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福井康太著『法理論のルーマン』勁草書房2002についてのノート
「法的やり取りのスムーズな接続は、法のコードとプログラムを全体社会レベルで貫徹するという裁判(所)の機能を前提にしている。…裁判所は法システムのオートポイエーシスを完結させている。」したがって、ルーマン理論の限界の鍵は、裁判所の機能の限界にある、と著者は推論する(178)。はたしてこれは正しいだろうか。
法的論証と裁判手続きによって、法教義学と裁判所はそれぞれ、法システムが持つ自己言及のパラドクスを、脱パラドクス化できていなければならない。しかし裁判所における紛争処理の機能は、当事者視点からすれば、多かれ少なかれ幻滅させられるものであり、裁判によって社会的実態としての紛争が収束するわけではない、と福井氏は述べる。(179)
なるほど、当事者視点から定義される「紛争」は、法システムが定義する「紛争」と乖離するものであり、法システムによる解決は、社会問題の実質的・全面的解決(救済)とはならない。しかしこのことは、法システムのオートポイエーシス的性格の限界を示すものなのであろうか。裁判所は、実体法規の枠が備えている範囲内で紛争当事者に答えることができればそれでよいのか。これが著者の提出する問題であり、ルーマン理論の試金石となる問いだという。
私なりに捉え返せば、問題は、法システムにおいて、法的処理能力を超えた実定法が存在するということ、したがって、法的問題と法の関与しない問題の境界(法とそれ以外のシステムの境界)は、法が実際に適用される場面では、実定法によっては拘束されない基準を持ちうるということである。実定法の運用(適用)を法的処理能力に合わせるためには、実定法の解釈をプラグマティックな観点から捕らえて、ケース・バイ・ケースの対処法をとることが現実的である。つまり当事者視点から見た場合、実定法のプログラムの厳密な施行をとる必要はないということになる。
オートポイエーシスとしての法システムは、裁判官ないし法教義学者によって捉えられた法の適用イメージを理論化したものであり、これに対して紛争当事者の行為規範という観点から法システムを捉える場合、それはまずもって、正/不正を区別するシステムとして現れるのではなく、むしろ、有用/不用というコードが正/不正に先行して、プラグマティックな帰結主義の観点から法の運用が検討されるというのが現実である。「紛争当事者の期待」に沿うかたちで法システムの望ましい姿を考えるならば、それはオートポイエーシス的な自己完結性を破ることを容認するだろう。すなわち、何が正/不正であるかについて、法システムの観点によって判断するのではなく、裁判所が当事者の選択的な関心を考慮して、あたかも当事者視点から判断したかのように、正/不正のコード使用を制御するわけである。当事者の意味コードにしたがって法の適用を最適化(効率化)するという考え方は、法システムの自己言及性(正/不正の判断の自己言及)を可視化する。正/不正の判断とその使用を、法システムの内部で制約することは、「法的なもの/法的ならざるもの」の境界を問題化する。福井によれば、ルーマン法理論の限界は、こうした当事者視点から考えることができるという。
当事者視点が重要な契機となって法適用が変更されていくこと、このことに異論はない。そこで次のように問題を立ててみよう。裁判所は、一方では、法システムのオートポイエーシスを担う中枢とされるが、他方で、実際には、法の適用だけでなく、とりわけ第一審裁判所(地方裁判所・簡易裁判所)では、道徳的・政治的・教育的な諸機能を担っている。そこではさまざまな諸機能が混在しており、そうした複数の利害を当事者たちが裁判所を用いてうまく調整できるのであれば、その限りにおいて、実体法規の枠にとらわれないような裁判所の活動が認められてしかるべきである。したがって裁判所は、必ずしも法のオートポイエーシスを担う機構ではない、ということになる。
ここにきて、いったいオートポイエーシスとしての法とは何なのか、という疑問がわく。
(1)それは法教義学者や上位の裁判官の理解する法イメージを理論化したものなのだろうか。
(2)ルーマン理論を越えるためには、当事者視点、道具主義、行為規範の意味連関、といった理論装置によって可能なのだろうか。
(3)ルーマンというのはお役所主義の理論家で、融通が利かない「反道具主義者」なのだろうか。
(4)法システムのオートポイエーシスというのは、法が道徳や政治や経済から独立して、その機能分化を完成させることと並行する現象なのだろうか。
(5)はたして当事者の選択的関心によってケース・バイ・ケースの法適用を最適化することは、法システム全体の帰結に悪影響を与えないだろうか。
(6)ルーマンのシステム理論は、説明理論であって、こうした規範的議論に対する特定の立場や観点を持っていないのではないだろうか。規範的な議論を持ち出しても、ルーマンを批判するような議論にはならないのではないか。
以上、まとまりもなく疑問を列挙してみた。
「法的やり取りのスムーズな接続は、法のコードとプログラムを全体社会レベルで貫徹するという裁判(所)の機能を前提にしている。…裁判所は法システムのオートポイエーシスを完結させている。」したがって、ルーマン理論の限界の鍵は、裁判所の機能の限界にある、と著者は推論する(178)。はたしてこれは正しいだろうか。
この箇所は、ルーマン法理論(私の「創造的解釈」にもとづくものですが)に対して私自身の疑問をぶつけてみているところです。ルーマンの法理論が、裁判所の機能について、「法のコードとプログラムを全体社会レベルで貫徹する」という「決定」機能(私はこれは裁判所が果たすべき機能の一つに過ぎないと考えています)に過度に傾斜している(としか思えない)ことから、問題提起してみたわけです。日本の裁判所を見る限り、裁判所は、あの手この手で判決に至る前に紛争を収めてしまおうと努力しています。そして、すくなくとも出版当時には、ルーマンの法理論はそのような側面についてあまりに軽視しているように思えました。
この点については、ドイツに来てみて思ったことですが、ドイツの裁判所は、日本の裁判所に比べてはるかに形式主義的であるように思われます。裁判所の役割は、当事者の主張事実が証拠に照らして法律要件を充足しているかどうかを形式的に審査して判決を下すという役割に強く限定されているように見受けられます。訴訟当事者の様子をうかがいながら、適宜和解を勧告したり、裏で両当事者の弁護士と相談して「あいまいだが据わりのよい紛争解決」を目指すようなことは(労働裁判所のような特殊な裁判所を除いて)あまりしないように思われます。だとすれば、ルーマンが『社会の法』のなかで論じていることは、ドイツの司法の記述としてとくに不自然ではないということになります。
もっとも、私が「結語」で論じたことは、実際には、ルーマン理論にもとづいて日本の司法制度を論ずる場合に生ずる問題点を指摘するもので、ルーマンの記述がドイツにおける議論として適切であるかどうかとは関わりがありません。私の表現があいまい(むしろ不適切かも)であることは認めます。
法的論証と裁判手続きによって、法教義学と裁判所はそれぞれ、法システムが持つ自己言及のパラドクスを、脱パラドクス化できていなければならない。しかし裁判所における紛争処理の機能は、当事者視点からすれば、多かれ少なかれ幻滅させられるものであり、裁判によって社会的実態としての紛争が収束するわけではない、と福井氏は述べる。(179) なるほど、当事者視点から定義される「紛争」は、法システムが定義する「紛争」と乖離するものであり、法システムによる解決は、社会問題の実質的・全面的解決(救済)とはならない。しかしこのことは、法システムのオートポイエーシス的性格の限界を示すものなのであろうか。裁判所は、実体法規の枠が備えている範囲内で紛争当事者に答えることができればそれでよいのか。これが著者の提出する問題であり、ルーマン理論の試金石となる問いだという。
法システムの側から見た場合に、「当事者の側で定義される『紛争』が解決されない」ということが非問題でありつづけていることは、私が多くの法律学者と議論してきて、再三にわたって直面してきた重要な問題です。裁判官をはじめとする法実務家たちは陰ながらどうにかこの「乖離」を埋めようと努力しているわけですが、法律学者というものはどうしてなのかこうした乖離に関心を持ちません。「なんのための法律学なのか」と言いたくもなります
私が問題にしているのは、二つの「紛争」定義のあいだの乖離を放置しておいて、果たして司法制度は自らに対する制度的信頼を維持できるのだろうかという問いです。その問いへの暫定的な回答が、「見えないところでそのギャップが埋められている」ということであり、現在進められている「司法制度改革」はそれを正面から肯定しようとしている。それでよいのかという問いも問題になるのですが、「結語」においては、このことの意味について私なりの解釈を示してみたつもりです。
私なりに捉え返せば、問題は、法システムにおいて、法的処理能力を超えた実定法が存在するということ、したがって、法的問題と法の関与しない問題の境界(法とそれ以外のシステムの境界)は、法が実際に適用される場面では、実定法によっては拘束されない基準を持ちうるということである。実定法の運用(適用)を法的処理能力に合わせるためには、実定法の解釈をプラグマティックな観点から捕らえて、ケース・バイ・ケースの対処法をとることが現実的である。つまり当事者視点から見た場合、実定法のプログラムの厳密な施行をとる必要はないということになる。
この点は、条件付きで「その通り」と答えておきます。法教義学が実は一義的な回答など用意しておらず、それを事後的にねつ造する(実際には「ケース・バイ・ケース」に決定が行われている)ということは、決定の「事象次元」および「時間次元」(89ページ以下)で論じている通りです。なお「法的論証」に関する112ページ以下も同様の趣旨で論じたつもりです。「まやかしにすぎない」というコメントが随所に振ってあることにご注意ください。
私が言いたかったことは、127ページの第5章小括で述べたように、法教義学に対して求められる柔軟性と多様性が現代社会においてはすでに過大となっているということです。その結果、裁判所において「ケース・バイ・ケース」な処理を一見「一貫的」に見せるということが困難になっているということです。決定が全く「ケース・バイ・ケース」であるとすれば、それは「紛争処理」に対する社会の期待に応えることにはなっても、「法のコードとプログラムの貫徹」に対する社会の期待には全く応えられないことになります。裁判所はすくなくとも外観上は社会のこの期待に応えることができなければならないと考えますがいかがですか?
言い換えれば、実定法は、自らを超える基準をも、自らのなかで処理できているように装うことができなければならないということです。その「装い」が危機にさらされているということが問題なのです。
オートポイエーシスとしての法システムは、裁判官ないし法教義学者によって捉えられた法の適用イメージを理論化したものであり、これに対して紛争当事者の行為規範という観点から法システムを捉える場合、それはまずもって、正/不正を区別するシステムとして現れるのではなく、むしろ、有用/不用というコードが正/不正に先行して、プラグマティックな帰結主義の観点から法の運用が検討されるというのが現実である。 「紛争当事者の期待」に沿うかたちで法システムの望ましい姿を考えるならば、それはオートポイエーシス的な自己完結性を破ることを容認するだろう。すなわち、何が正/不正であるかについて、法システムの観点によって判断するのではなく、裁判所が当事者の選択的な関心を考慮して、あたかも当事者視点から判断したかのように、正/不正のコード使用を制御するわけである。当事者の意味コードにしたがって法の適用を最適化 (効率化)するという考え方は、法システムの自己言及性(正/不正の判断の自己言及)を可視化する。正/不正の判断とその使用を、法システムの内部で制約することは、「法的なもの/法的ならざるもの」の境界を問題化する。福井によれば、ルーマン法理論の限界は、こうした当事者視点から考えることができるという。
当事者視点が重要な契機となって法適用が変更されていくこと、このことに異論はない。そこで次のように問題を立ててみよう。裁判所は、一方では、法システムのオートポイエーシスを担う中枢とされるが、他方で、実際には、法の適用だけでなく、とりわけ第一審裁判所(地方裁判所・簡易裁判所)では、道徳的・政治的・教育的な諸機能を担っている。そこではさまざまな諸機能が混在しており、そうした複数の利害を当事者たちが裁判所を用いてうまく調整できるのであれば、その限りにおいて、実体法規の枠にとらわれないような裁判所の活動が認められてしかるべきである。したがって裁判所は、必ずしも法のオートポイエーシスを担う機構ではない、ということになる。
この点は、まさに私が言おうとしていることを言い換えているだけです。裁判所はあくまで一つの「組織システム」であって、そこでは複数の社会的論理が交錯していてよい。それらの社会的論理はきちんと使い分けさえされておれば融合してしまうようなことはないと考えます。現実の裁判所を見てもらえば分かるように、和解の手続と弁論手続は意識的に使い分けられているし、裁判所に付設して民事調停・家事調停が行われていますが、それは全く別組織です。そうした使い分けがきちんとなされているかぎりで、法のオートポイエシスはとくに損なわれることはないだろうと考えます。
詰まるところ、裁判所は法のオートポイエシスの中枢を担う機構であるけれども、そこでは(きちんと区別された上で)いくつかの機能が交錯している。これが私の結論です。
ここにきて、いったいオートポイエーシスとしての法とは何なのか、という疑問がわく。
(1)それは法教義学者や上位の裁判官の理解する法イメージを理論化したものなのだろうか。
(2)ルーマン理論を越えるためには、当事者視点、道具主義、行為規範の意味連関、といった理論装置によって可能なのだろうか。
(3)ルーマンというのはお役所主義の理論家で、融通が利かない「反道具主義者」なのだろうか。
(4)法システムのオートポイエーシスというのは、法が道徳や政治や経済から独立して、その機能分化を完成させることと並行する現象なのだろうか。
(5)はたして当事者の選択的関心によってケース・バイ・ケースの法適用を最適化することは、法システム全体の帰結に悪影響を与えないだろうか。
(6)ルーマンのシステム理論は、説明理論であって、こうした規範的議論に対する特定の立場や観点を持っていないのではないだろうか。規範的な議論を持ち出しても、ルーマンを批判するような議論にはならないのではないか。
これまで応答したことからすでに明らかな点も多いと思いますが、それぞれの問いについて一応の答えをあげておこうと思います。
(1)についてはそのように言うことも可能でしょう。
(2)については、「越える」という私の用いた表現に問題があったことは認めます。もっとも、対象を別様の視点に照らして複眼的に見ることによって、それをより適切にとらえることができるとすれば、「越える」ということにもなるのではないでしょうか?
(3)については、ルーマンがドイツの司法制度を念頭に置いて忠実な記述をしているとすれば、こういう批判はお門違いということになるでしょう。他方、もしルーマンが一般理論の観点から司法を論じているつもりであるならば、司法制度を一機能的にのみ記述することで当該記述が不自然足らざるを得ない場合がある(日本の司法制度を論ずる場合)ということも考慮してほしい、とルーマンに対して言いたいところです。
(4)について言えば、この点「機能分化仮説」によって結論が先取りされてしまっているようなところがあり、ルーマン理論の一つの重大な欠陥となっているように思えます。これから検討を進めていく必要があると思っています。
(5)については、「ケース・バイ・ケース」の法適用が外部から不可視(問題化されない)かぎりにおいては、法のオートポイエシスに悪影響など与えることはないと答えておきます。
(6)については、私は適切な記述を前提にして「あるべき裁判制度のあり方」を論じようとしたつもりなわけで、ルーマンの記述が現行の日本の裁判所の記述として適切でないところを問題にしたつもりです。確かに、第6章の小括での問題提起は規範的(「べき」論)になっているので、そのあたりにあいまいな点があったことは認めます。
以上、長くなりましたが、一応すべての問題提起に答えたつもりです。橋本さんに留まらず、メーリングリストの参加者の方の忌憚のない批判を仰ぎたいと思います。