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「教育システムの反省問題」序文[1/32/33/3

Date: Tue, 28 Jul 1998 22:11:09 +0900
From: 今井重孝
Subject: [luhmann:00020] 「教育システムの反省問題」序文訳(3)
今井です
「教育システムの反省問題」序文の最終部分の訳です。
こうした仮定に従うと事態は複雑なものとなる。まず第一に教育的意味世界の伝統においても、教育の社会構造においても、それぞれの変化に対する独自の決定要因がある。なぜなら、意味世界にせよ社会構造にせよ、いかなる発展もそれ特有の出発条件抜きには考えられないからである。18世紀の後半にわれわれの関心を引く機能分化の動きが始まった時、人々はクインティリアヌス、コメニウス、ロックなどを引用することができた。また、人々は、父親、母親、乳母、家庭教師や学校に関する経験を、その時既に持っていた。著作も組織も既に存在していたわけである。それゆえ、従来の著作は新たな著作によって批判することができたし、教育システムの構造的な欠陥は、組織改革によって埋めることができた。しかしながら、18世紀の後半に変化が生じた。この頃、こうした著作から著作へ、組織から組織へといった発展のあり方は変化し、著作、組織といった出発条件からだけでは説明できなくなった。教育論の領域においては、人々は理論を意識するようになり、また理論に敏感になった。家族や学校の領域においては、人々は、構造的な欠陥を以前より批判的、包括的に問題にするようになった。人々は、構造的な欠陥自身を変化するものと見なすようになった。一種の「将来への不確定性」という考え方が、経験と働きかけの支配的な様式となった。かくて「将来への不確定性」という考え方により、それぞれに固有の初期条件が、変化と関連づけられることになった。しかし、まだ、既存の思考が誤っているとか古すぎるとか些末であるとか判断したり、既存の構造を不十分だと判断したりする解釈にとどまっていた。確かに、理論は理論によってしか、組織は組織によってしか改善することはできない。その意味において、確かに、置かれた歴史的な状況の範囲中ではあるが、常に変革の新しい動因を活性化するような、理論や組織の自己改革努力の流れが見られる。しかしながら、こうした見方では、現在に統合された過去がシステム変化の動因になるということ、また<心的システムとしての>人間が自分の体験と行為を問題関心という観点から選別するということは、説明されない。以上のような変化のダイナミズムは、実はシステムの機能分化に対応したものにほかならない。この機能分化の結果、部分システムは、外部世界からのあらゆる干渉を自分の機能に照らして抽象化し、己の状況を把握することができる。こうした外部世界からの干渉は、機能分化した部分システムに対し外部世界をそのようなものとして現象させ、外部世界をあるがままに肯定するよう誘うこともありえる。以上の議論を総括的に述べれば、教育的反省へと動機づけるのはシステムの分化であるということになる。
 以上の叙述から、教育システムの反省史を単なる概念の歴史として描くのでは不十分であり、今日的なテーマとはなりえないということが、既に暗示されている。概念の歴史は、従って、現在の議論の前史としてのみ「歴史的に意味があるにすぎず」、今日的なあるいは今日化できるような理論内容を持たない。すなわち、今日いかにして反省が可能となるかを問題にする場合は、概念史はなくてもかまわないのである。理論についての議論と理論の歴史の同一視から抜け出すには社会のシステム分化の考え方が役に立つ8。現代社会における教育という部分システムの機能的分化に関する(社会学的な)仮定の助けを借りて、以下の諸点が、解明される必要がある。
(1)機能主義的観点から見た教育システムの動態化
(2)そこから生じる教育システムの歴史化、すなわちその都度のシステムの現在の可能性が、過去から未来への流れの中で見た己の歴史的状況に関する反省に依存していること
(3)こうした教育システムの歴史化から生じるa)教育的思索の意味論的発展とb)教育システムの社会構造的発展とりわけ国家による学校の組織化、の分岐、そして最後に
(4)同一システム内における両者の発展の相互関係。この相互関係は意味論的欠陥ないし社会構造的欠陥に反応する過程の自立化に伴い増大する。
 この構想は、この構想自身に適用することができる。この構想が正しければ、この構想自身を理論史上また構造史上の出発条件との関連で歴史的に位置づけることができる。別言すれば、自己の位置づけという形でこの構想自身の正しさを検証することができる。この構想自身現在の状況を出発点としている。教育システムの歴史的状況を新しく定式化し直す必要があり、それ故又現在に影響を持つ過去と未来を新しく統合しなければならないというのが現在の状況である。以上から、システム史、とりわけ反省史の考察の理論的な意義が基礎づけられる。
 システム分化が貫徹し、教育という特殊機能の独自性が自明のものとなった今日では、特定の価値への志向を教育反省の基礎とするのではもはや十分ではない。価値志向によっては何も新しいことは生まれないし、かつてのように希望を生み出すこともできず、ただ不満を一人でかこつにとどまる。我々は、今や、価値志向による問題解決に代わりシステム分化によって引き起こされた問題及びそこから引き起こされた価値態度の変化によって生まれた問題に直面している。変化への刺激を成長に転換してしまう巨大な見渡せないほど複雑なシステムが成立したのである(15頁)。一種の組織万能主義が、知らぬ間に制度化されてしまった。この制度化されたシステムの中では、変化への絶えざるアッピールすらも制度化されてしまっている。組織万能主義と変化の両者が、改革への雄叫びに唱和している。システムはこうした事態に対してさらに応答することになる。こうして偶然的に増大してゆく複雑性を統一する場所は、もはや、現実の中にはほとんど見いだせなくなってしまった。それ故、常に、今存在しているものは、「いまだ来たらぬ」将来に達成されるであろう統一の観点から見て、低く評価される。それゆえ、政治綱領に見られるように、<将来の統一としての>価値的な観点が最終的に確実な方向付けとして維持され、たとえば機会均等の観点から社会科学的な新たな根拠づけがなされる。しかし、改革が失敗したりあるいはもはや改革が計画されなくなったりして、絶えず、教育の拡大、改善を要求し続けることができなくなることもある。こうした事態は、教育システムの統一についての新しい規定を必要とし、まさにこの意味において教育システムの反省を必要とする。
 以上のような現状診断は、また、従来気づかれなかった教育的意味世界と社会構造の関係についての反省が可能であることを指し示している。教育的意味世界と社会構造の関係は、古いタイプのイデオロギー分析が主張した9ような教育と社会の関係そのものではないが、教育と社会を関係づけるような関係である。システム分析を使うと、単に上昇する階級とか下降する階級と言った単純で大ざっぱな主張に比べ余程複雑な事象を社会構造として分析することができる。具体的には、システム関連すなわち社会システムの社会構造と教育システムの社会構造(この両者がそれぞれ階層と関係を持つのであるが)を区別する必要がある。こうした区別をしてはじめて、社会構造が、変化する意味世界の伝統と深い分析関係を結ぶにふさわしい「パートナー」となる。
 意味世界と社会構造の関係に相関があるというテーゼ換言すれば意味世界と社会構造の関係が任意には変化しないというテーゼにより、社会と教育の関係は、二重に取り扱う必要が生じる。すなわち、理念に関する社会と教育の関係と、社会構造なかんづく組織に関する社会と教育の関係の二つを取り扱う必要が生じる。その上、またこの両者の関係のあり方自身が、分化の進展とその帰結に従って変化するということも見なければ歴史は把握できないことに留意しなければならない。この分化の進展は、意味世界においても社会構造においても、任意に起こる事象への関心の低下と特定の事象への感受性の増大を意味している。教育システムは、分化の進展につれ、社会環境との関係の自己選択的な関わりかたにおいて、以前より一層、理念にもまた組織にも依存するようになり、他にありえた多くの可能性を無視するようになる。
 システム論的に構成された自己準拠について、また社会構造と意味世界との相関関係についての以上のような考察は、教育システム自体の持っている反省力の手に余るものであろうか。精神科学的教育学は、いままでここに登場したテーマのいくつかすなわち自己準拠のテーマやあらゆる根拠づけの歴史性に関するテーマを直接教育に関連づける形で論じることに、一応成功した。今日必要とされまた可能ともなっている複雑な思考の仕方の場合は、かつてと同じ様な形で教育と直接関連づけて論じることはできないであろう。教育システムにおける反省問題の分析は、従ってまず学術システム内でなされなければならない。そのため我々は特定の科学領域への帰属感にはそれほど高い価値は置かないという前提で主に社会学的な理論道具を使用することにする。社会学的立場の設定は学際的な概念や理論群へアプローチしやすいという長所がある。社会学は、元来自己準拠を問題とせざるをえない学問である。なぜなら、社会学者は、他の科学と比べて、自分自身もまた己の科学的前提も自分の研究する現実の部分であることを無視できないからである。いうまでもなくこうした社会学の特徴は、次のような現代の時代的傾向にマッチしている。すなわち、一次的経験の概念的な解体と再構成により確実な知識を明るみに出そうとしている社会学的な現実の再構成方式に従って社会生活を把握しようとしている、現代の時代的傾向にマッチしている。
 以上の考察を教育独自の概念に翻訳し、そこで反省を加えてみよう。教育システムの反省は教育システムの内部でなされなければならず、従ってここでは──いうなれば──教育的指導階層内部の複雑な意見形成過程、複雑な理念検討過程が前提されている。教育反省をした結果どうなるかについては今日の水準の科学によって予測できない。とはいえ、教育システム内における反省問題に科学的な分析により接近できることは否定できない。確かに、学問とりわけ社会学は教育システム自身よりは多くの偶然性を許容できまた理解することができる。なぜなら社会学にとっては、教育システムというひとつのテーマが問題なのであって、自分自身についてのシステム反省が問題ではないからである.
 いうまでもなく、機能的な分化が進むと不確定性が高まるという効果がある。すなわち、機能システムは、自分だけでは生み出すことのできない不確定性と相互作用に入ることになる。そこで、システム内関係の問題が現れてくる。つまり、それぞれの機能システムがこうして生じた可能性の拡大を取り込むことができるかどうか、またどこまで取り込むことができるかどうか、あるいはいかにしてこうした拡大された可能性を排除するかという問題が現れてくる。ともあれ、社会は、学術システムが分出している限り、別のシステムにとっては不可能なことが可能であることを示し、その限りにおいて不安を引き起こすような見方を生み出す。しかしまさに、この不安が反省への刺激となる。すなわち、この不安が、不確実な中になお構造を認識するよう刺激を与える。
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