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2001年5月~8月:Selection を巡って3@デリダML

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To: <derrida@egroups.co.jp>
Date: Thu, 31 May 2001 14:24:14 +0900
From: 原 宏之
Subject: Re: [derrida] 「選択」再訪

原です。
ちょっと簡単に応答できるような問題ではないですが、書ける範囲で書いておきます。

どうやら、“ここ”を見る限りでは、原さんの謂う「主観=主体」とは「person」のことのようですね。
#そうですか?

一番は、意識システムと社会システムの「関係」です。「人格」がそのつぎです。コミュニケーションの観察に係留点(の構築)が必要なのは、コミュニケーションを「行為」と考える限りにおいてだと思われます。「行為」/現象or出来事。意識システムが、時間と表象の連鎖の関係で説明されるときに、よく理解できるんです。ただ、社会の組織として、意識システムが要請される必然性がよくわからないのです。
 社会システムの構造的要素は、行為の主体(成員)ではなくて、コミュニケーションであるというときに、なぜ意識のような哲学的課題が導入されるのでしょうか。社会<の>オートポイエーシスを厳密な意味で考えようとするときに、それはむしろ障碍となるのではと。社会-心-生命体と結べるのは、アナロジーの次元であって、それらを複合的なシステムの観点から考えるのはムリなのでは、との素朴な疑問があるのです。(『自己言及性について』の第一論文でいわれる)「オートポイエーシスの一般理論」とは、普遍的妥当性をもつ論理と理解すればいいのであって、すべての事象の連関を立てる必要はないのではと思うのです。
 わたしが、対人間コミュニケーションの係留点と暗に前提にしているのは、おそらくコミュニケーションの生起-出来事の事実です。誰が、誰に向けて、どのような意図で、メッセージを送ったかは問題ではないと。システムによる観察とその機能を環境とのコミュニケーションと考えると、その方がすっきりしませんか。
 言語理論的な出来事-アーカイヴの問題系では、意識を問う必要がありません。出来事としての(顕在的・潜在的or成功・失敗)コミュニケーションは事実性だからです。たとえば、政治的コミュニケーションでの発話の主体を、「権力の保持または否」ではかるとします(つまり、相応しい立場からのエノンセであるか)。そうすると、発話の主体の意識は問題にならないわけですよね、問題なのは社会的に規定された資格であると。政治のコードに従えば、少なくともそう機能する。むしろルーマンのいうような「意味論」がたいせつなのではないでしょうか。
 ここで、主体と呼んでいるものは、行為の主体ではありません。というか、フーコーの「ディスクールの場」のようなシステムの発想では、主体なんて必要ないですよね。エノンセの布置、他のエノンセとの共在や通時的関係、協調・排除の関係などから、発話の主体の位置がアサインされるわけですから。ポイントはエノンセにあると。

 「魂に対する態度を採る」ということは、一方では社会システムのコミュニケーションから成る状況的な選択の可能性があり、他方では魂(のなかのコミュニケーション?)に対するさらなるコミュニケーションの可能性と、ふたつの種類の「きっかけ」があるということでしょうか。

そして、この“魂に対する態度を採る”という事態が、
魂(「心的なレヴェル」)で起こっているのではなく、
「社会的なレヴェル」で
 #=コミュニケーションにおいて
起こっているのではないか

一方のきっかけである魂(の状態──知覚も含まれる?)に対する態度が、社会的なコミュニケーションになるとは、「結果」として、そうなる(社会システムに観察可能なものとなる)ということでしょうか。

いま私が何を考えているかというと──と、「手の内」を明かしておくと──、ひょっとして、ベタに「係留点なし」な議論を目指しているがゆえに、「コミュニケーションにおいて、意図は-主観に対して-現前しない」(デリダ)などといったタグイの“極端なこと”をいうハメ[→いわざるをえないところに“追い込まれる”こと]になるんじゃねーの、云々、
 ──といったことです(^_^)。

ある程度近いです。ただ、わたしはむしろ、「意図はトランスポートできない」(SEC)の方をむしろ考えています。デリダが、「マーク」の反復可能性と呼んだものを、メディオロジー的に考え直して、象徴次元と技術次元の相関関係「メッセージの発信の諸条件」としているのです。

▲先頭
To: <derrida@egroups.co.jp>
Date: Fri, 1 Jun 2001 00:36:33 +0900
From: 酒井泰斗
Subject: [derrida] Re2:「選択」再訪

酒井です。
原さん、お返事ありがとうございました。

ちとゆっくりレスを書いてる暇もナイながら

それにハナシがだんだんディープになってきたし(>_<)ヽ
いらぬ横道にそれぬためにも、一点だけ、指摘させて下さい。

【原-発言】
一番は、意識システムと社会システムの「関係」です。「人格」がそのつぎです。コミュニケーションの観察に係留点(の構築)が必要なのは、コミュニケーションを「行為」と考える限りにおいてだと思われます。
【略】
社会の組織として、意識システムが要請される必然性がよくわからないのです。
 社会システムの構造的要素は、行為の主体(成員)ではなくて、コミュニケーションであるというときに、なぜ意識のような哲学的課題が導入されるのでしょうか。
まず、
(1)「コミュニケーションは行為ではない」というのは、ルーマン自身の述べていることである。
(2)ルーマンは、「社会の組織として、意識システムを要請」してはいない。
(3)ルーマンは、「社会システムの構造的要素は、行為の主体(成員)ではない」というときに、「意識のような哲学的課題」を導入してはいない。
ということを、ハナシの前提として確認しておきましょう。
これは単なる事実であって、その当否(うまくいってるかどうか)は、もちろん別のことです。

で。
とりあえずいいたいのは、ルーマンが(1)のように述べており、しかも(2)や(3)のようである“にもかかわらず”、原さんには“そのように”[=【原-発言】]読めた、という点こそが、まずは問題になるのだろう、ということです。

したがって、──贅言と知りつつ換言すると──
ルーマンが述べていること
と、
“そこ”から──ルーマン自身はそう考えていないが──帰結する[かもしれない]こと
とは、分けて話した方がよいです。

なので・・・、ルーマン自身は(1)(2)(3)のようなつもりであるのだが、
   “にもかかわらず”、
    ~~の理由から(~~というところをみると)、
    ・・・である*
といった感じでハナシをすすめていただけるとありがたいです。
* 「やはり主観性を要請しているのと同じ事になっている」
 「自分の述べていることを裏切っている」(^_^;) などなど。

ではでは。
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