注3:

マンフレート・フランクによるリオタールへの(今となってはほとんど古典的な)批判はその典型例のひとつだろう。

たしかに、解釈の違いは、争いあうもの同士が争いの対象や対話ゲームを同一の述語で規定することを妨げる場合もありうる……。しかし、こうした差異も、理解しあおうとする目的について一致があってはじめて、しかるべき差異になりうる。(Frank 1988=1990: 101)

フランクの議論はリオタールの「諸言語ゲーム間の通約不可能性」を「言語ゲーム独我論」として批判していることになる。今日では同種の同種の批判が、ルーマンの「機能システムの閉鎖性」テーゼへと向けられている(馬場 2001a: 109-112)。その意味ではこの「主体」の問題構成は、ルーマン理論の研究においても避けて通ることのできない課題であり続けているのである。

 もうひとつ、わが国の理論社会学の到達点とも言うべき著作の一部も引いておこう。

〔間主観性の成立〕……の可能性は、〈感覚運動メッセージならびに言語メッセージ〉と区別されるところの〈感覚運動コードならびに言語コード〉を人びとが共有していることに……根元的な根拠があるのではないかと考えられる。……この〈コードの共有〉と〈メッセージの共有〉を明確に区別して議論をする必要がある。(吉田 1990: 267)

多様な人びとが多様なメッセージを発しており、その中には共有されるものもあれば共有されないものもある。しかしそれらをメタレベルで統括するコードのほうは共有され、統一性を形成しているはずだ、と。ここでの理論的構図が、ルーマンが「主体」の構図として要約したものと同一であるのは明らかだろう。