アドルノは、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」に登場するツェルリーナが放つあの抗しがたい魅力の源泉を、「彼女はもはや羊飼いの娘(Schaferin)ではないが、まだ市民(citoyenne)でもない」ところに求めている。
彼女はまだアリアを唄っている。しかしそのメロディはすでにリートである。‥‥ツェルリーナの姿のなかでは、ロココと革命からなるリズムが木霊している。‥‥彼女は歴史上、狭間の瞬間に属している。彼女のうちで、封建的強制によって歪められてもいず、ブルジョア的な野蛮さからも守られている人間性が、つかの間の輝きを放つのである。(Adorno 1982, 34)
しかし市民とは本来そういう存在ではなかったのだろうか。常に複数のシステムの狭間にあるがゆえに、何者でもない存在。しかしまた同時に、「何者でもない」ということにアイデンティティを見いだしたりもせず、あえてシステムの内部で軽やかにアリアを唄いつつ、「棄却」(「止揚」ではなく!)を通してそれをリートへと「異化」せしめる存在、である。
機能分化した社会において、棄却は常に生じてしまう。しかし棄却は抗しがたい魅力となって輝き出すこともあれば、恐ろしい災厄としてわれわれの上に降りかかってくることもある。だとすれば棄却といかに折り合っていくかは、われわれにとって大きな問題であり続けることになる。もちろん処方箋などありえない。処方箋が書けるようなら、そこに存在するのはもはや棄却ではないだろうから。しかし少なくとも、棄却から、あるいは「現実」と「現実界」の差異から、目を背けてはいけないということだけは確認できるはずである。