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2013-04-30 掲載 2013-04-30 更新

鶴田幸恵『性同一性障害のエスノグラフィ』鶴田幸恵『性同一性障害のエスノグラフィ』合評会

ここには、2013年04月27日(土)に 東京大学社会科学研究所において開催した 社会学研究互助会第六回研究会「鶴田幸恵『性同一性障害のエスノグラフィ』合評会」における配布資料などを掲載しています。

このコーナーの収録物 鶴田幸恵さん (配布資料) (三つの質問への回答  
  山根純佳さん (配布資料) (討議)
  浦野 茂さん (配布資料) (討議) ←このページ
  全体討議摘要  

※本書の紹介ページがあります。あわせてご覧下さい。

『性同一性障害のエスノグラフ──性現象の社会学』について
浦野 茂(三重県立看護大学)

概要

性同一性障害者の経験と実践は、この人びとを特殊な人びと(あるいは障害をもつ者) とする際の背景として存在する性別秩序のあり方を、教えてくれる。したがって本書は、この人びとの語りを通じて得られた経験・実践から、性別秩序のあり方を明らかにしていくことになる。基本的に、大きな疑問はない。よって本報告は、本書の議論にもとづきつつ今後私たちがどのような事象や側面に注目していけばよいのかを考えていくための基になることをめざしている(ほとんどの質問や論点は、そのつど脚注において行っている)

[1] 第一部
性別判断
パッシング
二元化された端的な外見への追究
[2] 第二部
心の性を “見る” 実践
正当な性同一性障害の当事者であること
TS/TG の使用基準
差異化の実践
道徳的存在としての性同一性障害者
[3] 方法について

[1] 第一部

性別判断

 第一部は、性別判断の先行研究の検討から始まる。先行研究によると性別判断は、次のようになされるという──既成の共通基準があり、これと対象を照らし合わせることで性別の判断が行われ、判断の一致が帰結する〔共通の基準による解釈としての性別判断〕。この説明はしかし、特殊な状況・実践についての説明を過度に一般化したものにすぎず、よって性別判断一般についての説明であることを否定。結果、局所的な性別判断の様々なあり方に着目──「一瞥による判断」と「手がかりによる判断」。

パッシング

 これらは些末な問題に見えるが、性別を判断される者としての性同一障害者の経験と実践──とりわけパッシングの実践──を理解するにあたっては、重要となる。なぜなら性同一性障害者にとって、両者の違いは大きな意味をもっているからである──後者はパッシングの失敗を意味しており、よってパッシングは前者での判断に向けてなされている。ちなみに、これまでパッシングを対象としたゴッフマンとガーフィンケルの記述には、このようなパッシングの最優先課題が扱われてこなかった。彼らの記述は、パッシングの実践に焦点を当ててはいるものの、パッシングする者がまず第一に問題・課題としてきたことをじつはうまくすくい取れてこなかったと著者は述べている──ゴッフマンは隠蔽を、ガーフィンケルは手がかりによる判断が生じるてしまうのを避けることに焦点を当てていたとのこと(→注1)。このことが、見る実践(性別判断)の多様さとそれへの性同一性障害者の敏感さを明らかする本書によってあらためて分かる形になっている。

注1 たしかにこの部分は納得のいく議論であるとの印象をもった。けれども他方、依然としてすっきりしない部分が残る──すなわち、手がかりによる判断を避けるためのパッシングの実践と、一瞥による判断に向けて行われるパッシングの実践とは、その内実として異なるところはあるのだろうか? 言い換えると、希望する性別としてまず一瞥によって判断されるということと、その性別としてパスし続けていくこととは、実践として異なるものなのだろうか。ポイントをつかめていないだけの恐れもあるが、この点についての著者のご意見をうかがいたい。

二元化された端的な外見への追究

こうしたパッシングの実践は、性同一性障害者をして性別の端的な表示へと差し向けていくことになる。なお、パッシングの失敗は行為者の否定的な道徳的評価を帰結する。よって、パッシングの実践は、それがかりに出発点が身体の性別への違和感とその解消から出発したものであれ、二元化された性別の外見を積極的に呈示していかざるをえない〔二元化された性別の規範性〕。また、この規範性は、パッシングを行う者が自身をまなざす際にも用いられ、自身の外見に対する絶えざる吟味──したがって元の性別を図としながらその手がかりとなる特徴を見出す終わりのない作業──に帰結する(→注2)

注2 この部分(第3章第6節そして246-8頁の注2)はとりわけ示唆に富んだものとなっている。とはいえ、著者がこの議論をどのような身分の知見として示しているのか、お考えを確認したい。個人的には、性同一性障害者の心理構造についての仮説(?)を提示しており、よって他の箇所の議論──性別に関わる実践を成立させている概念を記述しているといってよいと思われるが──とは、いくぶん毛色が違うように思われる。その点は、この論点について言及するさいに、「仕組み」という表現が用いられていることからも、うかがえる(92頁、93頁)

[2] 第二部

心の性を “見る” 実践

 第二部の議論の焦点は、「性同一性障害」というアイデンティティ・カテゴリーの適用や管理である。1995年、SRS の実現に向けて医療内部からの動きが現れ、1997 年に治療ガイドライン策定される。SRS やホルモン治療の前段階として精神療法が位置づけられている。そして第二部はまず、この精神療法において精神科医がどのようにして「正統な性同一性障害」をもつ者を判定して(見出して)いるのかが、当事者の語りから描かれる(→注3)
 それによると、精神科医の作業は、対象者の立ち居振る舞いをデータとしながらそこから帰納的に(?)「心の性」を見出すようなものではない。むしろ、対象者がある性別であることを前提にしながら、その手がかりを対象者に探し出す作業──したがって第一部の「手がかりによる判断」「~として見る」と同じ作業──であるという。こうした前提の採用に大きく依拠するゆえ、精神科医による「性同一性障害」の判定には、恣意性が残る。だからこそ「正統な性同一性障害」たらんとする人びとは、やはりいかにもなステレオタイプな振る舞いをし続けることを、強いられることになる。結果、性同一性障害の概念は、性のあり方の多様性を許容しうるようでいて、そうした可能性を閉ざすことになっている。

注3 1996 年7月の答申について報じた雑誌記事には、山内俊雄が「性転換症」と述べるコメントが引用されている(週刊新潮第41巻第26号, 134-7頁)。同じ “transsexual” に対する訳語ではある。けれども、こうした訳語の変化なども、性を変えることにまつわる道徳的な含意の違いについて述べた本書の内容を踏まえると、いろいろ論議があったのではと気にはなる。ご存じのことがあれば、教えて欲しい。

正当な性同一性障害の当事者であること

 性同一性障害の概念は、その診断が医師によって行われる。よってこれは、性同一性障害の人びとにとって他者執行的カテゴリーである。しかしこの人びとは、医学の基準を参照しながらも、当事者として独自に「規範的なものとして管理する実践」を行っている(127頁)(→注4)。性同一性障害の下位カテゴリーであるTS とTG について、この実践を記述することが、第6章と第7章においてなされる。
 まずは、TS カテゴリーだが、ひとたびはTG に引き寄せられて当事者カテゴリーとして自己執行的に用いられていたこともあったが、性同一性障害概念の登場にともない、これの下位概念として、TG→TS とSRS へと至る段階的カテゴリーとして、医療者によって定義される(他者執行的カテゴリーに)(→注5)。しかし、このカテゴリーにあてはまる人びとが、医学的定義を参照しながら、独自にこのカテゴリーとその使用を管理する実践が行われている──「他者執行だとも自己執行だとも言えないような奇妙なカテゴリー」の使用実践(148)

注4 この部分で、あえて「規範的なものとして」と追加されていることのねらいがよく分からない。「医学における使用は規範的ではなく当事者の実践が規範的である」とも読めるが、それでよいのか──医療現場におけるこの使用が「日常生活者の直観にもとづいて」(124頁)おり、「性別規範を体現する場」である(125頁)以上、よくないと思うが──。では、そうでなければ、どのようなねらいがあるのだろうか?
注5 この周辺の叙述は、日本における状況について述べらていると理解してよいか。

TS/TG の使用基準

 当事者の語りから、TS とTG がどのような基準にもとづいて用いられているのか──どのような活動・状態がこのカテゴリーと結びついているのか、したがってどのような活動をする人物はこのカテゴリーから除外されるのか──が描き出される。その基準は、医療への依存度(SRS に差し向けられた序列)、犠牲の程度(SRS に向けた多大な犠牲)、パスへの持続的な意志、希望する性別の一貫した呈示。
 このようにTS とTG は、当事者によって独自の基準で用いられている。当事者は、適用基準を独自に作り上げてこのカテゴリーを管理し、かつそれが適用される人物のあり方を統制している──すなわち、みずからがどうあるのか、どうあるべきなのか、どう接されるべきなのか、どう評価されるべきなのかを統制している。しかし他方、この基準が医学の基準を参照している点において、自己執行的カテゴリーとは言えない。この点を著者はこう述べている──「性同一性障害は、医療者という権威をもつ者によって決定されるものでありながら、その正当性が、当事者間で独自に争われているという点において、他者執行だとも自己執行だとも言えないような奇妙なカテゴリーとなっている」(148)(→注6)

注6 ここは、とても興味深い論点。一方において、同じTS/TG という言葉を用いていながらも当事者が自己執行的に用いているように見える。他方、その言葉が、データにおいては SRS や RLT など医療的措置に向けた行為のあり方と結びつけられており、したがって医学的定義を踏まえその域を出ない範囲で用いられているという点において、他者執行的であるようにも見える(類型化にさほど意味はないが、代理執行的と言うべきか)。ともかく、このあたりの問題提起は示唆に富む。とくに、こうした代理執行的な使用が、当初準拠していた医療における使用と齟齬を来すような状況があると、面白いと思った。

差異化の実践

 性同一性障害のカテゴリーはまた、他のカテゴリーとの差異化をつうじて、消極的なかたちでも管理されている。
 まずは、MtF の性同一性障害者と女装者との差異化について。「女装」が道徳的に説明責任の求められる行為であり、よって「女装者」はスティグマの付与されたカテゴリーである。他方、性同一性障害はこれとは異なるものとして管理されている。すなわち、「身体違和」をもつという医学的カテゴリーであり、行為や欲求のあり方に問題があるのではなく、身体に問題があると、差異化される。これに対応して、特殊な場面設定に限定された行為ではなく、恒常的で一瞥で分かる女性への志向をもつものとして、やはり差異化される。このように医学的カテゴリーであることを背景に、性同一性障害およびその当事者を「ノーマルな存在」(175)として位置づける実践が示される。
 つぎにFtM の性同一性障害者と「なんちゃって」および「レズビアンのタチ」との差異化について。テレビドラマで主題となって以降、該当者が増加したとされる性同一性障害カテゴリーについては、「なんちゃって」(偽物)との差異化をつうじて、その意味を限定していく。「なんちゃって」は「誤って」「勘違いしている」と述べることが、すなわち自身を正誤の判断できる真正な性同一性障害者であるとし、そのうえで自己の真剣さや性別の一貫性を主張していく。また、一部にはホルモン注射をするレズビアンのタチ──注射という行為そのものを見れば性同一性障害者と重なる──とは、自身の注射が医療による治療であること、女性としてみられる場面に出入りしないという点で性自認の一貫性を主張することで、差異化を行っていく。

道徳的存在としての性同一性障害者

 以上が、性同一性障害の当事者の語りから著者が引き出したものについての、大雑把なまとめである。
 性同一性障害は、医学的カテゴリーであり他者執行的カテゴリーである。すなわちこのカテゴリーは、医師によって定義・管理・適用される。他方、これを適用される人びとは、一方で自身がその適用にかなう存在であろうとして努力し、他方で同時にそのような自身に適用されるこのカテゴリーを自主的に管理することをも行う。それによって当事者は自らを「「道徳的な」存在」(201)として──当事者とは、どうあるべきで、どう周囲と関わるべき/関わられるべき存在なのか──作り上げていく。
 性同一性障害が医学的カテゴリーであり、よってこれは「道徳的に負荷」のかかった他カテゴリーから当事者を解放し、「ノーマルな」存在とする。しかし他方で、そのような存在であることを期待されるしそうであろうとして、当事者は、医学的カテゴリーがその前提として採用している常識的性別規範によって、このカテゴリーと自身のあり方とを統制していく。結果として、性同一性障害は、既存の性別のあり方から逸れる人びとの存在の仕方の可能性を示しつつも、その可能性を既存の性別規範によって限定することが最後に示唆されている。
 性同一性障害の概念じたいが、常識的性別規範を前提に成立しているのだから、性同一性障害の当事者じしんがすでにして規範や道徳のなかにいる存在である。したがってそのような存在が自らのあり方を維持しようとするならば、おのずとこの規範・道徳を維持することによってそれがなされることになるだろうし、だからこそこの実践のうちに既存の性別の秩序のあり方を確認することができたように感じた。そのうえで、こうした実践とは反対に、性同一性障害の成立の前提となっている規範や道徳をむしろ緩めていく実践について、教えてもらえると個人的にはうれしいと思う。

[3] 方法について

 本書のアプローチは、当事者に対して著者本人がインタビューから、当事者の用いている方法を明らかにしようとしている。先行例として、数は少ないが、M. モアマンによるエスニックカテゴリーの研究や L. ウィーダーの受刑者コードの研究などが思い当たる。よってこの方法じたいに問題があるとは思わない。
 そのうえで言えば、本書のユニークな点は、複数のインタビューとその記述をつなぎ合わせながら、性同一性障害の実践の秩序についてまとまった構図を提示していくことにあるように思う。たとえば、「終わりなき「女らしさ」の追求」の仕組みや、性同一性障害カテゴリーの基準が、これにあたる。そしてこれを提示するために、本書は、対象者の異なるインタビューを結びつけながら行っていく。しかし個々のインタビューが、同じ実践について、あるいは同じ概念について述べているものだと言いうるのはどのようにしてなのか──言い換えるならば「人それぞれ」でなく相互に連関した部分であると言いうるのはどのようにしてなのか──、疑問に思う。著者がこの点について、どのような判断基準にもとづいて行っているのか、うかがってみたい。

討議

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