バリバールの議論に欠けているのは、市民主体を構成する亀裂を社会的背景に結びつけようとする視点だろう。この亀裂は、単に偶発的に生じた概念によって明らかになったのではない。それは、近代社会が機能的に分化した社会であるということから派生してきた帰結なのである。
機能分化とは、全体社会レベルでのコミュニケーションが、特定の問題解決(政治における集合的に拘束力ある決定の産出、法における整合性ある一般的予期の確立etc.)を軸として整序されるようになるという事態を指している。この問題解決に関連するあらゆるコミュニケーションが、問題解決というこの観点のもとで整序される(システムに内属する)。この内属は具体的には、コミュニケーションが機能システム特有の二分コード(法システムにおける〈合法/不法〉etc.)に従うというかたちで生じる。学システムに属するコミュニケーションは、〈真/非真〉のコードによって整序される。したがって、真理に関するコミュニケーションが、その発話者の身分や経済的豊かさによって整序されることは、とりあえずはありえなくなる。これはすなわち、何が当の問題に(問題を扱うシステムに)関連し、何が関連しないかという線が引かれることを意味している。そのシステムにとっての線が、システムによって引かれるのである。法に無関係なものは、あくまで法にとって無関係なものである。法の「外」に位置するその「無関係なもの」は、決して法の作動を妨げはしない。なぜならこの〈内/外〉の線(自己言及と他者言及の区別)自体が、システムによって、システムの内部で引かれたものだからだ(15)。
他者言及はシステムの自律性を制限するものではない。言及するということは、あくまでシステム固有の作動だからだ。作動は、システムの内的なネットワーキングによって可能になるのである。(Luhmann 1993: 77)
それどころか、一度は「外」へとはじき出されたこの「無関係なもの」が、まさにその無関係さによって、再び法に関わってくる。例えばいわゆる批判法学運動(CLS=Critical Legal Studies)は、法に内在する諸矛盾を、従来の法学においては法とは無関係だとされていた、社会そのものに内在する矛盾と関係づけようとする(中山 2000: 135)(16)。法自身が、法は仮象であり社会的諸矛盾こそが本質であると見なす場合もあるだろう。CLSはその最も極端な形であるとも言える。しかしそれはあくまで〈合法/不法〉のコードを前提にしてのことであり、そのかぎりで法の地平のうちに留まっているのである。
法律家が行なう論証は、どんなによく考え抜かれたものではあっても、最終的に事を決する決定を規定するとは限らない。法律家はこの事態と折り合っていかねばならない。だからこそ法の専門職のハビトゥスにおいて時折、理念と論証手段に対するアイロニカルな距離が観察されることになる。その場合、何が結局のところ決定を担っているのかが、関心の的となる(例えば、裁判上の慣習や伝統である、とされることもある)。だが、最終的な根拠とは常に、最後から二番目の(vorletzte)根拠でしかないのである。(Luhmann 1993: 406)
法の外に「最終的な根拠」を求めようとするこの議論自体が、法システムによって支えられた、法システム内部での作動として生じている。それゆえにその根拠は「最後から二番目のpenulutimate」ものでしかありえない。法システムの作動によって支えられて初めて、根拠は根拠として現れてくるからだ。
要するに、法は自分自身だけでなく自己を囲繞する状況をも合わせて考慮しなければならないと、法自身が述べているということになる。かくして機能分化したシステムが関わる領域は、社会の全域に及ぶ。「外」はありえない。あるいは「外」はその機能システムにとっての「外」であり、したがって「内」に他ならない(your outside is in というわけだ)。同じことが経済、政治、学といった他の機能システムに関してもあてはまる。それぞれのシステムに内属する空間は、おのおのが社会の全域を覆う。この意味で現代社会は、多次元的な(polykontexural)社会なのである(17)。したがって複数のシステムの関係は、「観点の相違」や「価値コンフリクト」としては捉えることができない。相違もコンフリクトも、いずれかのシステムから見てのものにしかすぎず、どれかのシステムが張る空間に内属せざるをえない。それはシステム間の関係を記述しえないのである。システム間の関係は、特定の区別=二分コードの横断ではなく、端的な棄却でしかありえない。
どのコードも同時に、他のあらゆるコードに関する棄却値を実現する。これは、ある価値が他の価値と争い、ウェーバーが言う価値コンフリクトへと至るということを意味するわけではない。他の形式が、他の区別が棄却されるだけのことである。(Luhmann 1997: 751)
棄却は相異なる価値の(価値について判断するための、より普遍的な価値基準という枠内での)争いではなく、異なるコードに基づく作動が今限に生じているという、事実性に他ならない。この事実の同時性こそが、システムによって構成された〈内/外〉の区別に収まらない、現実(界)として現れてくるのである。
システムと環境におけるできごとの同時性は、閉じられたオートポイエティックなシステムが、そのリアリティの独自の「構成」を超え、コンタクトの確実性とそれによる制限とを備える、唯一の形式である。(Luhmann 1995a: 202)
ただしこの現実(界)の確実性が、システムの作動とは無関係にあらかじめ存在すると考えてはならない。それは当のシステムをも含めた、複数の異なるシステムの作動の同時性によって初めて生じてくるのだから。システムの内部から見れば、この現実界は、コードが孕む破れ目として、あらゆる区別が孕んでいる「異なるものの統一性」というパラドックスとして、現れてくる。〈平和な「北」/暴力の「南」〉という区別そのものが、「北」によって行使されている暴力に他ならない、というようにである。
この棄却もまた多次元的に生じる。すなわち、複数のシステムによって同時に棄却が生じうるのである。そしてこの棄却の重なり合いが、ひとつの形象へと結晶化する。すなわち、「自由な主体」という形象へ、である。この形象によって、他のシステムによる棄却が、予測もコントロールも受け付けない「自由な行為」として可視化される。それを視野のうちに収めておくことで、各機能システムは、自身の内部によって引かれた〈システム/環境〉の区別が社会の全域を覆い尽くしているかのような錯覚(システム内部からはまさにそう見えるのだが)から距離を取ることができる。それはシステム自身にとっても必要不可欠なモメントなのである。例えば政治システムから見た、経済における「自由」についていえば
所有権保障やその他の貨幣価値に関わる自由権の意義は、貨幣制度を基礎づけるという点に存するわけではない‥‥基本権の機能は‥‥ただ単に次の点に存する。それは、社会的分化、即ちコミュニケーション構造の様々な一般化の方向性を、融合による単純化への傾向──政治システムによって(当然に社会の他の部分システムによっても同様に)期待されている傾向──に抗して維持するという点である。(Luhmann 1965:116-117 = 1989: 190)
かくして自由権を備えた主体、「市民主体」が、機能分化した社会の中で確固たる地位を占めるに至る。しかしこの主体は、バリバールの場合と同様に、普遍的審級に従属しつつ多様性を束ねる存在ではなく、和解不可能な分裂のうちに住まう存在なのである。