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このコーナーの収録物一覧 | 著者 | 毛利康俊さん(序章構想) |
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評者 | 小宮友根さん、阿部信行さん、大森貴弘さん | |
司会 | 酒井泰斗さん | |
記録 | 当日のディスカッションの一部 |
このコーナーには、2009年08月10日に青山学院大学院大学にておこなった【毛利康俊論文集 出版前検討会】における配布資料を収録しています。
この頁には小宮友根さんの配布資料を掲載しています。
法の≪自然=本性≫(Natur)や≪本質≫について議論してみても成果をあげることはできない。そして、考えるべきは法の境界という問題である。少なくとも以上の点については、了解が成立していると考えていいだろう。そこでおなじみの問題が浮上してくる。法の境界は分析的なのか実在的なのか、つまり境界を規定するのは観察者なのかそれとも対象のほうなのか、と、≪分析的である≫という答えを選んだ場合(多くの論者が、「学の立場からすればこう答えざるをえない」と誤って信じているのだが)、それぞれの観察者が固有の流儀で対象について語る権利をもつということを、承認しなければならなくなる。だがそうなれば前述のように、学際的な討論など不可能だという結論になってしまうだけだろう。だからわれわれは、≪境界は対象によって引かれる≫という答のほうを選ぶことにしよう。
(Luhmann 1993=2003: 7-8)
分析的システム論ならば、どのような「法システム」の概念が構成されるべきかについては、対象のよりよい理解という目的合理的な観点から決定される。
実在的システム論では事情が異なる。どのようなシステムが存在するかは、探求の前にわかっていることでも決められるべきことでもない。
(毛利 2002)
ルーマンは一般論だけを書き逝ったという消極的な意味ばかりでなく、彼の理論は、積極的な意味でプログラムという性格が強い。彼の理論の極度の一般性は、社会のあり方に確定的な一般的記述を与えているのではない。多様な対象に、できるだけ理論的暴力を加えることなく、理解を進めることができるように仕組まれている点で、極度に一般的なのである。
(毛利 2002: 166-167)
- 問題事象を構成するシステムを同定する。できれば関連する機能システムを取り上げる。機能システムを取り上げることの効果は、特定の事象を分析するに際して、もっとも大局的なコンテキスト(システム)を踏まえるのを可能にすることである
- システムの観察の出発点は、再帰的作動を見出すことである。そうすることで、理論の側が対象にあらかじめ特定の内容を読み込んでしまうのを極力避けうる。
- 分析対象システムが社会システムの場合、作動としては、コミュニケーションを選択する。そうすることで、〈社会的なるもの〉にはらまれる緊張から目をそらせずに観察を続けることができる。社会的な過程を、「行為の連鎖」として描くならば、自他の振る舞いをそういう行為として通用させた当事者の視点を特権化することになるだろう。
- 特定の問題事象を、複数のシステムの作動の複合的効果として観察する。その効果は、我々が経験している事象を、それ自体に緊張をはらみうる複数のコンテキスト(システム)の、必ずしも整合的とは限らない錯綜それ自体として、再発見することである。そうすることで、特定の事象が、通常の経験では見落とされているかもしれないような、できる限り多くの大域的・局所的関連の中において、考察できるようになる。
- 複数システムの重なりを構造的カップリングとして、観察する。焦点になるのは、①システムの時間性、リズム、②構造、③システム同士のシンクロの仕組み、④以上のものの再生産のあり方である。
……そもそもそれらが有効に実行できるためには、一つの前提が満たされなくてはならないことが明らかであろう。すなわち、再帰的作動を見出し、それとして指し示し、理論的に有効に記述することが可能であるという前提である。
もちろんルーマン自身は、このことが可能だと信じているだろう。しかし、そのような記述が何であるかを説明するときに彼が依拠しているのは、G.ベイトソンのコミュニケーション理論、V.フェルスターの二次のサイバネティクス、スペンサー=ブラウンの鍵算法、G.ギュンターの作動的弁証法などである。そして彼自身が認めるように、これらの思想には、西欧の伝統的哲学に対する違和を多かれ少なかれ含んでいる。したがって、ルーマン理論の有効性を評価するには哲学的検討が不可欠であり、この検討はまだ十分になされているとは言いがたい。
(毛利 2002: 185-186)
システム論的な見方を前提にするならば、法も政治も、構造的カップリングするのであり、互いに部分的に内的に構成しあうのであってみれば、一方が他方の外皮になるという関係には立ち得ない。
(毛利 2004: 14)
法的コミュニケーションのような、全体社会レベルの部分システムに属すコミュニケーションも、相互行為というミクロな事象を通じてしか生起しないことから、ミクロ現象とマクロ現象の動的相互作用が直裁に視野にはいるようになった。
(毛利 1998: 50)
こうして、我々が日常の法的政治的実践において、ひとかたまりの事実として経験し理解している出来事に対して、構造的カップリングは、別の形で経験しなおすように促す。
(毛利 2002: 178)
ある社会システムには多くの人間が関与しているのであるが、そのシステムと個人とのかかわりは、そのシステムへの包摂/排除のされかたによって大きく異なることになる。
(毛利 2007: 111)
……全体社会の機能システムの分出について論じようとするのであれば、唯一の機能という仮定のみが、明確な成果をもたらすことができる。多数の機能という発想からは、法と他の領域との部分的な重なり合いという問題や、法の境界の不明確さという論点が導かれてくるにすぎないからだ。
(Luhmann 1993=2003: 140)
本書は分析にかかわるものであるけれど、それは記述社会学の試論だと考えられてもよいだろう。というのも、言葉の意味について探求するためには言葉それ自体を解明しさえすればよいというような考え方は間違っているからだ。社会状況や社会的諸関係の諸タイプ間には、ただちには明らかでないような無数の重要な区別があり、それらは関連した表現の基準的用法やそれらが社会的コンテクストに依存する仕方などの、しばしば明示されない事柄を吟味することによってこそ解明されるものなのである。J. L. オースティン教授が述べるように、「現象に対するわれわれの知覚を研ぎ澄ますために 、言葉に対する研ぎ澄まされた認識」を用いることができるということが、この研究の領域においてはとりわけよく当てはまる。
(Hart 1961: vii)