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東北大学の小松です。
徳永さん、はじめまして。 いつも、迫力ある発言に圧倒されています。
1、あるサブシステム内での行為が本人の意図と関係なく他者に災厄として降りかかる可能性(私がよく強調するのはあるサブシステム内の意見表明が別なサブシステム内で本人の意図と関係なく別な意味で影響を与える可能性ですが、それとは別な形でこれは更に面白い問いです)
これこそ、ルーマンが「リスクと危険」という図式を提起することで言いたかったことの一つ、です。やはり、こういったことの根底にあるのは機能分化、ということになるでしょうね。もっとも、ルーマンの場合、「意図と関係なく降りかかる」ことの指摘に終わるのではなく、それが帰属をとおしての構成なのだ、と付け加えることを忘れません。
2、人は未来が予想不可能であるにもかかわらず決定しなければならない瞬間があること、そしてそれは我々が政治と呼んでいる狭い領域を越えて全ての人の行為に政治的意味を与えてしまうこと、
角田さんへのレスとダブってしまいますが、むしろ、ほとんどの重要な決定は、予測不可能ななかで行われざるを得ないわけです。法の場合ですと、ハードケースにならざるをえないということになるでしょう。こういった決定不可能性の中での決定は、徳永さんの(1)の点とも関わりますが、ある決定が、社会の中の多様な(機能的な)脈絡の中で、多様な解釈に不可避的に開かれてしまっている(したがって閉鎖的であるがゆえに、無媒介的な偶然の出来事や刺激に対して開かれうる)ことに由来します。
ところが、このように述べてしまうと、「やっぱ、ルーマンは、決断主義者よね~。アブナいよね~」というお決まりの批判につながりそうです。ハーバマスもかつて、ルーマンの実定法に対する見解との絡みでそのようにしてルーマンを論難したのでした。ロマン主義を引用しながらの彼の時間論も、そういった解釈を助長します。が、自分が決断主義でないという点については、ルーマンは『社会システム理論』(1984)の中で冒頭で指摘してしますし、『社会の法』(1993)でも反批判がおこなわれていますが、しかしこれは、あらためて反批判するまでもなくオートポイエシスがどんなものかをきちんと見ていけば、決断主義とはきっぱりと袂を分かっていることは明らかです・・・ね。
2、の設問では、「人は不決定に止まるぐらいなら例えそれが未来に対して過ちを犯すことになっても(というより過ちを犯さぬ決定などそもそも不可能)決定しなければならないことがある」という話を、サルトルとの関連でしたことがあります。
なるほど。
ただ、おそらく、ルーマンの視点からすれば、複数の可能性が可視化している状況下での不決定もまた決定の一つになるのであり、したがってリスキーにならざるをえない、ということになるでしょう。積極的に決定を下さないという「主体的な」選択もありえますしね。
もし、行為が差異を立ちきることを意味し、全て行為に単一原理を打ちたてる要素があるとするなら、全ての行為は権力的であると言う言明はこういう次元で正確な物言いといえそうですこのへん、面白そうですので、今後の徳永さんのご意見から勉強させていただきます。
角田氏がレスされた小松氏当人からレスがあったことで若干状況が見えてきました。これまた屋上屋のレスになってしまいますが、興味を引かれる論点が多々含まれていましたのでレスさせていただきたい。
まず、小松氏の触れられた
「また、こうした「信頼」を確保するための戦略として、最近では、「参加」ゼマンティクが利用されることがあります」
という点です。
確かに近年こういう部外者の参加で、正当性を確保しようと言う動きが盛んですが私はもう少し広い文脈で、これって、ルネ=ジラールがいう「生贄の論理」ではないかと考えてしまいました。生贄の論理とは“ある社会でコンフリクトが生じたとき、社会の統治秩序を揺るがさないため何者かのせいにして秩序を守る、その際、指定された犯罪者の処罰は全員で行なうことで後で決定に不服を言わさないようにする”ことです。
社会規模がでかくなり、統治機構が統治される対象との分離がはっきりしたそれ以後の社会ではこの論理が議会を通じてのガス抜きという形にとって変わりました。現代の民主主義もその延長線上の社会です。
次の興味深い視点として
「前者の下した決定を後者が外部に向けて「理想化」して呈示するのです。」
という部分です。
何故これが興味深いかと言うと、競争的対話状況にある二つの理念が社会において支持を獲得するため、既にある問題系譜、既に十分確立された理念との接続可能性に訴えるという戦略を取るという次元との関連においてです。この理論は私は一般的な形でしかこれまで述べていませんが、具体的状況と照らし合わせて論ずると更に様々な戦略に分類できるかもしれません。
次に
「言い換えると、もっともエンパワーメントの必要な人ほど、排除される=聞かれる権利が奪われる、ということです。」
という話で中野氏のハーバーマス経由の議論を批判するあたりの議論が興味深い。というのはこの手の中野氏と同様な発言は私も始終やっていますから。唯、私は民主主義には排除の論理も含むことも十分理解していて尚やっている確信犯ですが。
例えば、イスラム諸国圏において貧しい階層の人達が西洋的近代民主主義を支持するのでなく、イスラム原理主義に引かれていったり、旧東ドイツ当りで生活水準が低下し職を失った人がネオナチに引かれて行くという状況があります。これに対して従来型のオープンマインドな民主主義理念は十分取り組めていないのですが、どうしたものでしょうか。今の所は力による対立、排除の論理で対抗しているのですが。
ルーマンの場合、「意図と関係なく降りかかる」ことの指摘に終わるのではなく、それが帰属をとおしての構成なのだ、と付け加えることを忘れません。
そうですね、この辺はハーバマス系の私と解釈の分れる事ですが、もう少し私のほうが勉強の必要がある課題です。
前にイルカと人間のコミュニケーションの例を出して、人同士のコミュニケーションにオートポイエシースの閉鎖的システム同士の接続という言い方が当てはまるのかと疑問を提示したことがありますが、(特にそれがあるシステムから分化した同じ言語を喋るサブシステム同士ーメンバーの重複もあるかもしれないーの場合は)と疑問を提起したことがありますが「リスクと危険」の問題を中心に論ずればこの抽象的水掛け論がもっと具体的実り多き議論になるような気がします。
次に
「やっぱ、ルーマンは、決断主義者よね~。アブナいよね~」
という話ですが、もしハーバマスが過去にこう論じたとすれば、私はハーバマスの議論の方が理想主義的で非現実的、(特に対話的合理性に関する議論の建て方が)だからだと思います。この点ではルーマンの肩を持ちますね、私は。
ところで「対話的合理性」といえば、上で触れた公共圏に関する排除の問題がポスコロ関係の人たちによって世界的論じられていますよね(参考文献『ハーバマスと公共圏』クレイグ・キャルボーン編、未来社)この論争も興味を持っている話題です。
ハーバマスが決断主義、啓蒙の外部という議論を嫌うのは知っての如く、『啓蒙の弁証法』にまで議論が退行してしまうのを恐れるからです。その事が、ポストモダンとの論争や、フェミニストとの論争、ルーマンとの論争において、過剰に防衛的な姿勢をとらせてしまい、本来、もっと実り多くて良いはずのコミュニケーション的合理性という論理を貧しいものにしてしまっています。(私はポストモダンに対しては割と柔軟ですが、システム論に対してはハバーマスの姿勢を引き継いでしまっているので、自戒も込めて)。