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機能分化と「主体性」

馬場靖雄

2:〈68年〉以降──ポスト・ハイアラーキカルな世界

 「多様な外へ」というというこの動きは、上述の可能性と危険性を伴いつつ、ともかくも確固とした潮流を形成しつつある。そしてまたその背景には、支えとなるそれなりの社会的状況が存在しているように思われる。

 ハーバーマスはしばしば「ポスト形而上学的」ないし(コールバーク由来の)「ポスト・コンベンショナル」という言葉を用いている。かつて思考の、さらには社会の前提であった形而上学や種々の規約という不動の(統一的な)枠組は、今や人々の相互作用(コミュニケーション)のなかで不断に問い返され、根拠づけられつつ更新されていくものとなった、と。われわれは同様の事態を、「ポスト・ハイアラーキカル」な状態ないし時代と呼んでみたい。かつてのパーソンズの構想に見られたような、上位の一般的審級(情報)が下位の個別的審級(資源・エネルギー)を統制し、逆に後者が前者に対してパタン化(一般化)されるべき素材を提供する‥‥といったハイアラーキーによって世界を把握することはできない。とはいってもそれは、いかなる上下関係も存在せず、ただ無数の言語ゲームが水平的に戯れているということを意味するわけではない。上下の審級間の区別は、そのつど確かに存在している。しかし次の瞬間には、両者は対等な存在として、いかなる規則に服することもなく直接衝突してしまうのである。この事態が全面的に露わになったのは、「68年の思想」においてであった。当時世界中の大学において実践された「批判」のスタイルを考えてみればよい。エロチックな誘惑によるアドルノ哲学の「批判」、拳による丸山政治学の「批判」などである。身体的次元によって思想を unterlaufen ないし hinterfragen する、というわけだ(馬場 2001b)(8)

 そしてわれわれが今現在直面しているのは、この種の「批判」の最も過激で恐ろしい形態なのである。それはすなわち、同時多発テロによる「アメリカの夢」の「批判」である(9)


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