- 1. 本書の発見:人々の方法論としての二つの「見る」仕方
- 2. 「一瞥による判断」「手がかりによる判断」をめぐる分析について
- 3. 性別秩序における「外見」「ふるまい」「性役割」
- 4. 性別秩序を生きる「私たち」のなかの差異
- 5. MtFとFtMの「外見」をめぐる葛藤の違い
- 6. 性別秩序の再生産と変容
- 7. 本書の記述とコンテクストについて
1. 本書の発見:人々の方法論としての二つの「見る」仕方(41)
「一瞥による判断」「手がかりによる判断」
- 「理解」と「解釈」の差異 「焦点の定まらない相互行為」における性現象
- 「見る側」の行為の形式の説明(Kesslerらへの批判)
- 「一瞥による判断」によって、女だと見られるようになっていても、自らが自らに「手がかりによる判断」をすることによって女には見えていないと思ってしまい、女らしさにこだわり続けてしまう(92)
- 「行為すること」と「見えること」の違い(101)
2. 「一瞥による判断」「手がかりによる判断」をめぐる分析について
Garfinkelへの批判に対する疑問
- 鶴田: 手がかりによる判断をいかに避けたかを記述しているが、女「である」という「一瞥による判断」をなされるために、アグネスが何を「している」のかは記述されない(45)
- 鶴田: 彼女らが志向していたのは「本当に」女であると「一瞥による判断」をしてもらうこと(59)
→ 鶴田氏が、当事者にとって「一瞥による判断」の重要性を発見した、ということ大きな成果。この概念は、Garfinkelは論じていない.手がかりから判断されること=パッシングの失敗
- 鶴田: Garfinkelが「する」ことではなく、「ある」こととしてしか描いていなかった。(61)
- 鶴田: 「一瞥で端的に女だと見なされることを、達成し続ける実践」「語られなかった」(63)
→ この批判への疑問
パッシング
「自分で選んだ性別で生きていく権利を獲得し、それを確保していく一方で、社会生活において男あるいは女として通っていく際に生ずるやもしれない露見や破滅の可能性に備えること」
(Garfinkel 1967= 1987: 219)
→ 確かに彼氏がいたアグネスはすでに
(中途半端ではなく)「ふつうの外見」であることを獲得したことが前提で、隠していたのは衣服のなかの「身体」。しかし、「女と見られることそれ自体が、「する」ことだ」
(鶴田: 63)ということは、Garfinkelも記述しているのではないか?
アグネスの女でありつづけるための「する」実践
- スカート付きの水着を着る(個人用のバスルームか寝室が利用可能だとわかるまでは着替えない)
- 車の運転はしない(万が一交通事故にあって意識を失い、自分の体の秘密が露見してしまうことを恐れる)
- ルームメートとは互いの前で肌をさらさないと決める(but 手術の検査のための開腹術のあとを見られる「盲腸の跡よ」「合併症があったの」→「危機的状況の処理」(250))
- 会社での尿検査で医務室に備え付けの便器を使うように案内された→看護婦に見つかるかも+尿で性別がわかってしまうのでは=家に帰ってルームメイトの尿をもってきた
- 「あのきれいな子は誰だい」という言葉→勝利!(255)
- 「たくさんの兵隊さんの注目を浴びて、とても楽しいものになったわ」(260)
→ これらは本書の「髭を隠す」(52)こととどこが違うのか
鶴田: A「「ふつうの外見」であることをすることをし、パッシングするという局面に参入する権利を得ること。さらに、それをするなかで
B「手がかりによる判断」を呼び起こさずに、「一瞥で「本当に」「ふつうの外見」を持つ者だと見てもらうことを達成しつづけること」(63)
「する」を論じていないという批判 | → ? | 下線部BはGarfinkelも記述 |
「焦点の定まらない相互行為」に焦点をあてていない、という批判 | → ○~△
| |
「ふつうの外見」「端的な女の外見」を獲得するまでの経験と、その後の経験、ライフヒストリー上の段階を区別していない、という批判(下線部A) | → ○ | |
鶴田: 第3章「声も出せないし、顔もあげられない」Gさん(78)と、「十分」女に見られているJさん(84)の違い
→ ただし,3 の立場をとってしまうと、「通過作業を行い続けた
(passing)」ではなく、「女性として通過した
(passed)」という視点をとることになるが、それでいいか。
(本書の「男としてパス」「女としてパス」という表現との関係)
→「一瞥による判断」をつづけることと「手がかりによる判断」を避けること
(ガーフィンケルのいう「危機的状況」への対処)は,「見られる側」にとっては,どの段階においても切り離せないのではないか.
「見られる側」にとっての違い
- 鶴田: 「女に見えているか」ふつうの明確な基準(68)はない /「完全」「不完全」の基準も不明確(91)
- 鶴田: (当事者が)他者の「一瞥による判断」と自分の「手がかりによる判断」を混同している(92)
→ 「一瞥による判断」を達成しつづけることと、他者の「手がかりによる判断」を避けるために「男の手がかり」を見つけようとすることは、「見られる側
(見られる仕方)」にとって違う実践なのだろうか?両者は区別されるのだろうか?
→「混同」という表現の意味.「混同せず区別することが可能だ」の含意.誰にとって?
「手がかり」を見つけられたら、「一瞥による判断」も失敗する。だから、手がかりを消そうとする。これは混同なのか? 主観的には理に適った行為なのではないか?
→あなたは 「一瞥による判断」はクリアしつづけています、という判断を誰が下すのか.観察者?
3. 性別秩序における「外見」「ふるまい」「性役割」
人が性別を持つということが社会的であるとフェミニズムが言ってきたことの、その「社会性」とはいかなるものであるの記述を行い、その際には、社会的性差 の原因を追及するのではなく、性差があるとされていることの、言い換えるなら女と男は異なると言われることの、日常生活における規範性の記述を試みています。
(3つの質問の答えより)
「ふるまい」における葛藤
Garfinkelの議論、「見られる」という実践よりも、「外見」以外の「女らしさ」を身につけることによって「手がかりによる判断」というリスクを回避しようとしていたことを記述
- ボーイフレンドとの会話から受け身的な態度が望まれるべき女性的特徴であることを学ぶ
- ボーイフレンドの母親をロールモデルにする
ここでいう「ふるまい」= T: 身振りや手振り、人付き合いの仕方(140)
パス=「外見」+「ふるまい」
- 鶴田: 「ふるまい」における中途半端さへの批判「たとえば生理休暇とか平気で取る」(142)
→ 「外見」だけでなく、「ふるまい」「性役割」
(広義には職業選択も含め)が性同一性障害の人にとっての「困難」として経験されることはないのか。「不完全なふるまい」
- 性別を越境していない私たちが「外見」「ふるまい」における「女らしさ」「男らしさ」を迫られる経験との違い.
本書の発見をジェンダー研究のなかに位置づけると,どうなるか
→「見る」「見られる」という行為,「外見」をめぐる性別秩序=「ジェンダー」の深層といえるのか?
「外見」を達成しつづけなければ、「ふるまい」で女性らしさを達成しても無駄
ex. 私(山根)が求められている女らしさ:「職場での性役割」<「ふるまい」<「外見」
男女で異なる委員会につくことはなくとも,「ネクタイ」をしめていくことはありえない
→「外見」や「ふるまい」のジェンダーが多様化すれば、性同一性障害の生きづらさが軽減すると考えるか、などその他、本書で書いていないこと
(博士論文の内容)についてお話を聞きたい。
4. 性別秩序を生きる「私たち」のなかの差異
- 鶴田: 「私」も同じように「女らしいものに加工しようと、躍起になっている」(17)
ここでいう「私」=「女としての私」
「女らしくない」
(ジェンダー)手がかりを見つけられるのを避けようとすることと
「女ではない」
(生物学的身体)手がかりを見つけられるのを避けようとすることの違い
ex. 「きりがない「ふつうの外見」の獲得へと駆り立てられる」→ 摂食障害の経験者の「駆り立てられ方」の違いを非当事者が「共感」できる、のか?
→「女としての私」という同一化、経験の共有、共感は可能なのか、フェミニスト・エスノグラフィーの問い(Stacy 1988)
鶴田氏は、むしろ、性同一性障害の当事者の経験の特殊性を明らかにした=「手がかり」が発見されたときの,社会的制裁の違い/鶴田: 「中途半端な外見に対して向けられる威圧的なまなざし」(83)
→同じ性別秩序を生きている(課題の共有)。しかしそこでの経験は異なる
「私」と「性同一性障害」の経験=「部分的同一化」ではないのか?
→ 「私たち」のなかの「差異」
性別を越境していない人々と越境している人々の関係
支配/被支配 ~ 有利/不利 ~ 性別秩序を再生産している共犯者?
性同一性障害>TV、同性愛
5. MtFとFtMの「外見」をめぐる葛藤の違い
- 鶴田: 「でもなんか、状況過酷だよねMtF。FtMでも過酷な人もいるけどさ」「やっぱり男性が女の格好するってさ」(75)
「男らしさ」の定義 → 「女でないこと」「女々しくないこと」→ ミソジニー
MtFとFtMでは「中途半端さ」の範囲が違う
(フェミニンな男性<ボーイッシュな女性)→ MtFのほうが過酷という表現につながっているのでは?
また、8章の記述・・・・外見よりも、「ふるまい」
(男としての一貫性)「性的指向」に焦点があたっている
→ 本書で書ききれなかったデータをお持ちだと思うので、教えてほしい
6. 性別秩序の再生産と変容
鶴田氏の分析,性同一性障害の当事者が,いかに社会の性別秩序(身体と心の性の一致,一貫性,恒常性)に適合した実践をおこなっているか,すなわち性別秩序を再生産しているのか,という記述として説得力
→ しかし私は、いかにして性別規範が「揺らぐのか」,ということに着目して読んでしまった。「ニュートラルでもよかったかも」(82)「その人が、見たとおりでいいやって思ってる」という当事者の語りにむしろ「発見」があった(性同一性障害=どちらかでありたい人々、という思い込み)。
TS/TGの人にとっての性別規範と、TVの人にとっての性別規範とは?
TS/TGの成員資格 「パス」一貫性
(身体違和)恒常性、日常性 これらの基準=社会における「女」「男」
TVにとっても女装は「逸脱行為」なのか、
女装という行為が増えれば、性別規範が揺らいでいる、といえるのか
エスノメソドロジー
(or サックス)の規範
- 鶴田: 規範=抗事実的である(132)
規範=観察可能な外見ではなく、「行為の帯びている意味」
「「ふさわしくない行為」だと理解する」のは、規範があるから(前田・水川・岡田編2007)
第7章の分析: 女装→「性同一性障害」概念の流布は、性別秩序を強化したのか?
7. 本書の記述とコンテクストについて
- 三橋の議論 : 当事者の語り、相互行為の「場(いつ、どこで、どんな状況で)の要素が希薄」(102)
- 鶴田: 「そのような現状とは関係なく、重要だと私が主張しているのは、性別カテゴリーの特性」「性別とは見てわかるはずのもの」(105)
- 鶴田: 「本書では女装は忌避されるものとして描かれている。しかし、それは、性同一性障害というものが成立し、社会一般に浸透する過程において、性同一性障害の当事者にとってはそうだった」(51)
- 三橋: パスしなくても、しっかりdoing female genderしていれば「女扱いになる」(104)
- 鶴田: 「私のデータが、トランスジェンダーではなく性同一性障害に偏ったものであるだけでなく、関東という場所、調査の時期に限定的であることは間違いない・・・しかし、そのような現状とは関係なく、重要だと私が主張しているのは、性別カテゴリーの特性なのである」(104-5)
→ 地域/時代/カテゴリー 子どもや高齢者、MtFとFtMの違い
以下、メールでの議論
エスノグラフィー
本書の記述は,地域限定的であるだけでなく,きわめて時代限定的でもある.当事者たちがどのような相互行為を行っているかは・・・非常に流動的に移り変わっている.したがって,本書は,東京を中心とした調査の場所と,90年代半ばから約10年間という時代を切り取ったエスノグラフィである。
(208頁)
- 山根(メール): エスノグラフィーであるのに、「フィールドの動向とインタビュー調査対象者の全体像」が「付録」にあるのはなぜなのか?
(佐藤郁哉1984『暴走族のエスノグラフィー』序章 世界の暴走族、日本の暴走族の歴史 → 事例の分析)
- 鶴田(メール): 第Ⅰ部の「見られることに関する不安は(どのインフォーマントも)変わらない」
「歴史的限定性は第Ⅱ部の記述にあてはまる」=第Ⅰ部 行為の一般的な形式/第Ⅱ部 歴史的限定性
- 山根(メール): 第Ⅰ部でも、性別秩序へのこだわりの強弱
「会ったときに,その人が見たとおりでいいやって思ってる」(33)言うAさんの語りと
「男としての一貫性を,もう,壊したくないのよ」(58)というようDさんの語り
→ 分析において当事者の多様性、ひとりの声の矛盾や非一貫性を排除していないか
→ 何がこの語りの違いを規定しているのか。ライフヒストリー,年齢,MtfF / FtMによる違い
コンテクスト
- 山根(メール): コンテクストを分析に含めないということの含意=「このような相互行為をおこなっている」という記述,分析はおこなうが「なぜそのような行為をするのか」という説明については,(「二元的な性別秩序があるから」という要因以外)、(相互行為の)行為者の世代,階層,地域,エスニシティ,言説資源から説明したりはしない,ということだと理解してよいでしょうか .
- 鶴田(メール): 行為者の話していることを分析の資源としているのでそうなる。説明の形式を取る因果関係の問いを立てない、という方法 論上の問題
→相互行為の形式を記述するというスタイルに生じる問題
コンテクスト |
:相互行為の場における規範 |
【お見合いパーティ ~ 山登りの途中】 |
:行為者のカテゴリー(言説資源) |
【性別、MtF,FtM、世代、権力】 |
:性同一性障害をめぐる言説の状況 |
【医療の言説の優位性 〜 なんちゃってをも含む多様性への承認】 |
→ コンテクストの特定=「因果的説明」なのか?、理論家が特定した社会構造にすぎないのか?
→「生きづらさ」を解消していくためには、行為の形式の説明だけでなく、コンテクストの特定が必要ではないか。たとえば、家族やクラスメートなどの「承認」が得られ、その関係のなかでは、ニュートラルでいられる。校内に自分用のトイレがあれば、どちらに入るかを迫られないなど。女らしさ、男らしさに駆り立て続けないためには、何が必要なのか?
社会構造
「ミクロな現象を見ているだけでは、マクロな現象(社会構造、文化、制度)は扱えないのでは?」→EMの目的は、メンバーがその手でひとまとまりの「ローカル」な場を発見したり記述したりする方法を同定することにあります。・・・行為と社会構造のあいだの関係性について「因果的」に考えずに、相互に構成する「パターン」と「詳細事項」の関係として考えるべきで、ある人の行為がなんであるかは、それがその一部となっている社会構造が何であるかに依存してしか認識できません。ふつうの社会学が求めている社会構造は、理論化によって、もともとあった場から切り離されて記述された社会構造だということになります。
(ワードマップ エスノメソドロジー「よくある質問と答え」 259)
→ 本書の分析における「社会構造」とは何か。社会構造とコンテクストの関係は?
文献
- Garfinkel, H., 1967 “Passing and Managed Achievement of Sex Status in an ‘intersexed person’ part1 an abridge verstion,” Studies in Ethnomethodology, Prince-Hall: pp. 116-85 (=1987, 「アグネス、彼女はいかにして女になりつづけたか―ある両性的人間の女性としての通過作業とその社会的地位の操作的達成」 山田富秋ほか訳 『エスノメソドロジー―社会学的思考の解体』せりか書房, pp. 217-295).
- 前田泰樹・水川喜文・岡田光弘編 2007 『エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ』 新曜社.
- 小田博志, 2010 『エスノグラフィー入門〈現場〉を質的研究する』 春秋社.
- 佐藤郁哉, 1984 『暴走族のエスノグラフィー―モードの叛乱と文化の呪縛』 新曜社.
- Stacy, Judith, 1988, “Can There Be a Feminist Ethnography?” Women's Studies International Forum 11 (1)