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「教育システムの反省問題」序文[1/32/33/3

Date: Mon, 27 Jul 1998 19:29:36 +0900
From: 今井重孝
Subject: [luhmann:00020] 「教育システムの反省問題」序文訳(2)
今井です
ルーマンは、教育システムのコードは選抜であるといっていたわけですが、メディアについては、教育学においては、「子ども」がメデイアになっているのではないかという説を唱えました。「教育学年報4」(世織書房)で訳出した「メディアとしての子ども」は、その点を論じた論文です。
「教育システムの反省問題」の第Ⅰ部全体が、ドイツの教育学がいかに社会システムとしての教育システムの性格の把握に失敗してきたかを、示すことを課題にしているところがありますので、そしてまた、ドイツの教育学にシステム論的性格はいかに反省されていたかを明らかにするところに、課題意識がありますので、「教育学の自律性」を主張した、デュルタイに影響された精神科学的教育学は、システムの環境を無視したと批判されることになるわけです。
以下は、「はじめに」の翻訳の(2)です。
 精神科学的教育学によって乗り切るには社会の変化は余りに大きかった。それゆえ、「知識の道徳化」という精神科学の見方は、たとえば教育(と授業)が社会にいかなる影響を与えるかという問題を取り扱うのに十分な手がかりを与えられなかった。精神科学的思考の展開5は、授業という出来事の複雑性:具体的には、教育機能の技術問題は技術嫌いという形では十分把握することができないということ:を白日のもとにさらすことになった。社会システムから教育システムの作用に対する要求が高まるにつれて、精神科学的立場は、教育システムへの要求の独自性との関連で、魅力を失っていった。精神科学的立場が、社会からの要求を受け入れようとする動機づけをほとんど活性化することができなかったからである。従って、教育実践の社会への影響という問題領域が自律してゆくという事態を経験科学的に把握する場所はどこにもなかった。「現実主義的転回」(1962)6も、精神科学的教育学の残された負債を適切に支払うことはできず、この問題を新しく理論化することができなかった。むしろ逆であった。現実主義的教育学は、教育問題、教授問題を社会的効果の保証という一面的な観点から特徴づけた結果、教育システム内での反省問題はさらに解決困難な問題となってしまい、教育学は、その支えを社会システムの変革に求めようとする誤った考え方に陥ってしまった。しかしながら、社会システムの変革を意図する場合は、変革の前提である現状を十分に考慮したのかという問いを避けることはできない。なぜなら、現実の状況に対する批判を通してしか、何を変革しようとしているかを知ることはできないからである。
 階層的な特権がもはや認められず、原則的にすべての個人を教育へと動機づける必要のある社会においては、いかなる理想主義も、教育的基準が選抜を通して達成されているという現実を無視することはできない。階層による選抜が機能しないとすれば、教育的基準が満たされたかどうかによって選抜するほかはなくなる。教師は、成績評価、進級決定などの活動により社会的選抜の準備をすることになる。教師は、賞賛と叱責といった基本的な行為を避けることはできない。教師の賞賛や叱責は、他の生徒の面前でなされるので、一貫性が保たれる。しかしながら、今日では、賞賛や叱責といった動機づけにより教育を選抜と結びつけるのは矛盾していると考えられており、反省が必要とされている。とはいえ、もし現実との接点を維持しようとするならば、この教育と選抜を対立させるこのような問題の立て方では、事態を正しく把握できない。なぜなら、選抜を避けることにより選抜と教育の矛盾を解決することができないことは明らかだからである。「厳密な意味で教育科学の中核を占めるといえる」7精神科学的な思索の立場に戻るのは、もはや論外である。「意図されざる」副次効果が、精神科学的教育学の面目を、徹底的に失わせてしまった。従来の研究は、教育科学に対して、複雑性の程度に合わせて研究すべきであるということを教えてくれた。しかし、研究をしても、さらに研究への要求が生まれるだけであるとすれば、教育科学はいかなる確実性の根拠に依拠したらよいのであろうか。
 我々は、ここでもう一度、反省概念を真剣に取り上げ、反省過程においては多様性を統一性へと帰着させることが問題である(12頁)ということを確認しよう。反省の三つのテーマにあてはめて言えば、自律性、技術、選抜の三つは別々に扱われてはならないということになる。三者を統一的に取り扱うという観点からすれば、今日流布している態度すなわち自律性を宣揚し技術と選抜を拒否するという態度は、余りにもバランスを失している。自律性を宣揚し技術と選別を拒否するというこうした態度は、時間的にも社会的にも反省の放棄に帰着するほかはない。別言すれば、今日システム統一の概念は、少なくとも、これら三つのテーマ領域を組み入れ相互に関連づけるという反省努力を通してしか、達成することができない、と言える。こうした反省努力を行うことが本書の目標である。この努力が成功すれば、次のことが納得されよう。すなわち、意味をセンサーとして用いて問題発見を行いながら教育システムの機能分化が進展していくこと、そして、機能分化の進展に伴い教育システムは意味の三つの次元すなわち、事象的、時間的、社会的次元に応じた問題感受能力を発達させること、これらの意味の三次元の問題が反省過程を経由することにより相互依存関係におかれ、システム統一へと関係づけられるということが、納得されよう。われわれは、これらの意味の三次元について、本書の第一部、第二部、第三部で詳細に取り扱う。これらの意味の三次元の由来については、第一部第一章でもう一度取り上げる。
 ここでまずはっきりさせておきたいことは、科学的たらんとする本書のシステム論的観点から見ると、学術システムの反省理論である科学論自身が、再びシステム論の対象として現れるということである。科学論は、他の機能システムと対比していえば、学術システムの反省理論であるということになる。従って、科学論は、規範を提供するためのものではないが、場合によっては教訓的なモデルたりうることもある。さて、教育システムはいかなる意味論的伝統から、またいかなる歴史的発展により自らの反省力を生み出したのか、という問題を、教育システム独自に追跡した上で、他の機能システムと一一具体的比較はさておいて一一概念上の比較をすることができる。以下我々は、教育システムの反省力の成立過程について教育システムの追跡を行い、他の機能システムと概念上の比較を行い、最後に、もう一度、システムが自己自身についての理論をシステムの一部として含む場合に生じる問題を取り上げる。(第一部第四章参照)
 社会の機能領域への分化、自己準拠的なシステム形成、三つの意味次元への問題の分化、反省、の四者の相互関係に関する以上のような単純な仮定から、検証可能な仮説を展開することができる。この仮設に従えば、教育システムの反省史は、教育システムの発展とパラレルに進むことになる。教育の意味世界は社会構造に関連して変化することになる。意味世界と社会構造の両者は相互に影響を与え合うが、我々は、社会の機能的分化がこうした相互関係を可能にしダイナミックにする鍵を握っていると考える。
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