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......我々にとって 是非とも必要なのは、次の点に対するある種の普遍的洞察である。すなわち、意識一般の本質に対する洞察、そしてことのほか特別にはまた、そのもの自身の内でそのものの本質に従って「自然的」現実が意識されるような、そのような意識の本質に対する洞察がそれである。しかもこうした本質は、純粋に「内的な経験」のうちから、もしくは純粋に内的な一般的直感のうちからくみ取られなければならない態のものである。...........[分析を通じてフッサールが示そうとしているのは]これである。.........
- 意識というものは、
把握されうるということ、 換言すれば、
- 首尾一貫した内的経験において・それ自身において本質的に連関しあったもの として
- 開かれた果てしなさを持ちつつも、それ自身としては完結した存在領圏として把握されうるということ
そして- この存在領圏は「内在的」時間性というそれ固有の形式を備えているということ
もっと精確に言えば、こうである。つまり、客観的世界の存在妥当を現象学的に働きの外に置くということ を遂行することに よって、この「内在的」存在領圏は、なるほど、世界に帰属し・世界をすでに前提する実在である人間(ないし動物)に付着した、一つの実在的層である、 という意味を失いはする。......... けれども、.........、その存在領圏は、あのエポケーという変更された態度の中で、 一つの絶対的な存在領圏である という意味を保持するのである。それは、であって、
- 一つの絶対的に自律的な存在領圏ということ
存在するのである。したがってまた換言すれば 、そうした存在領圏は、あらかじめすでにそれ自身において・またそれ自身だけで存在するような一存在領圏であって、たとえ世界の存在の問題が、......、どのように 答えられようとも、......、そうした事には関係なしに存在するものなのである。.. ........
- こうした自律的存在領圏は、
- 世界及び世界内の人間の存在ないし非存在に関する問いとは関係なしに、
- およそこうした観点に関する態度決定を抑制中止したところで、
- それ自身において、それがそうであるものとして、
.......、このエポケーによって全く初めて開示されるものは 、......、絶対的もしくは「超越論的」主観性という絶対的な存在領域なのである。 そしてこの存在領域は、全世界という全体的な実在領域の中の一つの部分的な領域ではなく、むしろそうした実在領域やその中の全ての特殊領域からは原理的に区別されるものなのである。....[それは]実在領域と境を接しながらそれと区別される、というのでは断じてなく、あたかもこの存在領域が世界の不足分を補うという形で世界と結びつき、こうして世界と一緒になって一つの包括的な全体を形成しうると言った具合には断じてなっていない。.......にもかかわらず、......、絶対的ないし超越論的主観性の領域は、或る特殊な・全く独特な仕方において、実在的な全世界を、もしくは、実在的な世界たりうるでもあろう様なものすべてを、.....、「おのれの内に担う」のである.....。
...... 我々の主題の名称は、こうであった。意識、もしくは もっと判然といえば、意識体験一般、これであり、しかもそれを非常に広い意味に解 してである。.......
....... この純粋な意識体験を、我々は、具体化の全ったき充実において考察する。この具体化の全ったき充実をそなえつつ、意識諸体験は、それ固有の本質によって相互に融合して、この具体的連関をなすのである。......[この分析において]大切なのは、意識の統一性を性格づけることである。.....[その際、]純粋な意識経験が可能になる仕方というのは、その意識経験が、という具合である。こうした点に、すべての意識総合は帰着する[ということの洞察も重要である。] したがって、別言すれば、純粋意識の全般的領野が、そしてさしあたりはまず、心理学的意味における私の純粋意識が、可能的経験と経験証示とのそれ自身完結的な・無限の領野として、明らかにされてゆくべきなのである。............
- 純粋な体験から純粋な体験へと進んでいって、
- 決して、意識以外のものとは関係せず、
- またそうしたものを一緒に取り入れてゆくこともせず、
- 関係し取り入れてゆくものといったら、これまた意識であるほかはない、
システム論の見地から観察するなら、現象学の「超越論的主観性」の問題は、そうした双方の面から観察することができるだろうし、またしなければならないでしょう。
・・・しかし、そう考えてしまうと、こんどはもはや、フッサールの依拠している様々な前提が崩壊してしまい、まったく別の──たとえばルーマンがその一つの例を与えているような──世界描写にたどりつくことにはなってしまうのですが。