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酒井です。
数カ月ぶりに、この話題にレスをば。
At 14:24 +0900 01.5.31, 原さん wrote:
わたしが、対人間コミュニケーションの係留点と暗に前提にしているのは、おそらくコミュニケーションの生起-出来事の事実です。誰が、誰に向けて、どのような意図で、メッセージを送ったかは問題ではないと。システムによる観察とその機能を環境とのコミュニケーションと考えると、その方がすっきりしませんか。そうですね。そのほうが「すっきり」していますね。
言語理論的な出来事-アーカイヴの問題系では、意識を問う必要がありません。出来事としての(顕在的・潜在的or成功・失敗)コミュニケーションは事実性だからです。たとえば、政治的コミュニケーションでの発話の主体を、「権力の保持または否」ではかるとします(つまり、相応しい立場からのエノンセであるか)。そうすると、発話の主体の意識は問題にならないわけですよね、問題なのは社会的に規定された資格であると。政治のコードに従えば、少なくともそう機能する。むしろルーマンのいうような「意味論」がたいせつなのではないでしょうか。なるほど「社会構造」も「意味論」もたいせつですが、・・・だからといって「意識」を(あるいは「心的」レヴェルを)問わないでおいてよい、というハナシにはならない ──このことも私にはほとんど自明に思われます(^_^)。
意識とコミュニケーション事象を切った身ぶりと、決定や主題化に関して「主体」に類似したものの再導入は、一貫性の点で齟齬が[ある]といった、いささか無理矢理な「印象」がでてくる、ということになってしまうのだと思います。
ここで、主体と呼んでいるものは、行為の主体ではありません。というか、フーコーの「ディスクールの場」のようなシステムの発想では、主体なんて必要ないですよね。エノンセの布置、他のエノンセとの共在や通時的関係、協調・排除の関係などから、発話の主体の位置がアサインされるわけですから。ポイントはエノンセにあると。通常、ルーマンも、このような仕方で「すっきり」と読まれ“ようとされ”ているようですね。
おひさしぶりです。原です。
aptiva買って2週間、フォーマット・再インストールが3回。これマジすか?という感じです。
そんなわけで、酒井さん、お返事おくれてすみません。この話題ですが、最近ある研究会で、赤堀さん@ルーマンMLにもふってみたところです。些細な疑問に、まじめにつきあっていただいて感謝きわまりないのですが、このような状態で十分なレスがつけられそうにありません。
わたしは、心的レベル-意識の問題を、全般的に不問にすべきというわけではありません。社会システムの問題を考えるときにこうした問題を混ぜるとややこしいことになるので、それはそうした分野に任せておいて、その成果と社会システム論の整合的な接合を目指すべきなのでは、と思うのです。ルーマンの理論は、包括的なセオリーをねらっているのなら、こうした意見はちゃんちゃらおかしいことになりましょうが。わたしの浅薄な把握では、どうもルーマン自身が心的レベルの問題をうまく説明していないような気がします。意識システムと社会システムが別のものであると強調するときに、ルーマンは、意識システムをどう扱うべきと考えているのかがよく理解できません。
コミュニケーションを社会的な出来事-事実faits socialesと考えるならば、そこからスタートする方が、システム論にふさわしいように思われます。心的レベルに遡行すると、無限の退行が待つような。ルーマン研究者のみなさんは、心的システムをどのていど考慮しているのでしょうか。
personって、広松さんの「役割」に近いと思いませんか? と、昔お会いしたときに酒井さんが、広松ファンだと聞いて思い出したのでした。またレスします
酒井です。
原さん、お返事どうもです。
personって、広松さんの「役割」に近いと思いませんか?と、昔お会いしたときに酒井さんが、広松ファンだと聞いて思い出したのでした。いや、別にファンじゃないです(^_^)。
些細な疑問に、まじめにつきあっていただいて感謝きわまりないのですが、このような状態で十分なレスがつけられそうにありません。原さんの疑問をダシに、私の側でつけたかったレスを蒸し返した、ということもありますので、そんなに気にしないで下さい
わたしは、心的レベル-意識の問題を、全般的に不問にすべきというわけではありません。社会システムの問題を考えるときにこうした問題を混ぜるとややこしいことになるので、それはそうした分野に任せておいて、その成果と社会システム論の整合的な接合を目指すべきなのでは、と思うのです。この意見にはルーマンも同意するでしょう。
ルーマンの理論は、包括的なセオリーをねらっているのなら、こうした意見はちゃんちゃらおかしいことになりましょうが。そんなことはないでしょう(^_^)。──というか、“そういう問題”ではないでしょう(^_^;)
わたしの浅薄な把握では、どうもルーマン自身が心的レベルの問題をうまく説明していないような気がします。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれませんが、それはまた別の問題だと思います。
意識システムと社会システムが別のものであると強調するときに、ルーマンは、意識システムをどう扱うべきと考えているのかがよく理解できません。“「心的システム」と「社会システム」は、相互にその環境にゐるものとして扱うべき”、というのが、それでしょう(^_^)。
コミュニケーションを社会的な出来事-事実faits socialesと考えるならば、そこからスタートする方が、システム論にふさわしいように思われます。これはルーマン自身の主張ですね。そして、
心的レベルに遡行すると、無限の退行が待つような。社会システムに準拠しているときに、心的システムに遡行しないで“済ませる”理論を提起したのが、ルーマンその人だったわけなのでした(つまりこれも、ルーマン自身の主張ですね)。
ルーマン研究者のみなさんは、心的システムをどのていど考慮しているのでしょうか。これは・・・ルーマンフォーラムで訊いてみましょう。