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2001年5月~8月:Selection を巡って2@デリダML

1/42/43/44/4
To: derrida@egroups.co.jp
Date: Mon, 21 May 2001 16:40:35 +0900
From: 原 宏之
Subject: Re: [derrida] 象徴界・選択

なかなか難しいコメントなので、ちょいレスともいかないのですが、とりあえず。
「撤回」するのは、原本人です。ルーマン研究者がたくさんいるなかで、「夏の虫」のような書き込みをしてしまいましたね、これは。折角なので、いろいろと教えてください。

 主観的意識が「まずい」かどうかの評価は、いろいろとあると思います。わたし自身は、「どの立場から扱うか」による問題なので、ニュートラルな価値です。たとえば、主観哲学がけしからんという必要はありません。ただし、オートポイエーシス的な転回を経たといわれるシステム論のなかに、「主体」に類似したものを立てなければ、説明が成り立たないとするなら、これは問題だと思います。
 はじめにまとめちゃうと、意識とコミュニケーション事象を切った身ぶりと、決定や主題化に関して「主体」に類似したものの再導入は、一貫性の点で齟齬がありませんかとの疑問です。

 わたしが、気になったのは、「意識システム」と「人格」です。前者はコミュニケーションと切られているわけですし、後者は実在的な統一体と考えているわけではないですよね。ルーマンのいう「コミュニケーション」の継起の連鎖としての社会システムや、表象の継起の連続の意識システムという考え方は、これぞ本来のシステム概念だと感心しました。
 それで、気になったのは、社会を説明する一方で、心的システムを立てたり、コミュニケーションの説明に人格をもちだすところに、社会のオートポイエーシス理論の構想─生物学的成果との一貫性─に微妙な急所の火種がないのだろうかということです。人格とは、「主題化」のために仮定的に措かれるものですよね。この人格をもちだす必然性は、意識システムとコミュニケーションに断絶を入れた上で、システム論的にコミュニケーション・社会の事象を説明することの困難にあるということはないでしょうか。

 酒井さんがコメントしてくれた、attributionとは、わたしの不十分な理解では、記述の次元で事後的に構成される・認められるものですよね。一種の係留点を立てなければ、自律した「コミュニケーションを生むコミュニケーション」の説明原理がありえないことに由来するものでしょうか。

 まとまりないですね。もうすこしルーマンをちゃんと読んでから質問することにしましょう。

▲先頭
To: derrida@egroups.co.jp
From: 酒井泰斗
Date: Tue, 29 May 2001 20:57:12 +0900
Subject: [derrida] 「選択」再訪

酒井です。
原さん、レスありがとうございました。

原さん wrote:

「撤回」するのは、原本人です。ルーマン研究者がたくさんいるなかで、「夏の虫」のような書き込みをしてしまいましたね、これは。

ルーマン研究者なんてたくさんはいないので、だいじょうぶ(?)でしょう。

ところで、「撤回」するのが“原さん”だと、どのようなハナシになる(ことになる)のだか、私はまだわかってなかったりして。「主観的意識の残響を撤回するとするなら、わたしは「主体」をまだそこに認めます。」の、“そこ”って“どこ”ですか?
ただし、オートポイエーシス的な転回を経たといわれるシステム論のなかに、「主体」に類似したものを立てなければ、説明が成り立たないとするなら、これは問題だと思います。

すかさず「なんで?」と問うてみたくなるんですがそれはあまりにベタなので遠慮するとしても、でもやっぱり
  “その”「主体」って“どの”「主体」なの*?
とききたくはなってしまいます(^_^;)。

* 原さんがそこで想定・想起してるのは、「主観=主体」という
概念史的にすさまじい広がりをもつこの言葉のもつ含意の、
“どの”側面のことなんだろう、の意。




 わたしが、気になったのは、「意識システム」と「人格」です。
【略】
 はじめにまとめちゃうと、意識とコミュニケーション事象を切った身ぶりと、決定や主題化に関して「主体」に類似したものの再導入は、一貫性の点で齟齬がありませんかとの疑問です。

どうやら、“ここ”を見る限りでは、原さんの謂う「主観=主体」とは、社会学者の謂う「person」概念のことのようですね。
 #そうですか?

で、原さんが「気になった」のは:

 [1]社会を説明する一方で、心的システムをたてること
 [2]コミュニケーションの説明に人格をもちだすところ
である、と。

でも、これって、
前者[=心的システム]はコミュニケーションと切られているわけですし、後者[=パースン]は実在的な統一体と考えているわけではないですよね。([ ]内は酒井による補足)
というのでもって、答えられてると思いますけども。。。。
それじゃダメなんですね(^_^?。
ならば。。。“先”へすすみましょう。

人格とは、「主題化」のために仮定的に措かれるものですよね。この人格をもちだす必然性は、意識システムとコミュニケーションに断絶を入れた上で、システム論的にコミュニケーション・社会の事象を説明することの困難にあるということはないでしょうか。
なるほど。
問題はこのあたりにあるようです。

「person」というのは、仮定じゃなくて、現実だと思います。
というか、「社会的事実」だと思います。この言葉は、定義上、「虚構」と重なるイミを持ちますけど。
もしも「仮定」だというなら、それは、我々が生活しているとき、或る特定の“モノ”(だけ!)に対して、“魂に対する態度*”をとっているときに、自他に対して・いつもすでに抱いている(また抱いてしまわざるをえない)「抽象(=縮減)」だ、というイミで、そうなんじゃないでしょうか。
* あるいはウィトゲンシュタインに換えて、もっと直裁な、人格主義的態度(フッサール)なる言葉を想起してもよいですが。
しかし、中庸を好む私としましては(^_^)、「仮定」という言葉の範囲をそこまで広くとってしまうのも穏当さを欠いていて気が引けます。ということで、ここは、「違うと思います」といっておきます。ま、とりあえずそれは、社会学的な観察者が観察を行う以前に、すでに「生じていること」であって、勝手に外挿された「仮定」ではないですよね、ということで。

そして、この“魂に対する態度をとる”という事態が、
魂[=「心的なレヴェル」]で起こっているのではなく
コミュニケーション[=「社会的なレヴェル」]において
起きている
──と想定し、記述すること。[=「意識システムとコミュニケーションに断絶を入れた上で、コミュニケーション・社会の事象を説明する」こと]

 ここに、「困難がない」とはいえないのかもしれません。(私にはわかりません。)
が、まぁ、とりあえず、ここ百年ほど社会学はその“スタンス”をとりながら*も、とりあえず生き延びて来ていられている(^_^)、というのは、確かのようですよ。
* もちろん、社会学のすべてが、そのようなスタンスを採っているわけではないみたいですが。



酒井さんがコメントしてくれた、attributionとは、わたしの不十分な理解では、記述の次元で事後的に構成される・認められるものですよね。一種の係留点を立てなければ、自律した「コミュニケーションを生むコミュニケーション」の説明原理がありえないことに由来するものでしょうか。
 然り且つ否だとおもいます。
 「然り」というのは: 
・分析的・事後的な側面は(なにしろ観察者が記述してるわけですから(^_^))いつもつきまとって離れないでしょう
──というイミで。
 「否」というのは: 
・attribution という 縮限contractio* は、そもそも観察対象の側で、つねにすでに生じて(しまって)いることである
──というイミで。
* クスの枢機卿ニコラウスの術語を拡張して表現すれば。──すなわち現実化“する”こと・実現“される”こと(あるいは、現実化“される”こと/実現“する”こと)。
だからこそこの出来事を「selection」と呼ぶことにはイミがあるのだった。

 もう一度ひらたく書くと、縮限は、観察する側はもちろんのこと、観察される側でも不可避に起こっているだろう事なので、それを、単に「分析的」と呼ぶ(→割り切っちゃう)わけにはいかないんじゃないでしょうか。
テツガク的に考えれば、“ここ”に・すっきりとはしないさまざまな(しかも“著名な”(^_^))根深い問題が生じてくるわけでしょうが、しかしそうしたものが生じてくること自体は、“自明”なことだと思います(^_^)。 なので結局、「選択」という術語はそうしたことも“込み”で受け取られるしかありません。

あるいは、こういってもいいです: 謂うところの「一種の係留点」をたててるのが、観察される側だったら、そして「一種の係留点」を“たて”つつでなければ*、自律した「コミュニケーションを生むコミュニケーション」の“存立”がありえないのだとしたら、ここには“なんにも”問題がない──と“ひとまずは”いえる──ことになる、と(^_^)。
* というか、やはりすぐにこう言い換えたくなります:「contractio があるのでなければ(!)」と。
そしてまた、記述を開始する区別として〈システム/環境〉-区別を選んだときには、すでにもう「物象化」のファーストステップは通り越してしまっているわけなので、その咎によって、システム論がヒハンされるというのなら、それには返す言葉もございません。
だけどいったい“だれ”が“どこ”から、その“ファーストステップ”とやらを──“どの”区別を用いて(!)──観察するというのやら。
・・・というのが、その場合の「システミストの懐疑的弁明」になるでしょうが。

さらにあるいは・・・。
むしろこう尋ねたほうがいいのかも。
では、原さんがコミュニケーションを記述しようとするなら、いったい何を「係留点」として選びますか
──と。
ふふふふふ。。。。
いま私が何を考えているかというと──と、「手の内」を明かしておくと──、ひょっとして、ベタに「係留点なし」な議論を目指しているがゆえに、「コミュニケーションにおいて、意図は-主観に対して-現前しない」(デリダ)などといったタグイの“極端なこと”をいうハメ[→いわざるをえないところに“追い込まれる”こと]になる*んじゃねーの?、云々、
──といったことです(^_^)。
てゆか、このテーゼには「主観」が「係留点」としてすでに「選択」されているか(!)
* 少なくともこの点においてデリダとルーマンを比べると、後者のほうがずっと“無理のない”仕方で語ることができる──そしてそのイミで“優れている”──と、私は思います。: つまり、ルーマンは「心的システム」と「パースン」とを区別することによって、デリダのような“極端なこと”をいわずに済ませながら、しかしデリダが謂おうとしていることを別の仕方で謂うすべをもつことができている──、と、私にはそう思われます。



まとまりないですね。もうすこしルーマンをちゃんと読んでから質問することにしましょう。

とかいってると人生おわっちゃいますので、マターリいきましょう。

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