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ここには、2012年09月09日(日)に成城大学にておこなった 社会学研究互助会第三回研究会「前田泰樹『心の文法』合評会」における配布資料などを掲載しています。
このコーナーの収録物 | 前田 泰樹さん (著者コメント) | |
山田 圭一さん (配布資料) (討議) | ←このページ | |
飯島 和樹さん (配布資料:HTML/pdf) (討議) | ||
井頭 昌彦さん (配布資料) (討議) | ||
全体討議摘要 |
※本書の紹介ページがあります。あわせてご覧下さい。
・質問させていただきたいところ:著書のタイトルに因んで「文法」「心」「医療実践」に関して、以下それぞれ素朴な質問を…(以下、特に断りのない頁数はすべて『心の文法』からの引用)。
おそらく前田さんの言う「文法」とは、「『心』にかかわる概念の用法」(一頁)のことだと思われるのだが、これが具体的にどういうものなのか私にはまだうまく理解できていない。以下のようなものが、その具体例になるのだと私は理解した。
それに対して、本稿の文法はこのような有意味性に関する規範性をもっているようには思われないのだが、たとえば、概念の用法としての「文法」に対しては「正しい」「間違い」ということが言えるのか(正誤の規範はあるのか)5。
・本稿で扱われている「心」の概念:「痛み」、「不安」、「記憶」
これらの違いは大変丁寧に説明されている(たとえば、状況依存的な感情と状況から切り離された一人称権威をもつ「痛み」の違い、等)のだが、
→調査対象を選択する時点で、すでに「心」という常識的なカテゴリーが前提とされているのではないか?(デュルケムとは違う意味でではあるが、調査を行う社会学者自身が理解している「心」カテゴリーに属するものとして調査対象(実践の現場、会話等)が選ばれているのではないのか?)
とりわけ…
(1) 痛みを感じている、不安を感じているという状態と、
⇔ (2)「覚えている」という状態、「思いだす」という行為(状態)
本稿では記憶を能力として扱っていると思われるのだが、能力(たとえば、泳ぐことができる能力)は必ずしも「心」にカテゴライズされる必要はないのではないのか?
もしかしたら、このカテゴライズは「脳の機能不全と記憶の機能不全」という脳と記憶の経験的な連関性(そして、脳と連関しているのだから、記憶は「心」の領域だろうという想定)に基づいたりはしていないか?
→犬の場合は基準となりうる。しかしながら、人間の場合には基準となりえない(と私は考えている)。
∵人間はウソをつくことができるから。6
「痛い」という発話が痛みの基準となりうるためには、「痛いときに痛みの表出をしない」という可能性があらかじめ排除されていなければならない。
→医療実践とはまさにこの可能性のうちの一つであるウソをついているという可能性が顕在化する場なのでは?
・医療実践は日常の実践よりも知識の非対称性が大きい(「虫歯のひどさ」を判断できるエキスパート(医療従事者)と患者という関係に立つ)ので、三人称的判断(虫歯がひどい)と一人称的表出(「痛くない」という本人の発話)との乖離が顕在化しやすい状況のように思われる。
→そしてこのような乖離が生じたときには、日常的な「痛み」の言語ゲームにおける暗黙の前提(「痛みの表出は正直に為されている」)に対して疑いの目が向けられることになるのでは?
前田さんは 事例 [2]-2(七一頁)を「痛みと『痛みの表出』という基準的関係に疑念を向けることなく…」行われている事例として分析されているが、本当にここでドクターは疑念を向けていないのだろうか。少なくとも、疑念を向けるということは医療実践においては十分にありうるのではないだろうか。
そして、このような痛みの表出から切り離されうる(表出が基準とはならない)痛みの私秘的な領域が立ち現われてくる場面こそが、まさに「心」が問題となる場面なのではないだろうか。8
文脈はどのように個別化されるのか。同じ文脈というのはありうるのか?それとも、原理的に一回きりしかありえないのか?もしも同じ文脈というものがありうるとすれば、その同一性の基準はどのようなものになるのか?
想起の対象自体は「過去」のことがらとは限らない (一五四頁)
例)「次のワールドカップは2014年にブラジルで行われる」ことを覚えている
⇒未来のことを覚えているのではなく、過去に学んだ知識(地球は丸い、信長は本能寺の変で死んだ、等々)を覚えているということ=「意味記憶」
⇒体験にかかわる「エピソード記憶」に関しては、「想起の対象が過去の事実である」ということは「思い出す」ということの文法に属するのでは?
「他人の痛みについての経験的な困難が生じるためには、他人の痛みは『文法上』理解可能でなければならない」
(五八頁)と言われているが、「『他人の痛み』とは何かを理解することができることと、「他人が痛いかどうかを知ることができる」ことは別のことではないのか?
たとえば、自分が痛みを隠すことができるのと同じような仕方で他人も隠すことのできる痛みをもっているという意味で、「他人の痛み」について理解している。しかしながら、他人が痛みをもっているのかどうかを知ることはできない、ということが考えられるのではないか。
むしろこの命題は、一般的な語用論的前提(人が何かを記述することができるためには、人はその何かを知っていなければならない)なのでは? そして、もしもこの前提が「人がある事実(Aさんは痛い)を記述することができるためには、ある事実を知っていなければならない」と言い換えられるならば、端的に偽になのではないか?(人はその真偽を知るまえに、そのことについて語りうるので。たぶんここでのポイントは「何か」のところが語なのか、文なのかという点にある)
そして、おそらくこの問題は前田さんが文法を拡張しているところから来ている。最初の文法規定は以下のものであった。
このような文法的な結びつき[「他人の痛み」と「私が感じる」という概念(?)が結びついていないこと]は、将来の経験的事実の発見によって直接覆されうるものではない (五七頁)[括弧内引用者]
その語をゲームのしかるべき指し手として位置づける文法 (五九頁)しかしながら、たとえば六二頁くらいから、「文法」という概念を経験と連続したより緩い概念へと拡張する方向へと傾く。この転換を支えているのがウィトゲンシュタインの『確実性』における河床の比喩である(
「経験命題の形を備えたいくつかの命題が凝固して、固まらずに流れる経験命題のための導管となる」(OC96節))。
本質は文法において表されている (『哲学探究』371節)
一つの実践を確定するために、人は規則だけでなく実例も必要とする。われわれの規則は抜け道に開かれている。そして、実践は自分自身で語らねばならない。Die Praxis mus fur sich selbst sprechen.→EMでいえば「人々の実践のあり方が、人々の方法(たとえば、概念の)
(『確実性』139節)
哲学は、いかなる仕方にせよ言語の実際の使用を侵害してはならない。したがって、哲学は最終的には言語の実際の使用を記述できるだけである。
というのも、哲学は言語の実際の使用を基礎づけることはできないからである。 哲学はすべてをあるがままにしておく
(『哲学探究』124節)
名前や文が意味をもつのは、それらが属している記号操作の体系(Kalkul)においてである。この体系はいわば自律的である。10 但し、以下の話の流れで出てきていることは注意が必要。あくまでも「哲学的問題の解消」という文脈でこの話はされている。
―言語は自分自身で語らねばならない。Die Sprache mus fur sich selber sprechen.
(『哲学的文法』27節)
哲学者が「知識」「存在」「対象」「自我」「命題」「名前」といった語を使い、事物の本質を把握しようとしているときには常に以下のように問われなければならない。この語はその故郷である言語において実際にそのように使われているのか、と。
われわれは、それらの語を、形而上学的使用から日常的な使用へと連れ戻す。
(『哲学探究』116節)
哲学者の仕事は、ある特定の目的のために、諸々の記憶を寄せ集めることである
(同上127節)
ウィトゲンシュタインの主張の核心とは、言語や意味のようなカテゴリーの適用を可能にするのは、それ自体として考察された個々の発話ではなく、それらの発話がなされる社会的文脈(social context)である、ということだからである
(P.ウィンチ『社会科学の理念』(森川真規雄訳、新曜社、一九七七年)、四三頁)
→この点に関しては、私もまだポイントがよくわかっていません。申し訳ございません)