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2012-09-27 掲載

前田泰樹『心の文法──医療実践の社会学』前田泰樹『心の文法──医療実践の社会学』合評会

ここには、2012年09月09日(日)に成城大学にておこなった 社会学研究互助会第三回研究会「前田泰樹『心の文法』合評会」における配布資料などを掲載しています。

このコーナーの収録物 前田 泰樹さん (著者コメント
  山田 圭一さん (配布資料) (討議 ←このページ
  飯島 和樹さん (配布資料:HTMLpdf) (討議)  
  井頭 昌彦さん (配布資料) (討議)  
  全体討議摘要  

※本書の紹介ページがあります。あわせてご覧下さい。

『心の文法-医療実践の社会学-』コメント
山田 圭一(千葉大学)

面白かったところ

  1. ウィトゲンシュタインの極めて哲学的な議論がどのような仕方で実践の理解に援用できるのかという点を、実践例とともに示していただいたところ。
  2. 哲学的なアイデアに対する生のデータを与えてもらえたところ。たとえば、「痛み」のような感覚にどのような仕方で一人称的権威が与えられているのか。「不安」のような状況と結びついた感情の場合にはどうか。記憶のような他なる記憶と照らし合わせることができる場合にはどうか、などなど。心の概念の差異に応じた心の帰属実践に関する生のやりとりが詳細に提示され、検討されているという点1
  3. 前田さんがとても哲学好きなところ。
1 もう一つ個人的に面白かったのは、
⇒「事実の真理性(「終戦記念日は8月15日である」)を蝶番(前提)として方法(記憶能力)への疑いを投げかける言語ゲーム」と、「方法を蝶番として事実への傾聴を行う言語ゲーム」の違いとして捉えられるとすれば、私が考えているウィトゲンシュタイン的文脈主義モデルの実証的事例が与えてもらえるような気がするので、うれしい。

質問させていただきたいところ

・質問させていただきたいところ:著書のタイトルに因んで「文法」「心」「医療実践」に関して、以下それぞれ素朴な質問を…(以下、特に断りのない頁数はすべて『心の文法』からの引用)。

1 「文法」とは何か -概念連関がもつ規範性-

Q1 概念の用法はどういう意味で文法なのか?(どのような意味で「概念の論理文法」(byクルター)なのか?)

おそらく前田さんの言う「文法」とは、「『心』にかかわる概念の用法」(一頁)のことだと思われるのだが、これが具体的にどういうものなのか私にはまだうまく理解できていない。以下のようなものが、その具体例になるのだと私は理解した。

2 あるいは、トピック上の関連性(210,211頁、「終戦記念日」と「『岸壁の母』の記事」の関連性)のようなものも含むのか?
Q1-1
例2のような概念同士の経験的な結びつきは、行為の「適切・不適切」のメルクマール(たとえば「大人がそんなに泣いていてはいけない」「そのくらいのことで恨みをもってはならない、葬儀を欠席してはいけない」という仕方で行為に対する非難の可否のメルクマール)とはなると思うのだが、このような規範性と文法のもつ規範性は同じ規範性なのだろうか?

 それに対して、本稿の文法はこのような有意味性に関する規範性をもっているようには思われないのだが、たとえば、概念の用法としての「文法」に対しては「正しい」「間違い」ということが言えるのか(正誤の規範はあるのか)5

3 この意味でならば、文法は語と語の(概念どうしの)間の論理構造(カテゴリー関係)を示していると言えるかもしれない。
4 この点に関しては、おそらく中期から最晩期まで不変。
5 Q1-2、ここでの問いをより一般的な問いとして言い換えるならば、エスノメソドロジーが記述している「メンバーの方法」(四十一頁)はどのような規範性をもつのか(たとえば、適切不適切以外の「正誤」がいえるようなものなのか、それに反するということがどのような問題を生じさせるものなのか、等々)
たとえば、概念を違う仕方で結びつけている人は、文法的に間違った使い方をしていることになるのか?あるいは、あくまでも「人々の言葉の使い方の事実」を記述しているということになるのか(そのように使っているという事実:使い方の正誤はない)。それとも、「人々の言葉の使い方の規則」を記述している(その言語ゲームの中では使い方の正誤がある)ことになるのか。もしも後者だとした場合に、その使い方の規則そのものの正誤は問うことはできないのか?

2 「心」とは何か -調査対象選択の概念依存性-

・本稿で扱われている「心」の概念:「痛み」、「不安」、「記憶」
これらの違いは大変丁寧に説明されている(たとえば、状況依存的な感情と状況から切り離された一人称権威をもつ「痛み」の違い、等)のだが、

Q2、これらをすべて「心」とくくる理由(あるいは、基準)はどこにあるのか?

→調査対象を選択する時点で、すでに「心」という常識的なカテゴリーが前提とされているのではないか?(デュルケムとは違う意味でではあるが、調査を行う社会学者自身が理解している「心」カテゴリーに属するものとして調査対象(実践の現場、会話等)が選ばれているのではないのか?)

とりわけ…
(1) 痛みを感じている、不安を感じているという状態と、
⇔ (2)「覚えている」という状態、「思いだす」という行為(状態)

Q2-1 この二つはどのような意味で同じ「心」の状態なのか

本稿では記憶を能力として扱っていると思われるのだが、能力(たとえば、泳ぐことができる能力)は必ずしも「心」にカテゴライズされる必要はないのではないのか?
もしかしたら、このカテゴライズは「脳の機能不全と記憶の機能不全」という脳と記憶の経験的な連関性(そして、脳と連関しているのだから、記憶は「心」の領域だろうという想定)に基づいたりはしていないか?

3 なぜ「医療実践」のなのか? -「心」が顕在化する言語ゲーム-

Q3 医療実践においてとりわけ「心」が問題となるのはどういう場面か。

私の素朴な疑問:
Q3-1 医療現場において一人称(患者)の表現と三人称(医療従事者)の評価がずれることがあるのではないか?そして、ずれた場合に一人称の表現は権威を保ちうるのか?
これと関連する質問として、前田さんは痛みの表出を痛みの基準と捉えているが、
Q3-2 痛みの表出は本当に痛みの基準なのか?

→犬の場合は基準となりうる。しかしながら、人間の場合には基準となりえない(と私は考えている)。
∵人間はウソをつくことができるから。6
「痛い」という発話が痛みの基準となりうるためには、「痛いときに痛みの表出をしない」という可能性があらかじめ排除されていなければならない。
→医療実践とはまさにこの可能性のうちの一つであるウソをついているという可能性が顕在化する場なのでは?

・医療実践は日常の実践よりも知識の非対称性が大きい(「虫歯のひどさ」を判断できるエキスパート(医療従事者)と患者という関係に立つ)ので、三人称的判断(虫歯がひどい)と一人称的表出(「痛くない」という本人の発話)との乖離が顕在化しやすい状況のように思われる。
→そしてこのような乖離が生じたときには、日常的な「痛み」の言語ゲームにおける暗黙の前提(「痛みの表出は正直に為されている」)に対して疑いの目が向けられることになるのでは?

 前田さんは 事例 [2]-2(七一頁)を「痛みと『痛みの表出』という基準的関係に疑念を向けることなく…」行われている事例として分析されているが、本当にここでドクターは疑念を向けていないのだろうか。少なくとも、疑念を向けるということは医療実践においては十分にありうるのではないだろうか。
そして、このような痛みの表出から切り離されうる(表出が基準とはならない)痛みの私秘的な領域が立ち現われてくる場面こそが、まさに「心」が問題となる場面なのではないだろうか。8

6 「「痛み」という概念を用いた言語ゲームに参加できるようになることは、同時に、痛みを隠したり、痛いふりをしたりすることもできるようになるということだ」(六〇頁)
7 「痛みの表出を否定するということは、ほとんど発話者を『うそつき』とすることに等しいのだ」(七六頁)
8 そして、懐疑論が始まるのはまさにこの地点からなのではないか。
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以下、細かい質問をつらつらと…

Q4 「文脈」とは何か

 文脈はどのように個別化されるのか。同じ文脈というのはありうるのか?それとも、原理的に一回きりしかありえないのか?もしも同じ文脈というものがありうるとすれば、その同一性の基準はどのようなものになるのか?

Q5 本当に過去以外を想起できるのか?

想起の対象自体は「過去」のことがらとは限らない (一五四頁)

例)「次のワールドカップは2014年にブラジルで行われる」ことを覚えている
⇒未来のことを覚えているのではなく、過去に学んだ知識(地球は丸い、信長は本能寺の変で死んだ、等々)を覚えているということ=「意味記憶」
⇒体験にかかわる「エピソード記憶」に関しては、「想起の対象が過去の事実である」ということは「思い出す」ということの文法に属するのでは?

Q6 「人は他人の痛みを知ることはできる」は文法命題なのか?

「他人の痛みについての経験的な困難が生じるためには、他人の痛みは『文法上』理解可能でなければならない」(五八頁)と言われているが、「『他人の痛み』とは何かを理解することができることと、「他人が痛いかどうかを知ることができる」ことは別のことではないのか?
たとえば、自分が痛みを隠すことができるのと同じような仕方で他人も隠すことのできる痛みをもっているという意味で、「他人の痛み」について理解している。しかしながら、他人が痛みをもっているのかどうかを知ることはできない、ということが考えられるのではないか。
むしろこの命題は、一般的な語用論的前提(人が何かを記述することができるためには、人はその何かを知っていなければならない)なのでは? そして、もしもこの前提が「人がある事実(Aさんは痛い)を記述することができるためには、ある事実を知っていなければならない」と言い換えられるならば、端的に偽になのではないか?(人はその真偽を知るまえに、そのことについて語りうるので。たぶんここでのポイントは「何か」のところが語なのか、文なのかという点にある)

 そして、おそらくこの問題は前田さんが文法を拡張しているところから来ている。最初の文法規定は以下のものであった。

このような文法的な結びつき[「他人の痛み」と「私が感じる」という概念(?)が結びついていないこと]は、将来の経験的事実の発見によって直接覆されうるものではない (五七頁)[括弧内引用者]
その語をゲームのしかるべき指し手として位置づける文法 (五九頁)
しかしながら、たとえば六二頁くらいから、「文法」という概念を経験と連続したより緩い概念へと拡張する方向へと傾く。この転換を支えているのがウィトゲンシュタインの『確実性』における河床の比喩である(「経験命題の形を備えたいくつかの命題が凝固して、固まらずに流れる経験命題のための導管となる」(OC96節))。
しかしながら、私の理解ではこの比喩は「文法命題が経験命題になる」とか、「経験命題が文法命題になる」といった連続性を表現しているのではない。
私の言い方で許していただけるならば、前田さんが明らかにしているのは、文法というよりは「言語ゲームが回転するために疑いを免れている蝶番」であるように思われる。これはある意味においてアプリオリではあるが、必ずしも言語の規則である必要はない。

おまけ

問1: オースティン、ウィトゲンシュタインの差異

私が第一回研究会で「EMはどちらかというとオースティンに近いのではないか」と発言した理由
  1. 日常言語へ着目する動機の違い
    • オースティン…日常的な言語の使用法そのものに関心⇒詳細な言語現象の事例を拾い出す
    • ウィトゲンシュタイン…哲学的問題の解消のために日常的な使用を思い出させる
  2. 言語規則の性格の違い
    • オースティンの言語規則=その社会における慣習(convention)に大きく依存する
      (例)「結婚する」という発話→婚約という慣習や社会的制度が存在する文脈でのみ特定の発語内行為(結婚の約束をするという行為、権利義務関係の成立)となる。
    • ウィトゲンシュタインの文法=ローカルな慣習的ルールではなく、アプリオリな世界の形式
      例)「私は他人の痛みを感じることはできない」
      →感じることができない痛みは「他人の痛み」と呼ばれるという言語の使用規則である。
      と同時に、この規則に世界の本質的な構造が反映されている(したがって、少なくともあるいみにおいて、恣意的に選択できるようなものではない)
      本質は文法において表されている (『哲学探究』371節)

問2: エスノメソドロジーと後期ウィトゲンシュタインの距離

共通点1:言語ゲームの自律性
  1. 実践の自律性9 …規則(たとえば「+2」)が実践を確定するのではなく、実践(たとえば、「2、4、6、8、…と続けていくこと」)が規則を確定する
    一つの実践を確定するために、人は規則だけでなく実例も必要とする。われわれの規則は抜け道に開かれている。そして、実践は自分自身で語らねばならない。Die Praxis mus fur sich selbst sprechen.
    (『確実性』139節)
    →EMでいえば「人々の実践のあり方が、人々の方法(たとえば、概念の)
  2. 日常言語の自律性…日常言語の使用は正当化されえず、記述しうるのみである。10
    哲学は、いかなる仕方にせよ言語の実際の使用を侵害してはならない。したがって、哲学は最終的には言語の実際の使用を記述できるだけである。
    というのも、哲学は言語の実際の使用を基礎づけることはできないからである。 哲学はすべてをあるがままにしておく
    (『哲学探究』124節)
9 これは私の造語で、中期ウィトゲンシュタインの「文法の自律性」からの転用である。
・文法の自律性…体系外部の何かによって意味が与えられるわけではない
名前や文が意味をもつのは、それらが属している記号操作の体系(Kalkul)においてである。この体系はいわば自律的である。
―言語は自分自身で語らねばならない。Die Sprache mus fur sich selber sprechen.
(『哲学的文法』27節)
10 但し、以下の話の流れで出てきていることは注意が必要。あくまでも「哲学的問題の解消」という文脈でこの話はされている。
哲学者が「知識」「存在」「対象」「自我」「命題」「名前」といった語を使い、事物の本質を把握しようとしているときには常に以下のように問われなければならない。この語はその故郷である言語において実際にそのように使われているのか、と。
われわれは、それらの語を、形而上学的使用から日常的な使用へと連れ戻す。
(『哲学探究』116節)
哲学者の仕事は、ある特定の目的のために、諸々の記憶を寄せ集めることである
(同上127節)
(共通点2:発話の意味の社会的文脈依存性?(ロビンソンクルーソー言語を認めないという意味で?)
ウィトゲンシュタインの主張の核心とは、言語や意味のようなカテゴリーの適用を可能にするのは、それ自体として考察された個々の発話ではなく、それらの発話がなされる社会的文脈(social context)である、ということだからである
(P.ウィンチ『社会科学の理念』(森川真規雄訳、新曜社、一九七七年)、四三頁)

→この点に関しては、私もまだポイントがよくわかっていません。申し訳ございません)

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討議

1. 

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