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「教育システムの反省問題」序文[1/32/33/3

Date: Wed, 22 Jul 1998 20:22:19 +0900
From: 今井重孝
Subject: [luhmann:00014] 「教育システムの反省問題」序文訳(1)
今井です。
【略】
以下は、「教育における反省問題」の序文の部分です。何回かに分けて送ります。
注は除いてあります。

はじめに

 本書では、教育システムにおける反省問題を取り上げる。いかなる立場から反省問題を扱うのか? またなぜに反省問題を扱うのか? 反省問題を反省することは可能なのか? またいかにして反省問題を反省することが可能となるのか? これらの問いをまず立てておこう。これらの問いは本書の研究意図を示すとともに、本書で用いられる概念用具の手引きとなる。
 教育学は、まずなによりも、教育システムの内部および外部において反省を行うことを課題とすると考えられている。このような教育学の課題の把握の仕方は、とりわけ教育学を単なる技術論にとどめず、教育科学にしようとしたドイツの伝統にふさわしいものである。しかしながら、ドイツにおける教育科学の地位は安定していない。確かに一方で、教育を対象とする科学的努力がなされている。他方また、教育学に対しては教育者に行動の指針とまでいかなくても状況の解明を与えて欲しいという特別の願いが寄せられている。教育学は、科学として、科学的問題提起を共有し、科学理論的確実性という原則を採用しようとする。しかし、現状の科学理論は、実践にとって意味ある場面にふさわしい知識や能力を提供することにはあまり役立っていない。科学論から教育科学及び教育技術論を経て教育実践へと降りていくヒエラルキー構造は、不連続であり、一方から他方に移るには非常に大きな飛躍が必要なのである。
 こうした状況を考慮すると、教育システムの反省問題の解決を科学論の領域に求め、もう一度教育学の科学性を議論の爼上に載せるのは実り少ないであろう。科学は、社会の生活領域、生活世界に対し革新のすべてを引き起こすことの出来る卓越した強力な原動力ではないのである。科学は、また、客観的内容だけから構成された、前提にとらわれない自由な認識を与えることもできない。近年、前提にとらわれない自由な認識が可能であるとの期待は失われ、科学論自身によって、あらゆる認識成果は相対性を免れないという考えが流布されるに至っている。そこで、よりヒエラルキーの少ない、先験性の少ない理論モデルに移行する必要が生じてきた。かくて、われわれは、ある社会理論的アプローチより眺めた歴史的事実から出発することにする。このアプローチによれば、歴史的事実は機能分化と自己準拠という概念によって特徴づけられる。
 「教育科学」に関していえば、機能分化とは、学術システムと教育システムという二つの異なった社会システムが分化したということを意味している。機能分化という社会構造上の変化が教育学の科学化問題を生みだしたのである。精神科学的教育学は、この既に社会構造的に確定した教育システムと学術システムの分化を科学概念を拡張することにより乗り越えようとした1。われわれには、こうした科学概念拡張の方向よりも学術システムと教育システムの分離から出発しそこから両者の相互関係を問題にするほうが意味があるし、とりわけより現実的であるように思われる。われわれは、まさに反省過程の領野において、学術システムと教育システムの間に非常に高度な相互依存関係が存在していると推定している。われわれが以下の研究において、教育システム内の反省問題を学術システム内でテーマとして取り上げる場合、以下の研究はたんに純粋に科学内的な意味を越えて、理念政策上の意味ももつことになる。なぜなら、科学はシステム反省に影響を与え、システム反省が教育システムを動かすからである。学術システム内部で加工された概念は教育システム内で爆発的に流行することもある。この流行の程度を測定するのは再び科学の仕事となろう。従って、システム分化モデルは、あらかじめ教育学が科学に近いか遠いかを決定していない。しかし、このモデルは、システムの統一を行うのは科学ではないこと、従ってまた教育システム内部でなされるすべての反省が科学と関連するわけではないということを前提している。また逆に学術システム内部におけるすべての反省が教育と関連するわけでもないことも前提している。
 以上の説明は、第二の重要概念である自己準拠概念を考慮にいれると、いっそうはっきりする。自己準拠は、さしあたり、意図的か無意図的かにかかわらずまた内向きか外向きかにかかわらず、あるシステムの作動が、操作の意味内容に関しつねに同じシステムの他の作動に接続するということを意味する。自己準拠システムは常に自己と接触する形で作動する。自己準拠システムは、環境の作用を受取りまた環境に働きかける。その際、その都度内的に同調されたその限りで常に構造的統制のもとで選択された活動形態を通して作動する。教師は、ある特定の授業場面において生徒に何かを説明し、そのことにより授業環境を変えようとするかもしれない。しかしながらそれが可能となるのは、その学級の知識水準や状況、授業でできることの限界、学級システムの時間的制限、教育の正当化の根拠などを考慮する場合に限られる。授業システムにおけるこうした自己準拠によって、教師は、機能分化しない場合には不可能であるような高度に特殊化された対応をはかることができるわけである。
 かかる意味における基底的自己準拠は、システムの普遍的な作用様式であり、目的的行為も、非目的的行為も、効果的行為も非効果的行為も、順応的行為も逸脱的行為も、フォーマルな行為もインフォーマルな行為もすべて包括している。これに対し反省は自己準拠の特殊な場合であり、特別の資源すなわち特別の専門家を必要とし時折りにしか活性化されない。反省過程によりシステムは自己自身をテーマとする。反省という自己準拠は、その都度自己の作動に接続するのではなくて、システムの同一性、さらに具体的にいえば日常的操作においてその都度複雑性として現象するものの統一性、複雑性の縮減を強制するシステムの統一性、を確立しようとする。
 しかしシステムはどのようにして反省を行うようになるのだろうか。自己準拠的意識の古典的モデルすなわち「主観」モデルが示唆しているように、すべての自己準拠システムが反省能力を持っているのであろうか。
 基底的自己準拠から反省を論理必然的に導き出すことはできない。反省を可能とする前提条件は、とりわけ社会システムが(他のシステムにまで一般化できるかどうかはさておいておくが)、システム問題を少数の基本問題に限定することのようである2。学術システムにおいては、認識と対象の区別を統一するという基本問題が、古典的な認識論を学術システムの反省へと導いた導きの糸であった。最近の科学の発展は、こうした事象的問題に加えて間主観性という社会的問題および認識の形成における進化論的な自己制御という時間的問題を追加し、それにより科学理論的反省の基礎が拡大した。教育システムに対しても反省のテーマを与える類似の三つの問題があらかじめ設定されているように思われる。すなわち、教育の事象的特殊性と自律性の問題と将来に影響を与える技術の問題と教育過程において社会的選抜を行う責任があるという社会的次元の問題の三つである。
 これら三つの問題は、教育学におけるきわめて伝統的な反省テーマであるが、ここに改めて取り上げられる必要がある。教育の自律性は、教育の独自性を保証するテーマであると同時に外部との関係を伴う荷やっかいなテーマでもある。「教育学は、責任感のある教育者の立場からなされた思索である」3と主張して教育学が外部との関係を無視してしまうような姿勢を繰り返すことは許されないだろう。もし教育学がいかにして教育的なるものが教育的でありえるのかという問いを次々と問い続けなければならないとしたら、換言すれば社会環境における変化を考慮することなく大いなる志しを述べたり大胆な問題提起を行ったりするだけであるとしたら、教育学はその責任を果たすことができるであろうか4。従来のような自律性問題の解決法の難点は、敵対的な環境ないし外的制限に対抗して自己を主張することができないという点にあるのではなくて、そもそも敵対的な環境や外的制限を考慮していないという点にある。
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