日曜社会学 > 馬場靖雄論文書庫   この日記のはてなブックマーク数 このエントリーを含むはてなブックマーク

機能分化と「主体性」

馬場靖雄
日本社会学会74回大会報告、2001年11月24日、一橋大学


1:「主体」の問題圏
:〈68年〉以降──ポスト・ハイアラーキカルな世界
:「現実」としてのテロ
3a:補論──「踊ってる場合か?」
:ポスト・ハイアラーキカルな主体
:機能分化という亀裂
:結語

文献

【注記】
・本稿には、2001年度関西社会学会報告「ルーマンの〈68年〉」の一部(口頭で言及できなかった部分)と重複する一節が含まれている。

1:「主体」の問題圏

 われわれはいまだ「主体」の問題圏のうちに囚われているのではないか。あるいはむしろ主体の問題は、近年ますますその重要性を増しつつあるのではないか。ただしここで言う「主体の問題」とは、「個人と社会」、「自由と強制」といった古典的な主題を意味しているわけではない。われわれはルーマンにならって、「主体」によってもともと指し示されていた問題を、より形式的に捉えておくことにしよう。

主体性は、超越論的な意味においては統一性を保証し、経験的な意味では多数性と多様性を保証する。したがって超越論的/経験的という区別は、同じ思考が《経験的にのみ》異なった結果となるという観念を可能にする。(Luhmann 1997: 1023

 一見すると多様なものを、その多様性にもかかわらず統一性へとまとめ上げること。われわれは「主体」を、多様なものと統一的なものとのこの関係(機能)において把握したい(1)。本報告のタイトルにおける「主体性」が意味しているのは、多様なものと統一的なものとを関係づけるこの権能のことである。当然のことながらこの関係は、二方向に辿っていくことができる。すなわち統一的なものから出発して多様なものへ、そして多様なものから出発して統一的なものへ、である(2)

 「主体の問題」をこのように形式的に把握しておけば、昨今の社会理論において論じられているテーマの少なからぬ部分は、その枠内に位置づけられうるように思われる。

 例えばかつて社会学のパラダイム転換をもたらすものと期待されていたように思われる、「個人主体からではなく間主観的な言語・制度などから出発すべき」との議論。この場合、多様な諸個人によってなされる多様な発話が、にもかかわらず統一的な「間主観性」によって支えられているという議論になるわけだ(3)。そこから、その間主観性の担い手こそが「真の主体」であるという短絡した結論を導き出すか否かは別にしても、である(4)。いずれにせよこのテーマは完全に「主体」の問題圏の内部を動いているのであって、それを「主体理論超克の試み」などと呼ぼうとしたのは完全にミスリーディングである。

 これに対して最近では、周知のように、多様なものを統一的なものへと包摂することよりも、統一的なものを多様なものへと分解する(開いてやる)ことのほうが重視され好まれているようだ。構築主義はその典型例のひとつであろう。

構築主義は、あたかも事実と言語が一対一の対応関係にあるかのような、前期ウィトゲンシュタイン流の写像理論を破棄するところから出発せざるをえないのである。‥‥さまざまな言説的カテゴリーが存在し、それに付随する言説実践があるからこそ、わたしたちはそれらの観念が指し示す対象を認知し、作り出すことができる。(千田 2001: 5 下線引用者)

カルチュラル・スタディーズもまた同一の線上にあるという点については、指摘するまでもないだろう。

 この種の試みは、研究戦略上確かに大きなメリットを有している。すなわちそれは無限に反復可能なのである。一見すると多様に見えるものが、実はまだ自己同一的な枠組に囚われており、真の多様性を考慮していないばかりか、それを抑圧していると指摘すればよい(5)。例えば酒井(2001:36-37)は、ロールズの正義論を次のように批判している。なるほどロールズは原初状態において、多種多様な利害関心を有する諸主体のネゴシエーションのなかからひとつの秩序が立ち上がってくる様を記述しているように見える。しかし実は原初状態に参与する諸主体は抽象化によって具体的な社会的諸力とその間のコンフリクトから切断されており、この「多様性」の舞台自体が抑圧的な〈排除〉として機能しているのである、と(6)

 より抽象的に言えば、「主体」はまだ十分に解体されていない、まだ同一性という(抑圧的な)仮象が残存しているという物言いが、無限に反復されうるのである。

 しかしこのメリットは同時に危険性をも意味している。自分が用いた武器が自分自身へと振り向けられる危険性を排除できないからだ。おまえの議論こそがまだ自己同一性の仮象のうちに留まっており、「外部」を無視ないし抑圧しているではないか、と。例えば、政治を哲学の(あるいは、「文化左翼」の)閉域から救出して、多様で具体的な因果関係の世界へと解き放つことを提唱するローティーのプラグマティズム(ホームレスのアイデンティティを云々する前に食わせてやれ!)がそれ自体、古き善きリベラリズムの伝統によって無限に改善されていく世界という「アメリカの夢」の閉域のなかにいることが指摘される、というようにである(北田 2001)(7)


| top | 1/2/3/3a/4/5/6/note/ref | home |