日曜社会学 > 馬場靖雄論文書庫   この日記のはてなブックマーク数 このエントリーを含むはてなブックマーク

機能分化と「主体性」

馬場靖雄

4:ポスト・ハイアラーキカルな主体

 われわれが問うべきはこうであった。このようなポスト・ハイアラーキカルな状況において、すなわち自ら普遍的なものに服従することによって多様性を統御しようとする(ハーバーマスの、あるいはグローバリゼーションの)試みがその個別性の次元において攻撃を受け、同一性の仮象を個別的な諸力へと解体しようとする試みがそれ自体自己同一的な「夢」と化してしまうこの状況において、なおも主体について語ることができるのだろうか?

 とりあえずここまでの議論の帰結として、次の点を確認しておこう。われわれが抗うべきなのは、一般的な審級に復することによって自身が小さな一般者となり、個別的なものを統御するこの服従者としての主体(subject)を再建したり解体しようとするゲームに対してである。あるいは、〈統一性/多様性〉ないし〈普遍性/個別性〉という区別を一方から他方へと横断することによって何かが得られると考えることに対して、と言ってもよい。その種のゲームと思考法は、あの保守派の物言いと同様に、区別が棄却なしに通用し続けうるかのような「夢」を存続させることになる。

 主体の再建は統一性によって多様性に抵抗する試みであり、主体の解体は多様性によって統一性に抵抗する試みである。どちらも必要となる局面があるのだろうが、結局のところそれらは区別そのものを──したがって「主体」という問題構成を──延命させる結果になる。かといって、直接この区別を「脱構築」しようとしても無駄である。この区別はコミュニケーションのなかで現に用いられ続けているのだから。だとすれば可能なのは複数の〈統一性/多様性〉を相互に衝突させて棄却を生ぜしめること、そしてその棄却のうちに「主体」の可能性を探ってみることではないのだろうか。

 実際にわれわれはそのような可能性を、カントのうちにも見いだしうる。カントの例のアンチノミーにおいて、一方の命題では主体が保存されているが、他方においては解体されている、というわけではない。例えば『純粋理性批判』付録Uでは、主観に「単純性」という特質を帰属させること自体が、誤謬推理として退けられている。もっともカントは、主観を単純なものと想定することが、種々の要因によって「私」が拘束されているという観念から目を背けるための、いわば防衛機制としての機能を持っていることを認めてはいる。

心の単純性を主張することにも幾分の価値はある、即ち──かかる単純性によって、この『私』という主観を一切の物質から区別し、従って心に常に付きまとっている弱さや頼りなさを心から除き去る限りにおいて、幾許かの価値をもつものであるということは、誰しも認めざるを得ない。(Kant 1787=1961: 183

 油井清光がパーソンズ=ロバートソンに依拠しつつ、多元化する現代社会が「その価値レベルでの『前提条件』をもって」(油井 2000: 11)いるはずだと、すなわち普遍的な価値へのコミットメントが共有されているはずだと強調していることも、同様の観点からいわば社会の(社会学者の?)防衛機制として正当化されうるのかもしれない。もちろん「解体」論者ならば、自己同一性へのそのような強迫的固執から脱却して、開かれた差異へと身を委ねることこそが重要なのだと主張するだろう。かくして件のゲームがさらに続けられていくことになる。

 カントにとって主体は、アンチノミーを構成する命題のどちらかによってではなく、アンチノミーそのものによって規定される。すなわち主体は、ふたつの非和解的な次元によって形成される亀裂のうちに、「『強い視差』としてのアンチノミー」(柄谷 2001: 78)のうちにこそ存するのである。「〔cogito ergo sumの〕コギト(=我疑う)は、システムの間の『差異』の意識であり、スムとはそうしたシステムの間に『在る』ことである」(柄谷 2001: 140)。

 同様の観点から近代社会における主体を「市民主体」として規定しようとしているのが、エチエンヌ・バリバールの議論である。バリバール(1989=1996)はカントに至るまでの主体概念が基本的に「君主の臣民」(超越者への服従者)であったことを確認した上で、1789年以降(「人間と市民の権利宣言」を契機として)「市民とは主体である」との新たな観念が発展してきたことを確認する。ただしこの観念が、例えば「人間は生まれながらにして平等である」といった一般的前提(バリバールはこれを「誇張命題」と呼んでいる)によって支えられているなどと考えてはならない。それでは市民主体とは、新たな一般者へと服従する存在にすぎないということになろう。今日しばしば、旧来の国民国家の枠組を破砕する世界市民主義について語られたりしている。しかしバリバールに言わせれば、そのような「世界市民主義」は、旧来の(服従者としての)主体概念の単なる拡張でしかない。

世界市民主義は、その裏返しとして、法治国家(Rechtstaat)や全体主義国家(Machtstaat)の現実の数々に対する想像上の代償であり、名誉にかかわる事柄である。それは、近代のあらゆる進歩思想の地平である理想国家(Citta ideale)という調和の夢を、世界次元に拡大することである。そこでは、世界を支配すること、つまり交換や知的コミュニケーションや分業の単一の空間のなかで人類を統一することと、人種的・民族的敵対関係の解決や最も受け入れがたい形の不平等と人間による人間の抑圧を排除することとが、一致するかもしれないと想像することができた。(Balibar 1998=2000, 20

たいていの場合、超・国家的市民権の観念は、国家の市民権がもつ特徴の「上位の」段階への移動以外の意味をもたない。言いかえれば、この観念は、主権を行使する場所の移動だと理解され、したがって不可避に主権の集中、主権の「独占」に向かう歩みだと理解されているのである。(Balibar 1998=2000, 59(11)

 すでに繰り返し述べてきたように、この普遍化へのドライブを逆方向へと転換することによっては、つまり「同一的な枠組は仮象にすぎず、現実にはそれは無数の力の政治的闘争によってそのつど構築される」云々と主張することによっては、旧来の主体概念の外に出ることはできない。そのようなビジョンも〈統一性/多様性〉という単一のハイアラーキーの内部において投企されている以上、やがては反動として普遍的審級を再召還することになるだろうから(12)

 むしろ「市民主体」という観念の発展は、次のような一連の対立──個別的な力の、ではなく普遍的なものどうしの対立──によってのみ可能となったと考えるべきである(以下の [1]〜[2] は、バリバールの論述を報告者が敷衍しつつ再構成したものである)。

[1] 平等概念についての対立。
平等は程度をもたない概念であり、「より平等(でない)」「一部は平等(でない)」などという言い方を許さない。などと誰かが特権を持てば、「平等な主権」全体が崩壊してしまう。そこから、平等を象徴的に(理念としてのみ)考えるか、現実として考えるか(共産主義)の対立が派生してくる。しかし現実なき理念としての平等は無力であり、現実として要求される平等は残忍である。
[2] 市民の能動性についての対立。
市民の能動性は、代表の概念と両立可能なのだろうか。この点をめぐる最大の対立は、「法」に関するものである。ルソーの定式化に従えば、こうである──市民は法の上にいる。さもなければ立法(ましてや、立憲)できない。他方市民は、「法の臣民」であるかぎりにおいて、法の下にいる。両者は、正確に相関していなければならない──主体の形而上学が、経験的/超越論的 という二重性に依拠していたのと同様に、である。この二重主体における比率の乱れ(一方がより重要である)は、主体そのものを崩壊させてしまう。同様に法をめぐる二重性も、比率の乱れによって危機にさらされることになるだろう。そこから、(心理学的、社会学的、法的、経済的‥‥)人間学の必要性が生じてくる。それらによって、「能動的市民/受動的市民」 の区別を行おうとする。個々の市民は心理学的、社会学的‥‥に説明されるべき偶発的要因によって能動性ないし受動性に傾いているとしても(したがってある者は代表する側に、ある者は代表される側に回るのは当然としても)、市民全体としてはこの二重性を実現しえている、というわけだ。
[3] 個人と集団に関する対立。
平等の原理は、社会を結びつけるには概念的に過剰(あるいは、過少)である。諸権利の平等な享受は、直接に個人の普遍性に関わる。それは二人から始まって徐々に拡大されるのではなく、一挙に全員に適用されねばならない。すなわち平等はいかなる例外設定も排除も許さない。かくして平等と社会との二律背反が生じてくる。社会は常にひとつの社会であり、何らかの特殊性や排除によって定義される。ところが平等な諸個人のみからは、集団の 成員/非成員 の区別は生じてきようがない。かくして、境界引きを許さない平等な諸個人が、現実には境界をもった集団を形成しているというパラドックスが生じてくる。通常の場合、契約によってこの背反が解消されると考えられている。契約は平等な者どうしのみから、そこにいかなる特性・排除も付加することなく集合的同一性を創り出すのだから、と。しかし実際には契約は、普遍性の「過剰」を埋め合わせる規定を、平等に付け加えるにすぎない。すなわち、あらかじめ設定されておいた(あらゆる人間を包摂しうる)普遍性を、いったん諸個人へと分解しておいて、その諸個人を(契約を通して)特定の普遍性(集団内部でのみ通用する普遍性)へと結合しているにすぎないのである。この手続きによって、本来はいかなる 内/外 の区別をも許さないはずの普遍性が、「契約に同意した者/してない者」へと分割されるかのような外観を呈することになる。

 バリバールによれば、市民を規定するのは何らかの特質ではなく、以上の対立そのものである。この対立=区別は、市民と非市民を分けるのではなく、未決定のままで市民そのものを決定するのである。

 ここでこれらの対立が、中間を考えうるような連続体の両極ではなく、「問題はまさに二律背反である」(Balibar 1989=1996, 60)ということに留意しておこう。例えば [3] に関して言えば、万人の平等を考える立場が真の普遍性に到達しえているのに対して、平等を集団のアイデンティティと結びつけようとする立場が不十分な普遍性のうちに留まっているというわけではない。両者ともが、普遍性と個別性の関係を考えるための、二つの異なる方策なのである(13)。だから後者から見れば前者は、普遍性の過剰ではなく、誤った普遍性として(例えば、「負荷なき自我」として)登場してくることになる。この立場からすれば真の普遍性は抽象的な斉一性によってではなく、具体的な差異をもった諸主体が、相互をその差異において承認しあうことによってこそ生じてくるのである(14)。それゆえに両者(普遍主義と多文化主義)はともに相手を、十分な普遍性のレベルに到達しえていないものとして批判しうる。普遍主義から見れば、集団の 内/外 の区別にこだわる立場は、偶発的・個別的なメルクマールにのみ固執して、そこから十分に離脱しえていない、(コールバーグ的な意味で)未熟なものである。しかし多文化主義の側からも、普遍主義は「真の普遍」に到達していないとの批判が寄せられうる。すなわちそれは西洋近代というローカルな一文化に基づく人間観・社会観を、誤って普遍の位置にまで引き上げている。真の普遍性は、各々の文化の内部で、自己の局所性(ローカリズム)と限界を洞察することによってのみ生じてくるのだ、と。

 したがって、「普遍性と個別性を高い次元において統一した存在が市民である」云々と主張してはならない。市民とは、調停不可能な複数の〈普遍−個別〉の軸の分裂の上に位置づけられるべき、(新しい意味での)「主体」なのである。そしてそれは、他ならぬ市民が誕生した瞬間において明確に宣言されていたことだった。

 1789年の「人間と市民の権利宣言」は、切断を特徴づける決定的効果を生んだ。しかしながら‥‥これは本質的にあいまいなテクストだった。人間と市民の権利、生まれかつ生き続ける、自由かつ平等。こうした二重性の各々、とくに最初の二重性は、起源を二分しており、正反対の読み方の可能性を秘めている。基礎となる観念は人間なのか市民なのか。宣言された権利は、人間としての市民の権利なのか、市民としての人間の権利なのか。(Balibar 1989=1996, 53


| top | 1/2/3/3a/4/5/6/note/ref | home |