エスノメソドロジー |
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公開:20181222 更新:20190104
このことこそ、「普通である」ということなのだ。 それについて何も経験せず、何も考えなくてよい人びとが、普通の人びとなのである。
(岸 政彦『断片的なものの社会学』p. nn)
01 | 298 社会学はどこから来て、どこへ行くのか:再訪 | 09 | 336 等価機能主義における「機能の発見」 |
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02 | 300 社会学の「理論」がやってきたこと | 10 | 341 「急き立てられること」は機能主義の領分か |
03 | 303 ディシプリンのアイデンティティの変化 | 11 | 344 問題に対するコミットの性質 |
04 | 308 現在の社会学教育の相場 | 12 | 346 社会問題の実在と構築 |
05 | 316 『社会学入門』のストラテジー | 13 | 348 学問の緊張関係と社会学的忘却 |
06 | 321 社会学者の社会とのかかわり方 | 14 | 353 「危機の学問」とマルクス主義の距離感 |
07 | 327 「差別」に対する非政治的なアプローチ | 15 | 357 社会学の大前提 |
08 | 330 社会問題に相対する姿勢 |
0502 稲葉 |
… そういうふうに思っていたところに出てきたのが有斐閣ストゥディアから筒井淳也さんと前田泰樹さんが出された、これもくしくも『社会学入門』(2017年)というタイトルの画期的な教科書です。ただ、「画期的」って僕は推しているけれど、べた褒めしているように聞こえるとまずいなとも思っていて、実はべた褒めはしたくない(笑)。ただ、切り口、方向性としては、教科書として極めて画期的で革命的なわけです。 |
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0511 稲葉 |
そこでこの本の独創性というのは、開き直って、俗に我々が「質的研究と呼んでいるものは、基本的に普通の人々の社会生活の中でこのカテゴリーが立ち上がる、日々の暮らしにおけるやり取りの中で、社会について当事者として考えて言葉にしていくためのカテゴリー、項目を人々が立てていくところを研究するというところが、いわゆる「質的研究」とか「質的調査」と我々が呼んできていたところの人たちがやっていることなんだよ、という、非常に強引な割り切りをしているところが、この本の面白いところなんだよね。そこらへんに対して、この教科書を読み込むと批判がでてくるはずなんですけれど、つまり質的研究の本流は、いわゆる構築主義とか、いわゆるエスノメソドロジーであると断言しているようなところがあるんです。 |
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0514 稲葉 |
「俺は納得しねぇぞ」と、他の社会学者たちから総攻撃を食らってもおかしくないんだけれど、まだ十分理解されていないのか、食らっていない。けれども、いわゆる「質的」な人たちから総スカンを食らいかねない、きわめてラディカルな割り切ったことを言っているわけです。 |
0515 岸 |
いわゆる普通の質的の人らがやっていることと、ここで前田さんがすごいエスノメソドロジー寄りのことを言っていることの間に、大きな齟齬があると思うんですよ。それって、現実とだいぶずれてないですか? |
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0517 岸 |
あれは普通のひとからみると、相当な違和感を感じる本だと思いますよ。異常にエスノ寄りだし、そもそも標準的なライフコースを中心線にして社会学の調査戦略を説明しているんですが、そのライフコースがあまりに標準的すぎて、逆に僕らには使えないです。いちおうマイノリティにも目配りはされているんだけど、それにしても僕らがふだん聞いてる生活しでは、あんなに標準的なライフコースのひといないよ(笑)。そういうとこは、厨先生からはどう見えているの? |
0518 稲葉 |
要するに、『概念分析の社会学』ですね、前田さんも関わっていた。あのプロジェクトで提示された立場を、ここで非常に自覚的に押し出してきているんだと思いますね。あの本はエスノメソドロジーを標榜しているけれど、タイトルに「概念分析」とうたっているわけですから、要するに「野生の分析哲学」ですよね。ハッキングの歴史的存在論(『知の歴史学』岩波書店)も受け継いでいるわけですが。「『質的』な仕事の核心はここだよ」っていう割り切りは、非常に強引だけれども、そういうふうに割り切るとわかりやすいと。 |
最初に『どこどこ』を一読した際、私は 稲葉先生のこの見立てに乗っかったうえで右のようにツイートしてしまったのであるが、その後『社会学入門』を再読したところ、これが誤りであることがわかった。このツイートを撤回したうえで著者両名にお詫びしたい。318 筒井前田本に対して「ここに出てくる〈質的〉は現状の社会学の〈質的〉と相当違う」というコメント。これは まったくもってごもっともな指摘で、前田さんがどう考えてるのかは尋ねてみたいところ。
— 縮限 (@contractio) 2018年11月4日
0520 岸 |
「それが何か」ということを社会学者が決定するのではなく、「それが何だと言われているのか」ということを人々に聞きにいく。それが社会学の仕事だと、それはそのとおりで、私たち「普通の」質的もさんざんそれをやってます。むしろ私たちは最初からそれを目指してやっている。でも、どこで〔エスノメソドロジーと〕分かれてくるかというと、その先なんですよね。 |
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0511 稲葉 |
研究者も実はその人々のうちにあって、我々である。つまり社会学は、特に研究者は、当事者のある部分、当事者の反省的な部分でしかなくて。というところが、社会科学の、とりわけ社会学の特徴ですよと。 |
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0506 稲葉 |
筒井さんが何をやっているかというと、要するに、データを集めるためには、そのデータを集めるために前もって何についてのデータを集めるか、ということを決めていなきゃいけないと。… データの項目選びが厄介な問題であって。… 社会の中で生きている人々が普通に生きている中で立てている項目をもとに、社会学は調べるべき項目をたてますよと。 |
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0506 稲葉 |
そこでこの本の独創性というのは、開き直って、俗に我々が「質的研究と呼んでいるものは、基本的に普通の人々の社会生活の中でこのカテゴリーが立ち上がる、日々の暮らしにおけるやり取りの中で、社会について当事者として考えて言葉にしていくためのカテゴリー、項目を人々が立てていくところを研究するというところが、いわゆる「質的研究」とか「質的調査」と我々が呼んできていたところの人たちがやっていることなんだよ、という、非常に強引な割り切りをしているところが、この本の面白いところなんだよね。そこらへんに対して、この教科書を読み込むと批判がでてくるはずなんですけれど、つまり質的研究の本流は、いわゆる構築主義とか、いわゆるエスノメソドロジーであると断言しているようなところがあるんです。 |
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0519 北田 |
その割り切り方は、質的・量的なものをうまく組み合わせていくっていうとき、とても便利だと思うんですよね。ループ効果とかもみえやすいし。そういう意味では、無理なく修練を積めば「誰でも」できるようになる。だけど、それが本当に質的調査というものをやっていることのどのくらいの割合を占めるかというと、いささか限定的ですよね。『質的社会調査の方法』と『社会学入門』との対立というか。 |
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0520 岸 |
いま北田さんから、たとえばエスノメソドロジーとか概念分析と、オーソドックスな質的の仕事というのは、実は課題が全然違うんじゃないか、という話がありました。エスノメソドロジーや概念分析は、すごく割り切った方法であって、だからこそ非常にエレガントで経験的、実証的なツールとして強力なものになったわけですよね。 一〇年前なので、また考え方が変わっているかもしれないんですけれど、稲葉さんが『社会学入門』で最後に書いたのは、そんなに 割り切られないところに社会学はあるんだよ、ということだったような気がするんですよね。 |
1108 岸 |
僕の中で、本当には僕はエスノメソドロジーとも共有していると思うんだけれど、人びとが何を思っているのかということが一番大事なんだけど、その人びとというのは、「自分と違う人びと」なんですよね。この分割された社会の、自分の側にはいない人びと。 |
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1109
北田 |
そこが、ちょっと違うのかな。 |
1110
岸 |
違うんですかねやっぱり。同じ合理性ではあるんですよ、でも。同じ合理性を持っているのは、持っているんだけれど。だから、みんな同じことをしているんだけれど。 |
0520 岸 |
「それが何か」ということを社会学者が決定するのではなく、「それが何だと言われているのか」ということを人々に聞きにいく。それが社会学の仕事だと、それはそのとおりで、私たち「普通の」質的もさんざんそれをやってます。むしろ私たちは最初からそれを目指してやっている。でも、どこで〔エスノメソドロジーと〕分かれてくるかというと、その先なんですよね。 そこで、ちょっと北田さんにもお話を聞きたいんですけれど。この論点は「社会学的忘却」というところと、なんとなくつながっているような気がして。 |
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0521 北田 |
すごい球が飛んできた。 |
0522 岸 |
違う? つながってない? |
0523 北田 |
いや、わかるけれども。 |
0524 岸 |
わかるでしょ。いま北田さんがずっと言っているのは、簡単にいうと、こういうことなんですよ。割り切った方法論に還元していいのかどうか。 |
0603 (326) 北田a |
「社会問題が存在する」からスタートする社会学とは違うところから、社会学の歴史がつくられていったのは、やはり、トマスやパークの流れだろうなと。広い意味ではその流れのなかに……こんなことを言ったら怒られるんだろうな。でもやっぱり僕はそこに来歴を持つものとして、シンボリック相互作用論とか、会話分析、エスノメソドロジー、構築主義の流れってあると思うんですよ。準拠問題が根っこが違うような気がするし、「質的研究」だからとひとくくりにされるけれども、デュボイス的な準拠問題とは全然違っているという気がするし。 |
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0603 (326) 北田b |
僕には、社会学を何の学問かと定義するかと言われれば、「社会問題を扱う学問」であるという、それ以外の問の答えが思い浮かばない。ああ、怒られる…… |
0703 岸 |
対話的構築主義──もちろん構築主義一般ではありません──を批判しているのは、僕は、あれはロジックとしておかしいと思っているんです。論理的におかしいんだと。社会問題を対話に還元してしまう。だったらちゃんと抽象的なEMとかをやればいいのに、片方で、社会問題へのコミットは、さも残しているかのようなことを言うんです。その両方を保持するのはかなり難しいんじゃないか。 |
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0807 岸 |
なされるべきはあくまでも「沖縄戦」の研究であって、「『沖縄戦』という概念をめぐるコミュニケーション」ではない。もちろん、これも何度も何度も繰り返しますが、相互行為やコミュニケーションの研究それ自体は、とても重要なものですよ。でも、社会学者がいま現実におこなっているほとんどの質的な研究を、それで取って代わることはできないでしょう。 |
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0603 (325) 北田 |
シカゴのような系譜は築けなかったんだけれど、「社会問題は存在する」「そしてそれは解決されねばならない」というところからスタートする、彼〔デュボイス〕の地点というのは、やっぱりちょっとシカゴの流れとは違っていて、社会学の原点として我々は押さえるべきだろうし、多かれ少なかれ日本でヴェーバーとデュルケームとか、そういう派手なものをやっていなかった人たちの社会調査って、手探りでけっこうそういうふうなことをやっていたんじゃないかなって思う。その系譜が、社会学史とかでは忘れ去られている。何しろ「地味」ですからね。だけど、それが1990年代以降、アメリカではデュボイス・リバイバルが凄いことになっていて、今はもう教科書とかにも出てくるようにもなっている。「可能性の中心」的な救済史観も一巡してて、ハッキング的な「調査論」も続出しています。日本語圏ではいまだ無名のまま、というか『黒人のたましい』が岩波文庫の赤表紙に収められているように「文学」として受容されている。デュボイスの忘却は、社会学の存在意義そのものの忘却を意味しているように思えてなりません。 |
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社会学といってもいろいろなタイプのものがありますが、質的調査にもとづく社会学は、多かれ少なかれ、100年前のドイツ社会学の祖であるウェーバーを継承しています。また同書巻末の選書も見よ。
と述べているのである。
0603 (325) 北田 |
シカゴのような系譜は築けなかったんだけれど、「社会問題は存在する」「そしてそれは解決されねばならない」というところからスタートする、彼〔デュボイス〕の地点というのは、やっぱりちょっとシカゴの流れとは違っていて、社会学の原点として我々は押さえるべきだろうし、多かれ少なかれ日本でヴェーバーとデュルケームとか、そういう派手なものをやっていなかった人たちの社会調査って、手探りでけっこうそういうふうなことをやっていたんじゃないかなって思う。その系譜が、社会学史とかでは忘れ去られている。何しろ「地味」ですからね。だけど、それが1990年代以降、アメリカではデュボイス・リバイバルが凄いことになっていて、今はもう教科書とかにも出てくるようにもなっている。「可能性の中心」的な救済史観も一巡してて、ハッキング的な「調査論」も続出しています。日本語圏ではいまだ無名のまま、というか『黒人のたましい』が岩波文庫の赤表紙に収められているように「文学」として受容されている。デュボイスの忘却は、社会学の存在意義そのものの忘却を意味しているように思えてなりません。 |
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これらの方法における差異、あるいは、そういってよければ多様性は、私たちの社会的な実践そのものが多様であることに由来するものでもあります。(p. 235)
0515 岸 | いわゆる普通の質的の人らがやっていることと、ここで前田さんがすごいエスノメソドロジー寄りのことを言っていることの間に、大きな齟齬があると思うんですよ。それって、現実とだいぶずれてないですか? |
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0517 岸 | あれは普通のひとからみると、相当な違和感を感じる本だと思いますよ。異常にエスノ寄りだし、 |
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0520 岸 | いま北田さんから、たとえばエスノメソドロジーとか概念分析と、オーソドックスな質的の仕事というのは、実は課題が全然違うんじゃないか、という話がありました。エスノメソドロジーや概念分析は、すごく割り切った方法であって、だからこそ非常にエレガントで経験的、実証的なツールとして強力なものになったわけですよね。 |
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0807 岸 | 相互行為やコミュニケーションの研究それ自体は、とても重要なものですよ。でも、社会学者がいま現実におこなっているほとんどの質的な研究を、それで取って代わることはできないでしょう。 |
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