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菅原です。早速のレスポンスありがとうございます。
【略】
馬場さん:
「ただその一方で、「コミュニケーション・メディア」の話と「メディア/形式」の 概念は、結果としてかなりうまく適合するのではとも考えております。私が 注目しているのは、次の一節です。 「コミュニケーション・システムは、メディアと形式の区別を用いて、自分 自身を構成する。この区別は……『最終要素』を探求する労を省いてくれる」(Die Gesellschaft der Gesellschaft, S.195)。
私はルーマンのコミュニケーション論の要諦は、コミュニケーションを、情報/伝達の差異として捉えること、すなわちコミュニケーションは、何か によって可能になるような現象でもなければ、何かを可能にする自己同 一的な基底でもないと考えることにあるのではと思っております(「第2章」で書いたことですが)。」
同感です。
馬場さん:
「同様にメディアも、それ自体として論じうる何ものかなのではなく、あくまで「ルーズなカップリング/リジッドなカップリング」という区別においてのみ把握されうるのであって、この区別抜きに「何が最終的なメディアであり、 それは何によって可能になるのか」云々を論じてみても意味がない。そしてこの点こそが、「象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア」に関しても強調されねばならないのではないでしょうか。」
この説にも賛同いたします。というのも、この「区別」に関連させての定義がもっとも抽象的と思われるからです(概念の抽象度を上げて新たな事態に対処するのはルーマンの半ば常套手段ですが、しかし、そこに合わせて理解するのが筋というものでしょう)。これには酒井さん経由で高橋さんの解説が加えられた格好になりましたので、ますます明快。有難うございます。
それで、馬場さんが言及されていらっしゃいます『社会の社会』(S.195)に登場する「コミュニケーション・メディア」「FORM」「MEDIALEN SUBSTRAT」の関係も(貨幣を念頭に置いたりすると)イメージしやすかったわけです。
そこでひとつ御教示賜りたいのは、先の「区別」に準拠した場合、「象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア」は、なぜ「メディア」と称されるのか(抽象化・一般化された後は、特定化されなければならない)。他の「メディア」に関しては先の「区別」の観点から考えてもすんなりイメージを結ぶことができるのですが、どうも、この「象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア」の場合にはうまく行きません。
もちろん、馬場さんの「コミュニケーションが接続していく(リジッドなカップリング)ときに 、常に-既に通用してしまっているもの(ルーズなカップリング)」との区別、「 この「具体的なテーマに即して接続していくコミュニケーション/その際 前提とされてしまっているもの」という区別」、この画期的な視点から見て行くことは頗る重要なことなのですが、この区別は「操作(or過程or操作の連鎖)/構造」の水準にあるように思われ、構造一般の水準ではなく、「象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア」に特定化された水準で、なぜ、それが「メディア」と称されるのか、これが私の疑問なのです。
【略】
菅原さん
貴重な情報ありがとうございます。
私としてはインタビュー集である『アルキメデスと私たち』のなかでルーマンがあたかも「メディア-フォーム」概念が、あたかもそれまでのコミュニケーションメディアを包摂するカテゴリーであるかのように論じていることに過剰反応した次第です。
素人考えですが、私見では「コミュニケーションメディア」はメディア一般を規定するには特殊にすぎ、一方「メディア-フォルム」概念では、普遍的にすぎる(アリストテレスの「形相-質料」を彷彿させます)と思っています。なにか両者をつなぐロジックをルーマンが考えていたのであればそれを知りたいと思ったわけです。
とにかく、ルーマンの文献に当たってみます。
ありがとうございました。
菅原です。
【略】
確か、『社会の芸術』のなかで、ハイダーの「メディア-フォルム」概念が「形相-質料」にとどまっている、とルーマンが批判していたような気がしましたが。
いまひとつ考えがまとまらないというか、ご質問の趣旨を十分理解できているという自信がないのですが、いま執筆中の近著「第二章」の付論でメディアの話をまとめようとしていますので、そのためのメモぐらいのつもりで、少し論じてみます。
菅原さん:
先の「区別」に準拠した場合、「象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア」は、なぜ「メディア」と称されるのか。
真理や権力をメディアと見なすことによってどんな認識利得が生じるのか、またハイダー流のメディア概念とうまく接続できるのか、というように問題を定式化してよろしいでしょうか?
前者に関しては、菅原さんも触れておられたように思いますが、Die Kunst der Gesellschaft, S.172 で明らかにされています。質料/形相の場合とは異なって、メディア/形式の区別は多重的に用いられうるからである、と。ルーズに/リジッドにカップリングされる要素も、それ自体、別のメディアを前提とした形式である、というようにです。語は音韻のメディアがリジッドに結合されたものであるが、同時に文という形式のメディアでもある、というよわけです。メディアは、それ自体として存在する何ものかなのではなく、メディア/形式という形式(!)においてしか登場してこない。
だからこそ、メディアについて論じることによって、「最終要素」への問いを省くことができる。そしてルーマンがコミュニケーションについて最も強調しているのは、コミュニケーションは何らかの最終要素から成るのではなく、どこまで遡行しても常に差異のプロセシングとしてしか現れてこないという点だったはずです(「第2章」をご参照ください)。その点で、「コミュニケーション・メディア」について論じるのは、必然性があるか否かについては判断を保留しますが、それなりの理由があるように思われます。
第2点。私がフォローしえた限りでは、ハイダーの議論とコミュニケーション・メディア論が比較的うまくつながっているように思えたのは、Die Gesellschaft der Gesellschaft, S.356 の、権力に関する議論です。
メディアとしての権力は、行為の可能性を二重化することによって生じる。すなわち、他者が望む経過/自我も他者も望まないが、自我のほうがより不利になる経過(サンクションを課すこと)、という二重性である。権力という形式は、命令の実行/回避されるべき選択肢、という差異である。
サンクション手段が十分に一般化されれば(物理的実力の行使、解雇etc.)、多数の可能な権力目標と、サンクション手段の間のルーズなカップリングが、メディアのうちで成立する。
そして権力を使用することによって、メディアがリジッドにカップリングされる形式が確定される。(要旨)
権力というメディアが通用しているということは、その権力をあのためにもこのためにも動員しうるという関係結合の余地が幅広く想定されている(ゆるやかなカップリング)ということを意味します。その「根拠」として通常想定されているのが物理的実力である、と。しかしこれは、実際に実力が権力を支えていること(実力が「最終的要素」であること)を意味しません。実際に実力を投入してもうまくいくとは限らないし、なによりも実力の投入によって、それ自体として通用するというメディアの特質が破壊されてしまうからです。だからこそルーマンは同じ箇所に、権力の限界は、自我(命令の受け手)が他者(権力保持者)に、サンクションを行使するよう強制することのうちに(も)あるとの奇妙な一節をさしはさんでいるのだと思います。……しかしこれは本題とは関係ない話ですね。ともかく、そのように緩やかな幅広い結合可能性をもった権力を前提として特定のコミュニケーション連鎖を形成することが「形式」の確定にあたる、ということでうまくつながらないでしょうか?
自分でもどうももうひとつスッキリしないのですが。