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起稿:2013年06月24日/最終更新:2013年09月05日(作成:酒井泰斗)
ロマン主義の時代以前には、自分を詩人と考えるような人、つまり自分がそのような種類の人間であると自認する人などいなかった。人はたんに詩を書いていただけである。また、同性愛というカテゴリーは(したがって異性愛というカテゴリーも)、人間の逸脱行動を研究する医師たちがそれを発明するまで存在しなかった、と主張する解放運動家たちもいる。 いまわれわれが同性愛とみなす行為は昔にも存在したが、同性愛者という人間の種類は存在しなかったのである 。私が自らをある人物や行為者と見なす仕方はどれも、歴史的事象の網の目の中で構成されてきたものなのだ、というのがフーコーのテーゼである。
(訳179)
このアンソロジー[『近代的同性愛概念の形成』(Plummer 1981)]に見られる次の典型的な一節が、私の意図を代弁してくれるだろう。同性愛のアイデンティティを主題として語るとき、その根底にはジェンダーの反転という考え方があった。これを彫刻しようとすること困難であるのは、セクシュアル・アイデンティティの構成要素について精確な理解が進んだのが、歴史的に言って、ごく最近になってのことだからである(Marshall 1981:150)。加えて脚注にはこうある。こうした[セクシュアル・アイデンティティの]構成要素が、科学的「発見」の待たれる「実在的な」ものであると言いたいわけではない。そうではなく、ひとたび区別が立てられることで、事実上新しい実在が出現すると言いたいのだ(Marshall 1981:249 n.6)。(訳 216-217)
繰り返しが多くてちっとも敷衍してくれてる感じがしないところが安定のフーコー先生クオリティです。
- 一方において私は、現在に対する関わり方、歴史的な存在の仕方、自己自身の自律的な主体としての構成、という三つのことがらを同時に問題化するようなタイプの〈哲学的な問い〉が、〈啓蒙〉に根差すものであることを強調しておきたかった。
- 他方において私は、私たちを啓蒙へ結びつけている絆が、教義の諸要素への忠誠というようなものではなく、むしろ一つの態度の絶えざる再活性化なのだ、ということもまた強調しておきたかった。この態度とはすなわち、一つの〈哲学的エートス〉であって、それは私たちの歴史的な存在の絶えざる批判として特徴づけることができるかもしれない。わたしは、この哲学的エートスを、いかに簡略に性格づけてみたい。(訳 16)
A 〈哲学的エートス〉のネガティヴな性格づけ
[…]B 〈哲学的エートス〉のポジティブな性格づけ
[…] 〈私たち自身の歴史的存在論〉を通して、私たち自身が言うこと、考えること、行うこと の批判をするということによって成立する哲学的エートスとはいったい何なのか、そのエートスについて、より積極的な内容を与えなければならない[…]。[…]
- 「「単独で、偶然的で、恣意性にゆだねられているものの占める部分はどのようなものなのか」を問いましょう。限界の確定(カント)ではなく、可能的な乗り越えを目指しましょう。」(大意)
- […]批判は、[…]私たちが行うこと、考えること、いうことの主体として、私たちを構成し、またそのような主体として認めるように私たちがなった由来であるもろもろの出来事をめぐって行われる歴史的調査として実行される[…]
- (a) 〈歴史的-実践的批判〉に賭けられているもの
- (b) 均一性
「この研究の研究対象は〈実践の集合(ensembles pratique)〉だよ。この研究は、を対象とするよ。」(大意 訳 22)
- 〈行うこと faire〉の諸々の様態を組織している合理性の諸形式(それら実践の技術的な側面と呼ぶことができるもの)
- 他人たちが行うことに反応しつつ、またある程度までは自らゲームの規則を変更しつつ、人間がそれらの実践のシステムのなかで行動するときの自由(それら実践の戦略的な側面と呼ぶことができるもの)
- (c) 体系性
「〈実践の集合〉は、三つの大きな領域に属しているよ。これらは絡み合っているよ。」(大意 訳 23)
- 知の軸: 事物に対する支配の諸関係の領域 ──如何にして私たちは私たちの知の主体として成立してきたか。
- 権力の軸: 他者たちに対する行動の諸関係の領域 ──如何にして私たちは、権力関係を行使し・被るような主体として成立してきたか。
- 倫理の軸: 自己自身に関わる諸関係の領域 ──如何にして私たちは、私たちの行動の道徳的主体として成立してきたのか。
- (d) 一般性
[…] 理解すべきなのは、が、いかなる度合において、対象、行動の規則、自己へのかかわりの様式を規定している問題化の一定の形式によって、一定の歴史的なかたちとして構成されるものであるのか、ということなのだ。(訳 23)
- それらの問題について私たちが知っていること、
- それらの問題において行使される権力の諸形式、
- それらの問題において私たちが自己自身に関して経験すること
私が考えるには、批判の作業は、私たち自身の限界についての仕事を必然とするものであり、つまり、自由を待ち望む性急さに具体的な形を与えることが出来る忍耐強い仕事を必要とするものなのである。(訳 25)
それ[「歴史的存在論」]は、彼が「知と権力と道徳からなる枢軸」と呼んだ、次の事柄を対象とする、来るべき学の名である。すなわち、の三つである。(訳 3)
- それを通じて、われわれが、自分自身を知の対象として作り上げるところの真理
- それを通じて、われわれが、自分自身を、他者に対して働きかける主体として作り上げるところの権力
- それを通じて、われわれが、われわれ自身を、道徳的な行為者として作り上げるところの倫理
人類の歴史の進展に伴って、ありとあらゆる種類の事物が存在するようになる。 だが、すべての事物が…私が言うところの歴史的存在論の対象になるというわけではない。 では、私がかつて「現象の創造」と呼んだ自体はどうだろうか。(訳 32)「レーザー光」のように、自然界には存在せず 実験室の中で初めて創造されたものが、「現象の創造」の例。
私は、この「現象の創造」を、歴史的存在論が扱うトピックには数えない。なぜか。理由は簡単。それが、知・権力・倫理という例の三つの枢軸と交わらないからである。(訳 35)
投射可能性は 統語論的あるいは意味論的には定義されえない という結論は、心理学にとってきわめて重大であると認められるとともに、そこから生ずる諸帰結に関する活発な討論を促した。私自身の最近の著作──たとえば『世界構成の様々な道』(Ways of Worldmaking)──において、本書で展開された帰納法的妥当性の取り扱いは、予期しない分岐を生じた。というのも、多くの種類に関する正確さ(その中には、サンプルの公正さや、表現や構想の正確さが含まれる)は、分類の正確さを含むからである。そうして、分類の正確さは、あきらかに、「自然的な」種類を発見する問題ではなく、適切な種類を組織する問題であるから、擁護の役割が考慮されなければならないのである。 (訳 20)「投射可能性」は形式的に扱うことができない(だから歴史的・文化的・社会的(以下略)な制約を見なければならない)というのは一つの哲学的主張である。経験科学者がこれに、それとしてコミットする必要はない(議論は哲学者たちにまかせておけばよい)。経験科学の従事者にとって重要なのは、──この哲学的主張に関する哲学者たちの論争がどのような帰結に至るのであったとしても、少なくとも──ここに論争が生じる余地がある程度の「研究のフィールド」が開かれている、ということの方である。つまり、仮にグッドマンのこの哲学的主張が「普遍的」には成り立たず・何らかの限定が必要なものであることが分かったとしても、上記の「研究の余地=フィールド」が消えてなくなりはしない、ということの方である。
グッドマンの[帰納法の]モデルにおいては、仮説は、文化的・科学的歴史の道程において変化するような仕方で秩序づけられている。グッドマンが、過去の帰納的実践の光に照らして仮説を秩序づけるのに用いる原理、たとえば「擁護」の原理でさえ、彼の考えでは内在的なものではなく、われわれの共同体の実践についての哲学的反省によって手に入れられるものである。(訳 2)
[...] グッドマンの見解の中にあるものは、そしておそらくウィトゲンシュタインの見解の中にもあるものは、なのである。そしてこの基準は逆に、
- われわれの基準に一致するか否かにしたがって正しかったり誤りであったりする実践
ここには循環、あるいはより適切には、螺旋的関係があるが、グッドマンは、ジョン・デューイとともに、それを良性のものとみなしている。(訳 3)
- われわれの実践に一致するか否かにしたがって正しかったり誤りであったりする。
[...] 擁護は、過去においてわれわれがひとつの述語を現実に機能的に投射した頻度に依存する。
私の「種類の制作」の考えは、グッドマンの世界制作の考えに何も付け加えていない。というのも、グッドマンは 種類・クラス・区分・タイプについて すでに多くを述べていたからである。1940年の彼の博士論文『性質の研究』([…])は いくつかの基本的な種類に関するものである。その論文を動機付けている考えは、論理を超えた事柄に記号論理を適用するテクニックなしには、記号論理を必要とする問題はけっして明確で正確な解決をもたらさないであろう というものである。彼は、そこで、人間が行う研究の固有の対象は「種類」であるとする、論理についての初期の考え方に逆戻りし始めた。ではどんな種類か。有意な種類である。私が「自然な」とは言わずに「有意な」というのは二つの理由にもとづく。種類はグッドマン哲学の核である。彼の最初の完全に独創的な発見は、「帰納の新しい謎」であった。個別事例に関する証拠を基礎になんらかの一般的な結論に到達する際、われわれは、同じ推論のルールを使いながら、しかし別の分類をすれば、反対の結論に到達することが可能である、ということをその論文は示している。[…]
- 第一に、「自然な」という言葉は、生物学で言う種類だけではなく、音楽作品、心理学実験、機械の型式のような人為的な種類をも含むには不適切である。
- 第二に、ここで問題にしている種類はどちらかというと習慣的・伝統的なものであるか、あるいは、新しい目的のために考案されたものであるのに、「自然な」という言葉は、何か絶対的な範疇的ないし心理的優先性を示してしまう。[Goodman 1978, 10]
[…] グッドマンの「新しい謎」には一般的な解決は存在しない し、「新しい謎」の適用範囲は、機能や理性のほかの些細な機能をも超えて及ぶ***。われわれは多くの世界に住むことができ、現に住んでいるという彼の学説は、ある方面からは賞賛され、またある方面からは忌み嫌われるのであるが、「新しい謎」はこの学説を強めるのである。「新しい謎」は以下のような彼の変わることのない確信を支える。進化する伝統に影響を受けながら 有意な種類を編成し選びなおす ことがなければ、 種類の編成が正しいとか間違っているとか、帰納推理が妥当であるとかないとか、サンプリングが公平であるとかないとか、サンプルに斉一性があるとかないとかそういったことは成り立たない。(Goodman 1978, 138-139)[…]
グッドマンの考察は ここまで はとてもよい。しかし、まさに世界制作に至るまで、グッドマンが言う見事なトリックの数々をわれわれはどのように行えばよいのか。つまり、いかにして 有意な種類を編成し選択 すればよいのか。あるいは自動詞を使って同じことを表現すれば、いかにしてそうした種類は存在するようになるのか。なるほどグッドマンは、「実践との合致」「進化する伝統による影響」と書く。しかしながら、彼は、実践や進化の具体的な相についてはほとんど何も語っていない。私は、ある種類が制作され形成され、最終的には世界を変える、その複雑な過程の一例を挙げて、このギャップを埋めていきたいと思う。
われわれが いかにして日常生活において新しい種類を選び編成するのかを理解するには、詳細な事例が必要である。その場合、進化する伝統についての事例が必要となってくるが、千年かかった進化の事例ではなく、ここ二、三十年の進化の事例が必要となる。そこで「児童虐待」が役立つ。それは人間的であると同時に科学的である。(訳282)
著名なフェミニスト、ドロシー・スミス に1985年に質問したときの以下のような示唆から私はこの仕事に着手した。と彼女は慎重に答えた。
- 「いままさに変わりつつある重要な社会的・人間的概念のよい例はありますか。」
- 「児童虐待を見てみたらどうでしょうか」
[…] 私の関心は[…]「児童虐待」「虐待者」「虐待された子ども」といった言葉が種類を指す仕方と、そうした種類は われわれに何をもたらすのかということにある。(訳 286-287)
- […] 児童虐待を取り上げる第一の理由は、最新のいきいきとした種類を研究するためである。[…] グッドマンは進化とは言ったが、何がどのように進化するかについてはほとんどヒントをくれなかった。[…]
- この事例を選ぶ第二の理由は、児童虐待が、グッドマンが言う意味以上に「有意な」種類だからである。
- 児童虐待を重要な分類として編成し選ぶことは、法律に、民生委員の日常業務に、家族の管理に、子どもの生活に、そして子どもと大人が自分の行為や過去を、あるいは隣人の行為や過去をどのように描くかに、多大なる影響を及ぼしてきた。
- 第三に、児童虐待は、社会的レトリックや様々な種類の政治学において役割を果たしているにもかかわらず、そもそもは科学的概念として提出され、今でもなお科学的概念として使われている。[…]
- 児童虐待を取り上げる第四の理由は、[…]無垢な子どもを害するという観念は強い意味で道徳に関わっている、ということである。[…]
- 初代ペルシャ帝国王の父ダリウスは、キュロス王によってつくられた帝国に、統治管区satrapyなる仕組みを課した。これら行政的区域の住民──多様なクラスの人びと──こそが、まさにギリシア人が「ペルシャ帝国の多様な ethnos 」として言及したものだった。
- ダリウスの隊長たち行政上の便宜のために王の 臣民たちsubjects を(それなりの根拠をもって)カテゴリー化しただろう。
- 征服される以前、臣民たちはそようなやり方では分類化されていなかった。ある人びとはそのように分類され組織されて「そのような種類の人々」となり、あるひとたちは帝国の束縛から逃げるために連帯することによって、あるいは暴動によって、そのような種類の人々として固定されただろう。
- ここには、
が揃っている。
- (a) 人々の分類
- (b) 分類される人々[=分類の外縁]
- (c) 制度
- (d) 人々についての知識
- (e) 専門家
我々にとって重要な意味を持つ人々の種類は、社会学や医学といった人間科学において研究されているものである。ここにおいて、([「人々の制作」と「ループ効果」を研究する際の]私のフレームワークの一側面である)知識は、それを生み出す専門家とそれが生産され利用される制度とともに、主要な役割を担っている。人々を作り上げることはいついかなる場所においても行われてきたが、我々が何ものであるのかを人々が理解する際に科学がこれほど中心的な役割を担うようになったのは、ここ200年のことである。我々は、それになることが可能な人々の種類についての科学的イメージに基づいて自らを作りだす。しかし、科学も、科学的方法も、単一のものではない。人間科学はいくつかの発見の原動力によって駆動されており、そうした原動力は事実を見いだすことだとみなされているが、人々を作り上げることの原動力でもあるのだ。(305)
[…] 我々が行い、思考し、言うことの主体として我々を構成し、また、そのような主体として我々を再認するように我々を誘った、もろもろの出来事を巡って行われる歴史的調査として、批判は行使されるのである。[…] 批判は、その目的において系譜学的で、その方法において考古学的である。[…] 批判は、自由の無限定な作業を、可能な限り遠くへ、可能な限り広く追求することを目指すのである。
- 考古学的であり 超越論的ではないというのは、この批判が、あらゆる認識、あらゆる可能な道徳の普遍的諸構造を明らかにしようとするのではなく、我々が考え、語り、行うことを分節化している言説を、どれも歴史的な出来事として扱おうとするという意味においてである。
- この批判が系譜学的であるというのは、我々が行い得ない、あるいは、認識し得ないことを、我々が存在する形態から出発して演繹するのではなく、我々が現在のように存在し・行い・考えるのではもはやないような仕方で 存在し・行為し・考える可能性を、我々をこのように存在させている偶然性から救出するであろうからである。
(『思考集成X』 19-20)
フーコー先生研究人生振り返り。『哲学者辞典』のために変名で書かれたもの。
(『思考集成X』 104/ただしこの訳文は 手塚博(2011)『ミシェル・フーコー』 p.8 からの孫引き。)
- 〔『知の考古学』が属する一連の問題においてフーコーは〕主体が主体として認識の対象となることを可能にする、対象化と主体化の過程はいかなるものだったのかを扱ったのである。歴史のなかで「心理学的認識」がどのようにして形成されてきたかを知ることではなく、主体が認識の対象となる様々な真理のゲームがいかにして形成されてきたのかということが問題である。 ミシェル・フーコーはこの分析を二つの方向に導こうとした。
- 話し労働し生きる主体の問題が、科学的地位をもつ認識の領域の内部に、またそうした認識の形態に従って出現し組み込まれる仕方。
- それについては、17および18世紀に固有の経験的諸科学とその言説を参照しながら、ある種の「人間諸科学」の形成が問題となった(『言葉と物』)。
- またミシェル・フーコーは、狂人・病人・犯罪人という資格で規範的分割の向こう側に出現し、認識の対象となりうるような主体の構成をも分析しようとした。
- 分析は、精神医学、臨床医学、そして刑罰といった実践をとおして行われた(『狂気の歴史』『臨床医学の誕生』『監視と処罰』)。
- そしてミシェル・フーコーはいまや、同じ一般的計画の内部において、主体自身にとっての対象としての主体の構成を研究する企てをもっている。
- つまり主体が可能な知の領域として主体自身を観察し、分析し、解読し、認識するに至る手続きの形成である。
- 要するにそれは「主体性」の歴史であり、主体性という言葉はここで、主体が自己へと関係する真理のゲームの内部における主体自身についての経験の仕方が理解されている。
- 性とセクシュアリティの問題は、おそらく唯一の可能な例ではないにしても、少なくとも特権的な事例を構成するものとして、フーコーには思われた。
フーコーの側からの分析哲学への接近。「分析哲学」という名前でウィトゲンシュタインや「日常言語学派」のことが想定されているところに時代を感じます。
I
しかし、この言説という事象を、もはや言語学的局面においてだけでなく、ある意味では──ここで私は英米の人々の研究に触発されていうのですが──ゲームとして、作用と反作用の、問いと答えの、支配と逃走ないし闘争の、戦略的なゲームとして考える時期に来ています。言説とは、あるレベルでは言語学的事象の、他のレベルでは論争的かつ戦略的事象の、規則的集合なのです。
(『思考集成V』 96)討議
私が言ったのは三つの計画があるということです。それは収斂するものですが、同じレベルには位置していない。 ひとつには、戦略としての言説の分析のようなものです。アングロ・サクソン系の人たち、特にヴィトゲンシュタインやオースチン、ストローソン、サールなどがやっているようなことですね。サールやストローソンなどの分析で、ちょっと狭いと思われるのは、オックスフォードのサロンで、ティーカップをめぐってなされるお喋りの戦略分析は、確かに面白いけれども、どうしても限定されると私には思えてしまうということです。問題は、もっと現実的な歴史的コンテクストの中で、あるいはサロンの会話などとは種類の違った実践の内部で、言説戦略の研究ができないかどうかを知ることです。たとえば、司法慣行の歴史の中で、現実的で重要な歴史的プロセスの内部にも見出すことができる、その仮説を応用して言説の戦略分析を企てることができる、そう思われます。 ついでに言えば、ドゥルーズが現在の研究の中で、精神分析治療に関してやっているのがそのようなことです。精神分析治療を、秘密を暴くプロセスとしてではなく、反対に、二人の語る個人の間の戦略的ゲームとして研究すれば、精神分析治療の中に、どんなふうにこの言説の戦略が遂行されるのかを見ることができる。そこで一方は黙っているけれども、その沈黙は戦略的で、少なくとも語りと同様にものをいっているわけです。というわけで、私のお話した三つの計画は両立しないものではないどころか、ひとつの作業仮説を ある歴史的領域におうようすることなのです。
(『思考集成V』 199)
〈権力のゲーム〉の分析学
すでに久しい以前から哲学の役割は、隠れていたものを露呈させることではなく、見えるものを見えるようにすることだった。[127-8]
現代における哲学の使命は、我々が組み込まれていおり、哲学事態も少なくとも150年来巻き込まれている権力の関係が どのような状態にあるのかを問うことだ。それはいかにも経験的で限界のある仕事だといわれようが、しかし哲学のこのような用い方に幾つかのモデルがないわけではない。私の考えではそのモデルの一つを、英米系の分析哲学に見ることができる。
英米系の分析哲学では、決して言語の存在自体についての反省とか、言語の深層構造とかを問題にしたりはしない。そのかわり、さまざまなタイプの言説において日常的に言語が用いられていく用いられ方を出発点にして、思考の批判的分析を企てるのである。
それと同じようにして、日常的な闘争において権力の関係の内部で何が起きているのか、問題は何か、その権力関係とそこで賭けられているものが何かを明らかにすることを使命とする哲学を想像することができるはずだ。つまり[この、フーコーが構想する政治の]分析哲学の対象は、言語の作用ではなくて権力の関係であり、社会全体を貫いている闘争なのだ。
それは、〈政治の分析哲学〉あるいは〈分析的政治哲学〉と呼ぶことができよう。… [分析哲学においては]言語の働きを〈ゲーム〉として捉えているので、〈ゲーム〉の概念が重要になってくる。
それ[=分析哲学における言語]と同様に、[分析政治哲学における]権力の関係も、過小評価したり過大評価するのではなく、また、拘束・矯正という力しか無いと考えたり、またある断絶によって人間の手には捉えがたいものだと想像するのでもなく、権力の関係を1つの〈ゲーム〉として考えてみることだ。
つまり、〈権力のゲーム〉として、そこにはどういう戦術や戦略があり、どういう規則や偶然が作用し、また何がそこで賭けられ、目的とされているのかを分析してみることなのだ。
(『思考集成VII』 128)
(230-231)