エスノメソドロジー |
ルーマン |
研究会 |
馬場靖雄論文書庫 |
そのほか |
高橋 徹です。おひさしぶりです。
【前略】
さて、先日、ルーマンの新著『社会の社会』についてご紹介しましたが、この本の註をながめていたところ、昨年出されたルーマンの現象学に関する著作をみつけました。
哲学のメンバーが多いこのフォーラムの中では、すでにご存じの方もおられるかと思いますが、哲学と社会学の境界上でさまざまなテーマを論じる難しさなどもありますので、とりあえずご参考までにご紹介したいと思います。
著書名は、
Niklas Luhmann, Die neuzeitlichen Wissenschaften und die Phänomenologie, Wien 1996.
この本は、『社会の社会』第5章「自己描写」第1節「社会への到達可能性(Erreichbarkeit)」の脚注3(S.867)において挙げられていました。
ご参考までに、前後の部分を訳出して、註に出てくる文脈をみていただこうと思います。
・・・・・社会学にとっては、次のような問いが生じることになる。すなわち、主体/客体-図式は、一方において社会における意味操作のひとつの産出物ではないのか、という問いである。もしそうだとすれば、われわれは、必然的に一つの循環に関わっている、ということになろう。すなわち、認知図式(Kognitionsschema)が、{それ自体が}その図式を用いて説明されなければならないような対象の一側面である、という循環にである。{もっとも}それによって、かならずしも何らかの災厄が引き起こされるということはない。しかしながら、とりわけ{社会の中で社会を記述する}社会理論を、この循環性は、次のような問いの前に立たせることになる。すなわち、社会理論は、みずからを、対象を認識する主体のコミュニケーションとして把握することができるのか、それはいかなる意味において可能であるのか、という問いの前にである。イマジネーレン・コンストラクション(imaginären Konstruktion)=自己描写の概念によって、われわれは、--主体/客体という認知図式を放棄するならば--われわれが新たに移ることのできるポジションをすでに用意しているのである。
もっとも、{ここで}注意をする必要がある。対象をその内側と外側にもっている主体{主観}という概念は、自己準拠と他者準拠の区別を用いて進められているオペレーションのための一つのモデルなのであり、しかも、このモデルは、自己描写の認知としての地位という、われわれの問題のきわめて近くにまで到達しているモデルなのである(註3)。しかしながら、このモデルによる問題の解決{自己準拠/他者準拠-差異をもちいたオペレーションをいかに記述するか、という問題の解決}は、われわれはこの点に後でたちかえるが、それでなくとも近代社会を描写する適切なゼマンティク上の資源を動員することのできない時代に、その苦悩を{しばし}解消していたにすぎないのである。・・・S.867-868.
どこで始めてどこで切っても物足りなさが残りはしましょうが、あくまでご参考にということで、ルーマンの現象学と近代科学について著作が注に掲げられる文脈をみていただくために、部分訳をいたしました。
imaginären Konstruktionなど、いってる意味がいまいちわからないところもありますが(ちなみに、ルーマンはその例として「虚数」を挙げている)、あくまでご参考までにということでご容赦ください。
まあ、ともあれ、ここで問題になっているのは、主体(主観)/客体(客観)-図式をいかに乗り越えるか?、より洗練されたものに置き換えるか? ルーマン理論は、この問題にどう貢献しうるか?
こういうことになるのでしょうか。もちろん、こういう図式に拘泥する必要はないのかもしれませんが。
とりあえず、本の紹介ということで、以上です。