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なかなか難しいコメントなので、ちょいレスともいかないのですが、とりあえず。
「撤回」するのは、原本人です。ルーマン研究者がたくさんいるなかで、「夏の虫」のような書き込みをしてしまいましたね、これは。折角なので、いろいろと教えてください。
主観的意識が「まずい」かどうかの評価は、いろいろとあると思います。わたし自身は、「どの立場から扱うか」による問題なので、ニュートラルな価値です。たとえば、主観哲学がけしからんという必要はありません。ただし、オートポイエーシス的な転回を経たといわれるシステム論のなかに、「主体」に類似したものを立てなければ、説明が成り立たないとするなら、これは問題だと思います。
はじめにまとめちゃうと、意識とコミュニケーション事象を切った身ぶりと、決定や主題化に関して「主体」に類似したものの再導入は、一貫性の点で齟齬がありませんかとの疑問です。
わたしが、気になったのは、「意識システム」と「人格」です。前者はコミュニケーションと切られているわけですし、後者は実在的な統一体と考えているわけではないですよね。ルーマンのいう「コミュニケーション」の継起の連鎖としての社会システムや、表象の継起の連続の意識システムという考え方は、これぞ本来のシステム概念だと感心しました。
それで、気になったのは、社会を説明する一方で、心的システムを立てたり、コミュニケーションの説明に人格をもちだすところに、社会のオートポイエーシス理論の構想─生物学的成果との一貫性─に微妙な急所の火種がないのだろうかということです。人格とは、「主題化」のために仮定的に措かれるものですよね。この人格をもちだす必然性は、意識システムとコミュニケーションに断絶を入れた上で、システム論的にコミュニケーション・社会の事象を説明することの困難にあるということはないでしょうか。
酒井さんがコメントしてくれた、attributionとは、わたしの不十分な理解では、記述の次元で事後的に構成される・認められるものですよね。一種の係留点を立てなければ、自律した「コミュニケーションを生むコミュニケーション」の説明原理がありえないことに由来するものでしょうか。
まとまりないですね。もうすこしルーマンをちゃんと読んでから質問することにしましょう。
酒井です。
原さん、レスありがとうございました。
原さん wrote:
「撤回」するのは、原本人です。ルーマン研究者がたくさんいるなかで、「夏の虫」のような書き込みをしてしまいましたね、これは。
ルーマン研究者なんてたくさんはいないので、だいじょうぶ(?)でしょう。
ただし、オートポイエーシス的な転回を経たといわれるシステム論のなかに、「主体」に類似したものを立てなければ、説明が成り立たないとするなら、これは問題だと思います。
すかさず「なんで?」と問うてみたくなるんですがそれはあまりにベタなので遠慮するとしても、でもやっぱり
“その”「主体」って“どの”「主体」なの*?
とききたくはなってしまいます(^_^;)。
わたしが、気になったのは、「意識システム」と「人格」です。
【略】
はじめにまとめちゃうと、意識とコミュニケーション事象を切った身ぶりと、決定や主題化に関して「主体」に類似したものの再導入は、一貫性の点で齟齬がありませんかとの疑問です。
どうやら、“ここ”を見る限りでは、原さんの謂う「主観=主体」とは、社会学者の謂う「person」概念のことのようですね。
#そうですか?
で、原さんが「気になった」のは:
前者[=心的システム]はコミュニケーションと切られているわけですし、後者[=パースン]は実在的な統一体と考えているわけではないですよね。([ ]内は酒井による補足)というのでもって、答えられてると思いますけども。。。。
人格とは、「主題化」のために仮定的に措かれるものですよね。この人格をもちだす必然性は、意識システムとコミュニケーションに断絶を入れた上で、システム論的にコミュニケーション・社会の事象を説明することの困難にあるということはないでしょうか。なるほど。
酒井さんがコメントしてくれた、attributionとは、わたしの不十分な理解では、記述の次元で事後的に構成される・認められるものですよね。一種の係留点を立てなければ、自律した「コミュニケーションを生むコミュニケーション」の説明原理がありえないことに由来するものでしょうか。然り且つ否だとおもいます。
まとまりないですね。もうすこしルーマンをちゃんと読んでから質問することにしましょう。
とかいってると人生おわっちゃいますので、マターリいきましょう。