御注意下さい。私は「A or B」と言っているのではなく、「A and B」と言っているのですから。
私の主張は以下の通りです。
あるもの(x)をメディアと規定するのか、形式と規定するのか、これは経験的で分析的な問題である。なぜならば、ある時点において、Xを構成する諸要素の結びつきがルーズであるのかリジットであるのかについての経験的な情報さえ提供されたならば――このことは「本質」ということを否定します――そのXがメディアなのか、形式なのかは、定義より一義的に決定するからである。
これに対して、メディアと形式との階層構造の問題は、それが進化の帰結であるとされていることからも窺い知れるように、何と何とが階層構造を形作り、なおかつ、そのうちいずれがメディアであり形式であるのかは、まったくもって経験的にしか決められないという意味で、経験的かつ綜合的な問題である、と申したわけです。
余談ですが、ルーマンが「分析的」というときには、対象の、要素への(無際限の)分解可能性を含意させていることが多いのですが、私が用いているのは、それとは意味合いを異にしている、というのは御理解いただけましたでしょうか。 ――それで、前回のメイルでは、ルーマンの通常の用語法から逸脱することを憂慮いたしまして、ルーマンが許してくれるかどうか、という留保を付け加えておいた次第です。これに関連して、「その点ではこの区別は 分析的である。しかしそれは『単に分析的な』ものでもない。 なぜならばこの区別が、現実のコミュニケーションにおいて常に用いられて いるからである」をもって私を批判することはできません。なぜならば、冒頭で注意を促したように、私は「分析的」と「経験的」とを対立する概念として使っていないからです。
しかし、この馬場さんの御高説は別の意味で大変に含蓄のあるものであることは認めなければなりません。というのも、この区別が分析的であることから生じる無限後退が、当の区別が現実のコミュニケーションのなかで用いられるときには、何らかの仕方/理由で遮断される、ということを暗示するからです。この点については最後に。)
(B)「ここでは明らかに、言語-真/非真のコード(真理)-文という、規定性の 階層関係が想定されているように思われます」という点について。
ここでの御説明にはある一定程度の説得力を認めますが(しかし、よくよく考えると腑に落ちない)、果たして、直線的な(あるいは、「深度」の差異を反映しつつ、外周円から中心へと向かう同心円構造を示すような)「規定性の階層関係」が――ここに挙げられた3者に関する限り――想定されていることは「明らか」でしょうか。
馬場さんが引用された文章だけを拝読いたしますと、そこでは「言語」と「多少とも規定されたもの」(=文?)との関係と、「真理」と「文」との関係とが論じられているだけで、言語と真理とのあいだに階層構造が成立していることは論及されていないように思われます。したがいまして、たとえば、言語と文とのあいだに成立するようなメディアと形式との階層関係が、真理と文とのあいだにも成立する、と主張されている、との解釈も十分に成立します――「進化的階層構造」が話題となっている他の論文でも、3者は直線的な関係にはなっていないように思われますが。つまり、ここで用いられている理屈は、「類比」であって、直線的な「規定性の階層関係」ではない、と。引用された部分に、「それに対応して」という表現が用いられているのは、「類比」が用いられていることを示唆してはいないでしょうか。
つぎに、「言語一般がもたらすルーズ な結合可能性を背景とすれば、真/非真という区別は、より柔軟性の小さい、規定されたコミュニケーションの接続を可能にする。」ということですが、いったい何を持って「言語一般がもたらすルーズな結合可能性」ということを主張できるのですか。「もたらす」というのはどういう意味でしょうか。このとき「言語一般」と「真理」を構成している要素は何でしょうか。
余談ですが、馬場さんは、コミュニケーションをもって階層構造を終えられていらっしゃいますが、それはどのようにして正当化されるのでしょうか。「この区別は常に 他のコミュニケーションとの接続という制約のもとに置かれるのであって」との文言が(唐突に)付け加えられた(外挿された)理由は、結局のところ、階層構造の発想からは、最終要素を特定化できないためである、とお見受けいたしますが、いかがでしょうか。
そうしますと、馬場さんにおかれましては、「最終要素」はコミュニケーションということになりますが、メディアや形式を構成する要素に関して、その「最終要素は…」という可能性はございませんか。システムの(作動上の)最終要素とメディアや形式を構成する要素とは同じものなのでしょうか――とりあえず、(E)においては、双方の可能性に対応できる解答を用意したつもりですが、いったい、どちらなんでしょうか。
また、言語と真理とのあいだに階層関係が成立しないという事態は――それが正しいとしての話ですが――理論的出自が異なる言語と真理というふたつのメディア概念が、文を交点として交差する経験的可能性が確保されたことを意味しますでしょうから(馬場さんが異議を唱えられた)私の最初のメイルの発言も強ち間違いではない、ということにもなるでしょう。
(C)「菅原さんは結局のところ、メディアであるかないかを『それ自体として』判別 する基準を求めておられるのでしょうか? もしそうなら、それは何の ためになのでしょう。」という点に関して。
繰り返しになりますが、「メディア/形式の区別」が「形式」であると断定されるさいに、この区別以外の何ものかが引き合いに出されて、「形式」である、と断定されているわけではないということに、私のこだわりがあります。したがいまして、あるもの(X)をメディアまたは形式と判定するさいに、そのあるものを構成する要素の結びつきの状態以外の何かに、メディアまたは形式であることの判定基準を求める必要はないし、ルーマン自身もそのような仕方で「メディア/形式の区別」を「形式」と断定しているわけですから、「何のため」と問われたならば、(目聡い批判者ならば、容易に気づくであろう)遂行的矛盾の誹りからルーマン救い出すためである、と申し上げたいと思います――(Dも御覧下さい)――「あなたの言っていることと、ルーマン自身の記述・説明は違っているではありませんか」と批判されたときの用心です。(この矛盾は、ルーマンの発言をシステムの操作である、と見なしても成立します。)
(D)つぎに、私が行った区別をひとつの操作のなかに癒着させると、ある種のアポリアが生じる、ということを論じておきたいと思います。題材として「メディアか形式かは、 何から区別されるかによって決まってくるということを意味しているのではないでしょうか。たとえ区別の他項が明示されていないにせよ、です。」を取り上げてみたいと思います。
まず、本題に入る前に、後者の文は支持し難いことを申し上げたいと思います。「区別の他項が明示されていない」のに判定が可能であるならば、他の事例において(階層構造が話題となっているところで)、わざわざ「他項」を明示して「メディア/形式」を判別することは冗長である、との批判が寄せられましょう――この批判を回避するためにも、規定性の話題と階層構造の話題を切り離す必要があるわけです。そして、ここからが本題ですが、この(馬場さんより引用いたしました)主張を堅持するならば、ある種の論理的アポリアが生じ、そのアポリアを解決するためにも、私の措置が役に立つと思います。
あるもの(X)が、メディアであるか形式であるかを判定するさいに、Xが「何から区別されるかによって決まってくる」ならば、その「何」(y)は、xの「メディア/形式」の判定に先立って、「メディア/形式」のいずれかであることが決せられていなければならない――さもないと、Xがメディアであるのか、形式であるのかを判定するための情報が提供されないからである。しかるに、yが「メディア/形式」のいずれかであることが先に決せられているためには、
ここで、第4の方途として「反照規定」を想起されるむきもあるかと思われるが、それが不可能であることは、ここで叩き台とされたアポリアがそもそも反照規定のアポリアの一変奏であることから明らかでしょう。――馬場さんの「規定性の階層関係」の発想は、この反照規定にもっとも親和的であるようにも思われますが、その発想は、ルーマンが「メディア/形式の区別」を(いわば)<抽象的・悟性的に>使用しているところに、ヘーゲル流の<反省>を持ち込むものではないでしょうか(この最後の部分は印象批評ですので、論証抜きで否定して下さって結構です)。
(E) 「最終 要素については語りえない」という話と、「『メディア/形式の区別は最終要素への 問いを省いてくれる』という論点」とは、同じ「最終要素」という表現が用いられていますが、同じものを意味しているのでしょうか。
「語り得ない」とは不可能性を意味しますが、「『省いてくれる』」というのは不必要を意味します。両者の文を一括して、不可能だから不必要と解釈するわけにもいかないでしょう。私見では、最初の「最終要素」というのは(ルーマンが言うところの)「把握不可能なもの」という意味での「最終要素」のことであり、後者の「最終要素」というのは「最終要素はシステムが決定する」と言われるときの「最終要素」のことだと思われます。
それでは、両者のあいだには、どのような差異があるのでしょうか。直感的に言っても、前者の「最終要素」の話は無限後退を暗示しますが、後者の「最終要素」の話はそうした無限後退の遮断を暗示するわけですから、やはり異なったものである、との印象は得られるでしょう。では、理論的にはどう区別されるのでしょうか。前者は「システム準拠」を無視した場合の話であり、後者は「システム準拠」を前提とした話である。つまり、システム準拠の有無が、この「最終要素」概念の差異をもたらすのです。
ならば、「メディア/形式の区別は最終要素への 問いを省いてくれる」のはなぜか。それは「システム準拠」を前提とするならば、当のシステムの最終要素が何であるのか、少なくとも、それ以上は進むことのできない地点はどこか、ということが確定されるからです。そして、ルーマンも「メディア/形式の区別はシステム準拠を前提とする」と申しております。(ここでの議論は、[社会システムの]最終要素=コミュニケーションの場合にも、メディアや形式を構成する諸要素の場合にも対応するようになっておりますが、省略可能な最終要素についての問いと言われるときの「最終要素」とはどちらなんでしょうね。後者である場合には、「それ以上は進むことのできない地点はどこか、ということが確定される」だけで、つまり、何ではあり得ないかが確定されるだけで、具体的に何なのかを確定したいのであるならば、進化の結果であるから現実を見なさい、ということになるでしょうね――経験的で綜合的だから。だから、理論的に問うてみてもどうしようもない?)
したがいまして、「規定性」の話から、あるいは、「階層構造」の話から、最終要素の問題に関する解答が導き出されなくとも、私の場合は、まったく困らないわけです。なぜならば、その解答は「システム準拠」に求められるべきことだからです。「メディア/形式の区別」はさまざまな発想や操作をともないながら作動しています、「規定性」や「進化的階層構造」「システム準拠」、これらは当の「区別」のもとに集められ、ボロメオの輪のように――ここにはラカン的な含意は一切ありません、単に見え姿だけを拝借しただけのものです――結びついている。これをもって「『メディア/形式の区別は最終要素への問いを省いてくれる』という論点と、どうかみ合ってくるのでしょうか」の答えとしたいと思います。
追伸。今回は、議論を簡単にするため、ルーマンがこの文脈において密かに持ち込んでいる「存在根拠/認識根拠」の区別(あるいは、これに類する区別)を一切無視しています。御注意下さい。