注4:

ルーマンはフィヒテを例に引いて、この種の短絡を戒めている。フィヒテによる(意識)主体の特権化は、社会的なものを非主題化するという帰結を招いた。それゆえただちに、社会的なものが不十分なやり方で性急に再主題化されることになった。国家、精神、全体社会などといった集合的主体のかたちで、である(Luhmann 1990: 112-113)。一般には、ルーマンこそがシステムを主体化し、個人主体をそれへの従属物ととしてのみ捉えるというこの種の誤りを犯しているのだと理解されているようだが。