- 1 本日の検討対象と検討観点
 
		- 1-1 検討対象
 
		- 1-2 検討観点
 
		- 2 疑問リスト
 
		- 2-1 [B6] 〈包摂/排除〉?
 
		- 2-2 「ルーマンの主張」の身分は?
 
		- 2-3 システム概念の使用はいかにして擁護されうるか。
 
		- 2-4 「具体的」な分析水準としての相互作用?
 
		- 2-5 「三選択の綜合」としてのコミュニケーション?
 
		- 2-6 コードによるシステムの同定?
 
		- 2-7 複雑性? 〈経験的研究/規範的研究〉?
 
		- メモ
 
	
	
	
	本日の検討対象は、毛利康俊さんの7本の論文(中列)。
	
		
			
				| 大構成 | 
				論文タイトル | 
				扱われている主題・対象 | 
			
		
		
			
				| 分析方針の定式化 | 
				「社会システム論における法‐政治関係論の一動向 
					─ ルーマン派の分裂と今後の課題」(2002) | 
				 | 
			
			
				大主題1: 
					法実践 | 
				「法的実践と理性の社会的条件 
					─ N.ルーマンの法的議論理論批判を契機に」(1998 / 1999) | 
				専門職によるアーギュメンテーション | 
			
			
				大主題2: 
					市民社会における法/法にとっての市民社会 | 
				「福祉国家における法現象の分析枠組 
					─ ドイツ法化論の批判的継承に向けて」(1995 / 1996) | 
				(企業としての)市民 と 行政 
			 | 
				| 〔福祉国家:1995 / 1996〕 | 
				(国民としての)市民 と 行政 
			 | 
				「ざわめきとしての法 
					─ システム論的法化論の再定位のために」(2007) | 
				紛争 と 裁判(+ ADR) 
			 | 
				| 〔ざわめき:2007〕 | 
				市民社会 と 行政  
			 | 
				「リスク社会における科学評価のための法制度設計をめぐって 
					─ ルーマン派システム論アプローチの新展開とその周辺」 (2006) | 
				科学技術 と 行政 
			 | 
				「生命倫理の法政策論 
					─ ルーマン派システム論のアプローチ・序説」(2004) | 
				〈医療-〈患者-家族〉〉 と 行政 | 
			
		
	
	
	
	
	
	
		
			
				| 【N】真理性、新奇性、有意義性 | 
				【T】主題、方法、解釈 | 
			
		
		
			
				
						- ・N-1 真理性: 主張は正しいのか。(対象と主張との関係)
 
						- N-1a: ルーマンのテクストを正しく解釈しているか。(→T-2)
 
						-  N-1b: 検討対象の正しい分析となっているか。(→T-3b) 
 
					  | 
				
						- ・T-1(方法): 主題=対象は、どのような分析方針を必要としているのか。
					
   | 
			
			
				
						- ・N-2 新規性:
 
						- N-2a: 先行研究との関係は。
 
						- N-2b: 分析によって得られた findings は何か。 
 
					  | 
				
						- ・T-2(解釈): そこで選ばれているルーマンの方針を、著者はどのように解しているのか。
 
						- T-2a: その解釈はどのように裏付けられているか。
 
					  | 
			
			
				
						- ・N-3 有意義性: 当該研究コミュニティ・研究コーパスへの貢献は どのようなものか。
 
						- N-3a: これらの諸論考は、どのような法哲学的意義を持つのか。
 
					  | 
				
						- ・T-3:
 
						- T-3a(一貫性): 個々の分析は、実際に、方針に則って・一貫して行われているか。
 
						- T-3b(真偽): 対象に関する知見(~分析・主張)はどのように裏付けられているか。
 
					  | 
			
		
	
	
		毛利さんの諸論考は、総体としてみると、
	
		- 法秩序・法実践をめぐる哲学的主題についての検討を、
 
		- 主として「(市民)社会と行政」という場面において
 
		- 「構造的カップリング」の分析として 遂行したもの
 
	
	として読むことができるように思われる。 このように見立てたうえで、今回の検討会では 下記三氏に次の観点から評者をお願いした:
	
		- 法秩序・法実践は、どのような研究を必要とするものであるのか という研究方法論的観点から: 小宮さんに。
 
		- 「(市民)社会と行政-との関わりにおける-法」の分析についての評価を: 阿部さんに。
			そして、両者を取り持つかたちで、 
		- 課題をルーマン理論を援用して遂行しようとしている点についての評価を: 大森さんに。
 
	
	諸論考を読んでの暫定的印象と、本日の検討トピック案など
	
		- 「新規性」は、ルーマン解釈として(ほかのルーマニ屋&批判者による解釈に対抗して)提示されている??
 
		- 「有意義性」(法哲学的意義)は、明示的には述べられていないように見える。
 
		- 論考検討としては、N-1、N-2 が主となるだろうが、できれば N-3a までたどり着きたい。
			
				- 「経験科学としての社会学」と「規範的技術学としての法学」とのお付き合いについて。
					→「学の違い」だけでは話は済まない。〈規範的/経験的〉区別は 社会学・法学の双方の側で問題となるのだから。 
				- トピック例@「実践理性」論文: 実践哲学的論証理論-と-システム論的論証理論との関係 (→後述)
 
			
		 
	
	
	毛利による「研究プログラム」定式(の2ヴァージョン):
	
		
			| [2002] 版 [p.177-178, p.184] ([2004] 版 [p.006-007]) | 
			[2006] 版 [p.066-067]([2007]版 [p.110-] ) | 
		
		
			
					- A1 理論的観察の出発点は、再帰的作動を見出すことである。
 
					- A2 作動としては、コミュニケーションを選択する。
 
					- A3 特定の事象を、複数のシステムの作動の複合的効果として観察する。[...] 一般には、システム・レフランスが多重的になればなるほど、分析は具体的になるはずである。
 
					- A4 システムの重なりを、構造的カップリングとして分析する。
 
					- A5 できれば関連する機能システムを取り上げる。
 
				  | 
			
					- B1 問題事象を構成するシステムを同定する。できれば関連する機能システムを取り上げる。
 
					- B2 システムの観察の出発点は、再帰的作動を見出すことである。
 
					- B3 作動としては、コミュニケーションを選択する。
 
					- B4 特定の事象を、複数のシステムの作動の複合的効果として観察する。
 
					- B5 複数システムの重なりを構造的カップリングとして、観察する。
 
					- B6 評価の視点は、それらの複合の効果として、全体社会への人々の包摂/排除の態様が最適化されているかどうかである。
 
				  | 
		
	
	
	・2006年版で「研究プログラム」に追加された新項目。ルーマニ屋の先行研究を参照して導入されたもの。
	
「リスク社会」(2006:p.58-60)、「ざわめき」(2007:p.111-112)
	・個人的には、現行の議論のままでは 同意できそうにない。少なくとも、導入の権利付けは 現行のものでは不十分。以下敷衍。
	
【疑問点1】 〈包摂/排除〉とは要するになんのことであり、なぜ問題になるのか。
	・ 「自由と平等」というモダンのスローガン(~古典的な近代化論)のもとでは、〈包摂/排除〉は「平等/不平等」のもとで観念されうる〔→マーシャル/パーソンズ〕。 その限りで──また、この理念が「未来において到達可能なもの」だと観念されている限りで──、その意味が比較的明瞭である代わりに、この対照概念を用いる意義は薄い。
	
※どちらもルーマンが出している例だが:
		ex. すべての人が選挙権を持つ。    ※ただし黒人は除く/貧乏人は除く。
		ex. すべての人が教育を受けられる。  ※ただし女は除く
	・ところが、ルーマンが後年に〈包摂/排除〉区別を術語として使用し始めるときには、この用法↑からの離反が生じている。 そこで問題になっているのは、さしあたっては、「機能分化-のもとで/によって-生じる排除」、「各機能システムでは対処できない排除」といった事態であるようには思われるのだが、しかしルーマンは、たとえば「機能分化がなぜ・どのような排除を生み出すのか」については語っていない。
	
やっていることは、アングラ経済、マフィア(イタリアのカモッラ)、ゲットー(ブラジルのファベーラ)などを例にとった「イメージメイク」程度の作業。
	このような概念を分析のための鍵概念として用いることはできないし、むしろまずは、この概念のほうが分析を必要としているように思われる。
	
たとえば「過剰包摂」のような表現を呼び込んでしまうあたりに、この区別の不分明さと無能力が伺われる。
	・しかも毛利さんの主張はさらに強いものである。というのも〈包摂/排除〉を──現象の名称や分析概念であることを超えてさらに──判断基準(!)として用いようというのだから(→[B6])。ここまでくると、私には もう到底賛成することはできない。
	【疑問点2】 いかにして〈包摂/排除〉は分析しうるのか。
	・「リスク社会」(2006 : p.58-60): ルーマンは、ある人格(Person)がある社会システムを構成するコミュニケーションの名宛人になっているとき、その人格はそのシステムに「包摂」されているといい、名宛人になっていないとき「排除」されている、と言う。
		→ならばルーマニ屋はまず、「コミュニケーションにおいてPerson が名宛人になる」という事態が的確に分析できるのでなければならない。しかし/しかも このことからすぐに次の直観が生じる: すなわち、
	
		もしも問題になっているのが「アドレス形式」だというのならば、
		- これはどのコミュニケーションについても分析できなければならない。つまり〈包摂/排除〉の分析において、「機能システム」が特別扱いされる理由はない*。
			そしてまた、 
		- そのあり方が二種類にとどまるはずがない。(少なくとも、いったいなぜ たった二種類のあり方のみを話題にするのか、そのことには釈明が必要とされる。)
 
	
	* ルーマンが「参照システムを全体社会に採る」と前置きしてから議論を開始している以上、これは直接にはルーマンの批判にはならないが。
	上記議論から導かれる暫定的な主張は次のとおり:
	
		- ルーマニ屋は〈包摂/排除〉を概念装置として用いる前に、まず、いかにして「コミュニケーションにおけるアドレスの形式」を分析しうるのか、という(もっと基本的な)問題に取り組むべきである。
 
		- すると、その副産物として、(目下さまざまな場所でバズワードと化している)〈包摂/排除〉なる概念を、コミュニケーションの分析のもとで──したがって、システム論的に──、_つ_い_で_に_解明できるようになるはずである。
 
	
	そしてもしもそれが成功したときには、〈包摂/排除〉概念を分析装置や基準として用いようなどという気はすっかりうせているのではないかと予想される。 
	
	毛利論考の多くが、
1) 「プログラムの提示」→
2) 「ルーマンの主張の提示とまとめ」→ 
3) 「そこから引き出される洞察の提示」 という構成を持っている。しかし、
	
	
		- 「ルーマンは~~といっている」という形式で提示される 2) の部分が、「モデルの提示」に見え、
 
		- したがって 3) がモデル構築とモデル分析に見えるために、
 
		- 議論全体が 1) と矛盾しているように見えてしまう。
			→「ルーマンが言っていること」の身分が不明。それをどう検討しているか不明。 
	
	個々の主張について、それが「なぜ正しいといえるのか」が示されていない以上、「じゃぁルーマンが言ってれば正しいの?」と皮肉を言いたくなる読者もいるに違いない(私を含めて)。
	正論を言えば、なにしろまず「ルーマンが述べたこと」のほうが、対象に即して吟味されなければならないはず。しかしそこまで大上段に振りかぶらなくても、
	
		- 論考の中から、「(特に、法システムと政治システムについての)ルーマンの主張」を紹介した部分*を いったんすべて取り除いてみて、そこに残ったものでどういう作業が可能であるかを考えてみる、といったリライト作業は可能であるはず。
			
* 以下の箇所:
				
					- 〔福祉国家:1995〕「第一章 N・ルーマンにおける法・行政・市民」
 
					- 〔理性:1998〕 [p.48-]「一 法と日常世界──ルーマン解釈上の諸論点」
 
					- 〔法政関係:2002〕 「三 N.ルーマンの法システム論と政治システム論 - 2 法システム & 3 政治システム」
 
					- 〔生命倫理:2004〕 「六 政治と法」
 
					- 〔リスク社会:2006〕 「三 ルーマン派の一般的アプローチ─社会の音響学」「四 - 1 法システム & 2 政治システム」
 
					- 〔ざわめき:2007〕 「II システム論的考察」
 
				
			 
		 
		- また、「課題設定→対象の分析」という道順だけでなく、その作業を踏まえて「対象の分析のほうから課題設定を反省する」ということがあってもよいはず。
			
例:@「ドイツ法化論」(1995)
				
					- ハバーマス: 市民の自由を確保するための国家による市民生活への介入が市民の自己認知を暴力的に抽象化したり市民同士の自律的行動調整のメカニズムを破壊したりする。
					
 - トイプナー: 市民(特に企業)が法律に準拠した行動をとるとは限らない。
 
				
				なるほど、この両者の指摘は、「常識的に」理解できる。しかし、
				
					- そもそも「これ」はどういう意味で「問題となりうる」ことなのか。
 
					- 「これ」は、実際のところは「どういう問題」なのか。
 
				
				などといったことが、分析が進んだところで、対象の側から検討されてよいように思われる*。
 
			「研究プログラム」を額面どおりに受け取るならば、そこからさらに、
				
					- 「何を問題とし、何を主題とし、どのように分析を進めるべきか」ということも、対象から教えてもらう=学ぶことができる
 
				
				という方針だって導きうるのではないだろうか。
 
			* 逆にいうと、そうしたことを問わずに、「ハバーマスやトイプナーの問題提起に ルーマンは応えられるか?」
という仕方で一方的に設定された議論の土俵が、そもそもルーマンにとってアンフェアなものであるように思われもする。
		 
	
	
	
		- 抽象的な術語を一般的・空中戦的に論じる必要はない。毛利さんの分析がディフェンスできればよい。
 
		- しかし逆にいうと、システム概念が、毛利さんの分析のほうから どのようにディフェンスできるのかは記されるべき。
 
	
	これについても、「分析の方から、術語使用に対する反省へと立ち返る」という道筋がありうるのではないか。
		むずかしい(?)のは──「システムは分析概念ではない」といっている以上──それを「効用によって擁護」するわけにはいかない、ということである。
	
	ミクロ-マクロ リンク?
	毛利論考における登場例
	
		- 「マクロ」〔「実践理性」:1998 p.52-3〕
			「マクロ次元に存在する法規範/ミクロ次元によるその参照」
、「裁判所による法の選択/全体社会へのその伝播」
		 - 「ミクロ」 〔法政関係:2002 p.124〕
			「ミクロ的=相互行為的」
、「法的コミュニケーションも政治的コミュニケーションも、相互行為としてなされることなしには生起しない。」
			* ルーマンの「ミクロ=マクロ」論文を見る限り、ルーマン自身としては「ミクロ=マクロ」図式を避けているつもりであるらしいことがわかる。しかし、では──その代わりに用いられている〈相互作用/全体社会〉類型によって──何をなしえているのかは、残念ながら皆目わからない。
				→〔実践理性〕論文の検討対象である『社会の法』8章「論証」のストーリーにとっても重大な問題。
				
そこでルーマンは「冗長性」を、システム変数(IV)とか「制御の見えざる手」(II)とすら呼んでいる。
			 
			ルーマンが謂う「相互作用が具体的」なる主張の意味が私にはわからない。
				
					-  相互作用が「具体的」な水準であるのだとしたら、ではその区別の反対側にあるはずの、「社会システムの「具体的ではない」分析水準」とは、どういうものなのだろうか。(機能システムというマクロなコンテクスト? それが「具体的ではない」ってどういう意味??)
 
					-  もしも、「マクロななにか」が「ミクロな相互作用」に「コンテクストを与える」*のだとしたら、その「与えている」ところには「具体的な」影響作用・影響過程(?)があるはずだろう(?)。では、それはいったい「何をどのように」分析すればわかるのだろうか。(cf. シェグロフ:ミクロ-マクロ論文)
 
				
			 
		 
		- 「法的実践 2」(1999 : p.95 / 99)
			「ミクロ次元の法的実践における議論の過度の要求」
と「法システムのマクロ的形式的質たる冗長性/多様性」
・「日常世界のマクロ的形式的質たる複雑性」
の間の経験的連関 
	
	→これらはいったい、なにをどうやって調べろと言っているのか?
	
	
		- この「定義」は擁護できないと思う。ルーマンに依拠して「三選択の綜合」定義を使用するなら、三谷(2004)および酒井・小宮(2007)に応答してほしい:
			
				- 三谷: 「三選択の綜合」から出発するなら、システム概念にはたどり着かない (~ システム概念は不要のはず)。
 
				- 酒井・小宮: システム要素を、システム概念とは独立に、「定義によって導入」するのはおかしい。
					→「システム」も(「システム構造」も)「システム要素」も、分析の中で特定されるべきものであって、分析の前に、あらかじめ「システム要素」に対して定義を与えておこうとすること自体が誤っている。 
			
		 
		- この指摘は直ちに次の論点につながる:
			→系: 「〈合法/不法〉というコード」でもって、「法システム」を特定しようとするのは誤っている。[→次項] 
	
	
	・「法システムは〈合法/不法〉というコードによって特定される」
というのは詐欺的論法。
		→「コミュニケーションにおいて、ある事柄が「コード」として働いているというのはどういうことなのか・どういうときなのか」という問いを問わない限りで可能な議論。
	
→毛利諸論考における「ルーマンへの参照」部分が「モデル構築・モデル分析」に見えてしまう一つの(大きな)理由。
		
 逆に言えば、「ある事柄が「コード」として働いているというのはどういうことなのか」ということが個別の分析の中で示せるなら、ハードルはひとつクリアされることになるのでは。
	 
	・さらに。ルーマンの述べるところに従って考えても、「システム構造」概念にはさらにたくさんの謎がある。
	
ex. 「システム構造」として用いられうるものは、コード以外にもさまざまなものがある(ex.主題。システム史 etc.)。
		「複数の構造」(の協同?)によって「ひとつのシステム」がどのように特定されるのかについて、ルーマンは明確な議論を用意していない。
		
それで「済んでいる」のは、背景的・常識的な知識・直感が分析資源としてベタに使われているから。
	 
	▼例題:
	ルーマンに部分的に依拠しながら、ルーマンとは異なる主張が行われたときに、その真偽をどのように判断可能なのか:
	
		- ex.1 労働システム(春日淳一2003 『貨幣論のルーマン』 )
 
		- ex.2 生活世界システム(大黒岳彦 2006 『メディアの哲学』)
 
	
	※これらは、「特定の区別によってシステムが特定・同定できる」という誤った前提に基づき・かつ・常識をベタに資源として議論を組み立ててしまった例であるように、私には思われる。
	
		当然のことながら、
		- 我々は、そうしたジャッジができなければならないし、しかも、
 
		- その同じ判断基準が、ルーマン自身の主張に対しても、同じように適用されるべきである。
 
	
	
	「法的実践 2」(1999) 注24 
		或るシステムの状態と或るシステムの状態とどちらが複雑性が高いか、社会理論は独力で決定できるのだろうか。[自然科学なら平凡な操作だが。] 社会システムの場合、システムに参与する人々の視点の異他的複数性を前提にせざるを得ない(…)。その場合、誰の視点を標準にしたらいいのか。[…] 規範的・評価的議論に踏み込まずして社会理論が独力でこれらの問題に解決を与える方法を考えることは困難であろう。
	・この注は二重の意味で問題(or 残念)。
	
		-  こうした批判は、毛利さん自身が、「複雑性」概念にコミットしていなければ為しえないもの。そして、本文を見ると、実際たしかにコミットしているのである。
			
そして、この注に限っていっても、これは「規範的・評価的議論に踏み込めば、複雑性を測定・比較できる」といっているように聞こえる。しかし、そんなことできるのだろうか。…とはいえ、「コミットしている」以上、できなければ──ルーマンだけでなく──毛利さん自身が困るはずだが。
			しかしこの概念にコミットするなら、まず、この概念の記述・分析上の身分が明らかにされなければならないと思う。
			これは「分析的」概念なのだろうか。それとも「非分析的概念」なのだろうか。そもそもこれは、どうやって測定できるのだろうか。あるいは測定できなくてもかまわないのだろうか。そしてまた、何のために・何の権利で用いることができるのだろうか。
		 
		-  そもそもここで問われているのは、「経験的研究と規範的研究との関係」という、この論文にとっても──ルーマンにとっても、そしてまたごく一般的にいっても──重要なテーマである。にもかかわらず、それが「複雑性」というトピックを引き合いに出して行われているために、(私には)これ以上検討することができない。(その前に「複雑性」概念を検討するほうが先だろうから。→1に戻る)
 
	
	
		- 2 について言えば。
			ルーマンが、「実践哲学的論証理論」に対して用意しているコンタクトポイントは多数あるのだから、この論文の趣旨からいって、それらがもっと詳細に検討されるべき。 
		- 1 について言えば。
			いや…... 「複雑性」って無理じゃないですか? 
	
	
	
	メモ1: 〈経験的研究/規範的研究〉 ~システム論的論証理論と実践哲学的論証理論とのコンタクトポイントの一例
	毛利さんが探したところとは別の場所にも、いまだ検討されていない、システム論的論証理論と実践哲学的論証理論とのコンタクトポイントは まだまだあると思う。その例を 少しだけ考えてみた。
	
		
		『社会の法』(1993)第8章「論証」I & II節: 議論のアウトライン
		
		
			| 論証実践参加者にとっての論証: | 
			・とある決定や法テクストについて、「それはいったいどうして妥当している(いない)といえるのか」を問う。 
				・このテクストは、どのような意図で書かれたのだろうか?  
				・このテクストに対して、どうやったら説得力のある根拠を与えることができるだろうか?  
				・ほかの人たち(特に専門家たち)は、このテクストをどのように解釈するだろうか? | 
		
		
			| 「法学的」論証理論は、こうした実践者たちの実践的関心にコミットする。 | 
			(→という意味で、論証実践と同じ水準にある) | 
		
		
			論証についての社会学的観察は、この関心にコミットしない。 
				そこから生じる自由・余裕を、別のこと(学的関心=実践の社会学的観察)に振り向ける。 | 
			→論証実践と同様に、論証実践についての法学的定式化も、どちらも観察対象となる。 
				・論証実践は何をしているのか。それはどのように行われているのか。それは何をしていることになるのか。
				ルーマンいわく: 法システムを「その作動の様式において主題化」する。(II節) 
				・根拠を用いるというのはどういうことなのか。根拠はどのように用いられているのか。 
				・テクストとは何なのか。それはどのように用いられているのか。 
				・論証実践がおこなわれているとき──あわせて──どんなことが生じているのか。 | 
		
	
	
	ではその上で、さらに何を論じるべきか。・・・とりあえず、大雑把な話をしている限りは何もでてこないと思うが・・・[→次項へ]
	■コンタクトポイント: 『社会の法』第8章I節から
	
		- 引用1: 
「根拠付けの論証」に関する理論は、ますます「手続き原理」のほうへと移っていっている。
			→なぜそうしたことが起こるのか問われてよい。 
		- 引用2: 
論証に規則や基準の箍をはめようとする論証理論は、実際におこなわれている論証実践とすれ違ってしまう。日常的な実務において、「根拠付け」実践のなかで原理がどのように使用されているのかを評価できない。
			→法実務家にとって、「自分たちが実際にやっていること」をよく見もしないでおこなわれる論証理論による「べき論」が、「外在的で迷惑な建前論」として受け取られることは大いにありうること。
			逆に、法実践の的確な社会学的・経験的記述を為しうるなら、法実務家の反省に役立つことがありうるはず。(→社会学的啓蒙) 
	
	メモ2 『社会の法』における「複雑性」概念についてのメモ
	
		- 複雑性は、一方では、システム比較を行うための、もっとも抽象的な参照観点になっており、他方では「システム合理性」というトピックに結びついている。では、『社会の法』の場合は?:
			
				- 05章「正義」 : 偶発性定式 - 環境の規定不可能な偶発性を規定可能な偶発性に変換して対応する。
					→ 「正義」はシンボル。〈コード/諸プログラム〉に対する規範的メタプログラム。 
				- 08章「論証」 : 二次の観察 - 諸作動間の首尾一貫性を確保しながら そのつどの新しい事態に対応する。 
 
				- 11章「反省」 : 自己主題化 - 環境あるいはシステムを、システム内部で主題化する。
 
			
			→どの論点も、システムの自己制御──システム合理性 : システムの一貫性を維持しながら環境への感受性を上げるようにシステムを変更していく試み──に関わっている。(さらに、論証と正義の連関が議論されている。ただしどう連関しているかは謎。)  
		- 機能システムの比較:
			
		
 
		- ほかの論考では、政治について──法や学と並んで──「実定性」が云々されているものがある。
 
		- 偶発性定式については、『宗教の機能』(1977)なども参照。
 
	
	・・・こうした議論には、確かに「ヒューリスティック」な──スペキュレイティヴな?──“それなりの”面白さがあると、少なくとも私は思う。けれども…