(1)むろんこれは、主体の定義を意図したものではない。従来「主体」について語られるときに含意されていた問題群の一部を、この定式化によってカバーできるのではないかと考えているにすぎない。
(2)ルーマンが先の引用箇所の直前において指摘しているように、カントの第三アンチノミー(因果性の王国/自由の王国)もまた、この関係の二方向性の現象形態のひとつであると考えてよいだろう。多様な諸原因の相乗効果によって引き起こされる行動が、結果としてその背後にひとつの自由な意志があるかのような仮象を呼び起こすのか(多様性から統一性へ)、それとも現に存在しているひとつの自由な意志が多様な行動を生ぜしめるのか(統一性から多様性へ)、というわけだ。
(3)マンフレート・フランクによるリオタールへの(今となってはほとんど古典的な)批判はその典型例のひとつだろう。
たしかに、解釈の違いは、争いあうもの同士が争いの対象や対話ゲームを同一の述語で規定することを妨げる場合もありうる‥‥。しかし、こうした差異も、理解しあおうとする目的について一致があってはじめて、しかるべき差異になりうる。(Frank 1988=1990: 101)
フランクの議論はリオタールの「諸言語ゲーム間の通約不可能性」を「言語ゲーム独我論」として批判していることになる。今日では同種の同種の批判が、ルーマンの「機能システムの閉鎖性」テーゼへと向けられている(馬場 2001a: 109-112)。その意味ではこの「主体」の問題構成は、ルーマン理論の研究においても避けて通ることのできない課題であり続けているのである。
もうひとつ、わが国の理論社会学の到達点とも言うべき著作の一部も引いておこう。
〔間主観性の成立〕‥‥の可能性は、〈感覚運動メッセージならびに言語メッセージ〉と区別されるところの〈感覚運動コードならびに言語コード〉を人びとが共有していることに‥‥根元的な根拠があるのではないかと考えられる。‥‥この〈コードの共有〉と〈メッセージの共有〉を明確に区別して議論をする必要がある。(吉田 1990: 267)
多様な人びとが多様なメッセージを発しており、その中には共有されるものもあれば共有されないものもある。しかしそれらをメタレベルで統括するコードのほうは共有され、統一性を形成しているはずだ、と。ここでの理論的構図が、ルーマンが「主体」の構図として要約したものと同一であるのは明らかだろう。
(4)ルーマンはフィヒテを例に引いて、この種の短絡を戒めている。フィヒテによる(意識)主体の特権化は、社会的なものを非主題化するという帰結を招いた。それゆえただちに、社会的なものが不十分なやり方で性急に再主題化されることになった。国家、精神、全体社会などといった集合的主体のかたちで、である(Luhmann 1990: 112-113)。一般には、ルーマンこそがシステムを主体化し、個人主体をそれへの従属物ととしてのみ捉えるというこの種の誤りを犯しているのだと理解されているようだが。
(5)この種の議論にモデルと素材の両方を提供した西川長夫の国民国家論においてすでに、この論法が典型的なかたちで現れてきている。
文化相対主義は国民国家のイデオロギーの批判として出発しながらも、結局は国民国家の固定的な文化モデルを受け入れている。こうした観点からは、移動し変容する世界の諸文化の姿をとらえることはできないだろう。(西川 2001: 304)
(6)以下の議論を先取りすることになるが、われわれから見ればロールズの問題点は、その理論的枠組が抽象的で現実のコンフリクトに対して閉じられていることにではなく、逆にそれが十分に閉じられていない点にある。すなわちロールズは、(「重合的コンセンサス」の発想に見られるように)他の機能システムによる観察=拒絶を、開かれた対話と誤認してしまっているのである。
(7)近年のローティーの議論は、カルチュラル・スタディーズや構築主義によって論敵と見なされているようだし、またローティーのほうもカルチュラル・スタディーズを標的のひとつとして扱っている。しかし報告者から見れば、両者の行なっていることは完全に同型的である。
(8)こうした「低次」の批判の意外な有効性が、その後の「68年の思想」における「身体性の次元」の復権という論点へとつながっていく。しかしその源流は、「19世紀の、また20世紀初頭の偉大なソフィストたち」(Luhmann 87:5)(カーライル、マルクス、ニーチェ、フロイト)のうちに求められるべきだろう。
(9)あらかじめ注意しておきたい。われわれが以下であの恐るべきテロに言及するのは、「この事件について論評できないような社会学理論は無意味である」といった理由によるのではない。逆にわれわれが強調したいのは、「理論の価値は現実に言及することにある」といった観念こそが、われわれを閉じ込めて現実から引き離している檻だという点なのである。そして今回のテロが示しているのは、まさにそのことなのだ、と。
(10)これはすなわち、システムは閉じられている限りにおいて現実に「開かれた」効果を及ぼしうるということである。ルーマンの「システムの閉鎖性」テーゼは、ポスト・ハイアラーキカルな状況において明らかになった、「主体」の問題構成の隘路──開かれているように見えるものが実は閉じられている、したがってそれはさらに開かれねばならない‥‥という身ぶりの、無限の反復──に対する批判として構想されたものだと考えねばならない。したがってこのテーゼを「開放性を考慮していない」というように批判するのは、倒錯以外の何ものでもない。
(11)水嶋一憲はやはりバリバールに依拠しつつ、市民を特定の「誇張命題」によって定義してはならないとの結論を導き出している(水嶋 2000)。むろんこの点に関しては異議はない。しかし水嶋は市民のメルクマールを、既存の枠組を(具体的には、国民国家を)打破して人権をより普遍的なものへと拡大していく、その運動のうちに求めようとしている。市民主体の概念によって、「市民権を政治への普遍的権利として定義し、それを無制限かつ力動的な拡張性へと開き続けようとする構想への決定的な移行が画されているのである」(水嶋 2000, 35)、と(Faulkas 2000, 165-166も、同様の議論を展開している)。しかしこの運動は依然として、〈個別−普遍〉という一次元的なハイアラーキーの内部で生じているのではないか。水嶋の考える市民主体も、やはり普遍的審級に服従する存在である。ただその服従の対象が具体的な国家から、決して到達しえない無限遠点へと移されているだけの話である。あまりにも手垢の付いた言葉をあえてもう一度用いるならば、これは一種の「否定神学」ではないだろうか。むろんわれわれも、国民国家を打破することが市民主体がもたらす最も重要な効果(のひとつ)であろうとは考えている。しかしそれはあくまで帰結であって、市民主体のメルクマールそのものではない。あるいはわれわれにとって問題なのは、国民国家から区別の他の側へと横断することではなく、それを端的に棄却することなのだと言ってもいい。
(12)またバリバールは同様の観点から、「誰でもないこと、言いかえれば、なりたいすべてのものであること、出会いのままに、結合、融合、混合、必要、有用性のままに、そこにはいかなる秩序も軸も特権的な名前もなく、ある人格や役割から別の役割に変動すること」を称揚する、「ある種のポストモダン的ユートピア」を批判してもいる(Balibar 1998=2000, 154-155)。そこでは、「誰かである」ことが視野の狭い拘束された意識状態であるのに対して、「誰でもない」より高度な段階に到達しえているというハイアラーキーが想定されているからだ。
(13)だからこそバリバールは、例えばイスラム原理主義を、西欧が確立し、世界中に普及した普遍的人権の概念に背を向けて特殊性に固執する態度と見なすことに反対しているのである。
〔バリバールが示唆したいのは〕ある種のイスラム教への言及の仕方にも人権の要求と人権の普遍化があり、それに内在する矛盾は、普遍的なものの我有化、つまり西欧の権力がその要素のなかに横取りした解釈の独占という、別の矛盾に対する対応でしかないという事実である。世界のイデオロギーの舞台は、普遍主義と特殊主義の対立の舞台ではまったくない。それはむしろ、虚構の普遍性どうし、普遍性への敵意どうしの対立の舞台であり、普遍主義自体のなかの対立の舞台であろう。(Balibar 1998=2000, 110)
この指摘は、テロを区別の横断として捉えるかそいれとも棄却として把握するかという分岐こそが重要であるとの、われわれの論点に正確に対応している。
(14)マッキンタイアにとって、道徳をそれ自体として根拠づけようとするヒューム(情念による)、カント(理性による)、キルケゴール(選択=決断による)らの試み──そこから事実と当為の峻別という誤れる議論が生じてきたのだが──の問題点は、単にそれが過度に抽象的=普遍的な、無内容な道徳しか提示しえないという点にあるのではない。むしろ問題は、人間の概念そのものが間違っているところにある。そもそも機能概念に関しては、事実/当為というこの峻別は成り立たない。腕時計、農夫といった概念の定義は、それらが固有に果たすものと期待されている目的or機能に基づいて定義される。したがって腕時計という概念はもともと、よい腕時計という概念から独立には定義できない。人間もかつては機能概念であった。現実の(堕落した)人間/完全な人間/前者を後者へと変換する道徳、という三点セットにおいて扱われてきたのである。歴史的文脈の中で第二項が脱落したとき、それ自体として存在する個人(非機能概念としての個人)のなかで道徳を基礎づけるという絶望的な試みが生じてきたわけだ。その失敗は、この歴史的文脈のなかでとらえられるべきであって、道徳そのものの不可能性を意味すると解釈されるべきではない(MacIntyre 1981=1993, 64-77)。したがって、機能概念に基づいた新たな(普遍的)道徳を提示することもできるだろう。それはおそらく、差異の相互承認に基づくものであろう。しかしこの「道徳」からバリバールの言う「メタ・レイシズム」まではほんの一歩の距離でしかない(馬場 2001a, 212-213)。
(15)コードのポジティブな値(合法、真理)とネガティブな値(不法、非真理)を、システムの内/外(自己言及/他者言及)と同一視しないよう、注意を促しておきたい。不法や非真理はシステムではなく環境の側に属する、というわけではない。両者の区別は「直交」する。つまり、どちらの言及にどちらの値を割り当てることもできるのである。したがって、例えば真理を、認識の他者言及を秩序づける基準として理解してはならない。真理は、自己言及と他者言及の区別に関連する(構成主義)。同様に、利益法学/概念法学の区別も無意味となる。法を利益保護(=他者言及)の手段として把握することはできない。適法的な利益と、不適法な利益が存在するのだから。また、法と調和する概念使用もあれば、そうでないものもあるのだから(Luhmann 1997:755)。
(16)中山 2000: 136も指摘しているように、このようなCLSの土壌となったのは、〈68年〉を経て登場した、「法と社会(Law and Society)」研究の動向であった。そこでもまた「社会」は(法によって)排除された後関係づけられるべきものとして扱われている。ルーマンが諸機能システムをテーマとする晩年の一連の著作のタイトルを、「法と社会(Recht und Gesellschaft)」ではなく「社会の法(Das Recht der Gesellschaft)」としたのも、社会と法とを、法によって引かれた線を介して対置する、この種の思考法とは別のかたちで考察しようとしたからに他ならない。
(17)この「多次元性」は厳密な意味で解されねばならない。つまり、あらかじめ存在する統一的全体の諸側面が抽出されて複数の次元が生じるのではなく、それぞれの次元のなかに全体が現れてくる。この複数の全体(!)は統合不可能なのである。
〔機能システムの閉鎖性から〕統一的な「メタ物語」(リオタール)の消失が、そして全体社会の多次元的な記述が帰結する。そこでの種々の次元(=ポジティブ/ネガティブの区別)とは、諸機能システムの種々のコードと種々のシステム/環境−区別に他ならない。(Luhmann 1995b: 174)