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酒井です。
高橋さん、はじめまして。
At 7:51 PM 97/5/27 -0800, tohru takahashi wrote:
私は、大学院(東北大学)で社会学を専攻しておりまして、研究の中心はニクラス・ルーマンの社会システム理論です。
【略】
これまでに、彼の理論的な主著と言っていい『社会システム』の翻訳の作業にくわわり、現在では彼のコミュニケーション・メディアとしての愛をめぐる一種のモノグラフであり、彼独自のゼマンティク論のなかでももっともインテンシヴな『情熱としての愛』の翻訳の作業にあたっています。
『社会システム』の翻訳は、ホントにありがたかったですね。たいへんだったと思います。
【略】
さかいさんにいただいたコメントについていくつか書いてみようと思います。
ちなみに訳語の選択でもっとも疑問に思うのは、Unwahrscheinlichkeit に「不確実性」が充てられているところですねぇ。これだと、ストキャスティックな・進化論的な含意が感じられなくなりませんか?
しかも、「非蓋然的である=ありそうにない」ことと、「不確実である」こととは、イミが違いますよね。特にルーマンの場合はその違いは重要だと思われるのですが.....。
僕自身は、翻訳チームにかなりあとになって加わっている最末端の若手にあたりますので、自由に僕なりの考えを述べたいと思います。
Unwahrscheinlichkeit の訳語にどの日本語がふさわしいかについては、日本社会学会のルーマン部会などでも言及されることがありました。同じ翻訳チームに加わっていた方の発表で、「不確実性」の訳語が踏襲されており、そのあたりに土方透さんでしたか、記憶はあいまいですが、質問をされたのです。
「不確実性」の訳語についてのまとまった見解は、村中知子『ルーマン理論の可能性』(恒星社厚生閣、1996年)の注のなかで論じられています。
多少長いですが、引用しますと、
ルーマンは、These der Unwahrscheinlichkeitと表現しているのであるが、Unwahrscheinlichkeitの訳語については、ここで明確にしておかなければならない。
Unwahrscheinlichkeit は、しばしば「ありそうにないこと」と翻訳されているが、ルーマンの使用法を勘案すると、以下の理由から不適当であると考えられる。
ルーマンは、die Unwahrscheinlichkeit der Kommunikation とか、Unwahrscheinliches in Wahrscheinliches transformieren というように用いていることから判明するように、Unwahrscheinlichkeit を生じる蓋然性が相対的に高いとはいえないこと一般にあてはめているとみられる。 ありそうにないことをありそうなものにするという翻訳はなじまない。Unwahrscheinlichkeit は蓋然性から言えば、かぎりなくゼロに近いものも含まれるということであって、ゼロではない。コンティンジェンシーが不可能でなくかつ必然でもないのと同様に、Wahrscheinlichkeit と Unwahrscheinlichkeit は ゼロ以上で100以下のなかでの蓋然性の対比でしかない。したがって、Unwahrscheinlichkeit は Wahrscheinlichkeit の否定(もちろんその逆も成り立つ)であって、じっさいにありそうにないことだけを指すとは考えられない。日常的感覚からして、社会秩序がありそうにないことがらだけからしか生じないと考えることこそ不自然である。蓋然性の相対的に高いものからもとうぜん成り立っている。蓋然性の多寡からすれば、不確実なものがより確実なものになるという訳の方がベストではないが、誤解が少ない。(56頁)
簡単にまとめれば、村中先生がいいたいのは、Unwahrscheinlichkeit をたんに起こりそうもないこと一般を指すものと訳すよりも、ある幅を持った蓋然性の低さをあらわすものとして訳語を当てた方が、「ベストではないが、誤解が少ない」ということでしょう。
ドイツ語そのものをみれば、まさに文字どおり、Un(否定)+Wahrscheinlich(ほんとうらしい、ありえそう)ということで、「ありそうもない」ということになります。僕自身もそういうニュアンスは共有しています。
しかも、さかいさんが指摘されていますように、なぜわざわざこのような言葉をルーマンが使うのかという点で言えば、それにはルーマンのいう「進化」がかかわっていて、僕自身は、まさに事態が(歴史が、社会が)、他の無数の可能性にもかかわらず、「他でもなく、こうなった」、ということへの真摯な驚きのニュアンスを喚起しているのだと思っています。
ただ、「ストキャスティック」というとこれは、ある種確率論的な蓋然性のことをさしているのだと思いますが、ルーマンのいう蓋然性と確率論的な蓋然性をかさねあわせてしまうことには、ある問題があると思います。
それというのも、比喩としてではなく、厳密に確率を問題にする場合には、計算の際に、そのとき可能な選択肢があらかじめわかっていなければならないわけです。ところが、ルーマンの理論にのっとって出来事の蓋然性を考えてみると、確率を計算する際に問題になる他の諸可能性というのは、当の選択がなされるとともに顕在性、潜在性の程度の差はあれ、一つの選択地平をなすかたちでみいだされます。
このあたりを論じることになると、「意味」、「構造」、「情報」といった概念がかかわってくることになりますので簡単にあと少し書いておきます。
何かある選択がなされることをとおして、その選択そのものをも含めた諸可能性の地平がみいだされるといっても、普段の生活では結構選択肢というのはあらかじめ見えているではないか・・、という意見もありえます。しかし、そういうふうに諸選択肢を期待可能にしているのが、諸可能性の選択作用としての構造の機能なのであり、同時にこのような構造の選択作用もまた実際の選択(システムにとっての「情報」となる)によって顕在化しているわけです(『社会システム』訳104頁参照)。
さて、Unwahrscheinlich にもどっていうと、僕自身正直言ってたしかに「ベストではない」と思ってはいますが、普段の会話ではそのまま「不確実性」といってしまっていますね。慣れもあるんでしょうが、冗長な訳語もそれはそれで困るからです。もっとうまい訳語を考えたいところです。
【略】
高橋さんの「不確実性」についてのメールへのレスです。
97/5/31[91]:高橋徹さん
ただ、「ストキャスティック」というとこれは、ある種確率論的な蓋然性のことをさしているのだと思いますが、ルーマンのいう蓋然性と確率論的な蓋然性をかさねあわせてしまうことには、ある問題があると思います。
‥‥ ルーマンの理論にのっとって出来事の蓋然性を考えてみると、確率を計算する際に問題になる他の諸可能性というのは、当の選択がなされるとともに顕在性、潜在性の程度の差はあれ、一つの選択地平をなすかたちでみいだされます。
【以下略】
ここで述べられたことに、なんの反論もありません。そのうえで、幾つかコメントを。
1) 私は「ありそうにない」という言葉は、「程度を表す言葉」だと思っていました。
だって「それって、あんまりありそうには思えないなぁ」とか、「そっちのほうがありそうな話だ」とか、言うでしょ? 私は、だから「ありそうにないことをありそうなものにするという」表現はおかしいと思わないし、それに馴染んでるんだけどなぁ。つまり、たとえば
「“ほとんど or あまり”ありそうになかったことが、“より”ありそうなものになってきた」
というような表現が、日本語として おかしいとは思わないです。
2) 上の確率論についての話、基本的に同意します。指摘はそのとおりです。(ストキャスティックと書いたとき、私の中ではすでにルーマン的な蓋然性のイミをも込めた言葉になっていたんですね。たぶん(^_^;))
ところでしかし、この辺りの「様相」概念は、殆どが「確率論的思考」に「汚染」されているわけで、どこにでもこの問題はついてまわります。「蓋然性」がすでに(プロバブル/ポシブル)そうであり、「進化」だって確率論抜きには考えられません(まぁ、それ自体は、「たいした」問題ではありませんが)。
「不確実性」にだってそれはいえますね。 私自身は、「確実-不確実」という方が、どっちかというと「確率論くさい」ニュアンスを感じてしまいます(「確からしさ」という言葉を考えてみて下さい! まずこれは、やはり「こなれない」日本語であり、しかも確率論で certainty の訳語として使われている術語ですよね。)
【略】
高橋徹です。
Unwahrscheinlichkeitについてはたしかに語感の問題であるように感じました。さかいさんの説明を読んでみると、僕が言いたいことと違っているようには思えませんし。
1) 私は「ありそうにない」という言葉は、「程度を表す言葉」だと思っていました。だって「それって、あんまりありそうには思えないなぁ」とか、「そっちのほうがありそうな話だ」とか、言うでしょ?
私は、だから「ありそうにないことをありそうなものにするという」表現はおかしいと思わないし、それに馴染んでるんだけどなぁ。
このあたりは、僕が引用した村中さんの説明を受けてのことですね。村中さんは、実際、以前のメールで引用したように、多少つっこんで説明をされてますが、その説明はあくまで訳語は「不確実性」がいいというための説明だと思います。語感については僕は別な観点に自分の理解をおいてます。
僕自身は、unwahrscheinlich の語感についてはごくシンプルに、ルーマンのいう進化上の獲得物が、ほかでもないそのようなものとなってあることへの「驚き」の感覚を喚起しているのだ、と理解しています。だからかえって訳語も「ウンヴァールシャインリッヒ」じゃだめなのか、などと思ったりもしていますが、それこそ決して wahrscheinlich にならない、unwahrscheinlich な訳語かもしれません(その前に、そもそも「訳語」じゃないか)(笑)。
2) 上の確率論についての話、基本的に同意します。指摘はそのとおりです。【略】 ところで、しかし、その場合、この辺りの「様相」概念は、殆ど全てが「確率論的思考」に「汚染」されているわけで、どこにでもこの問題はついてまわります。「蓋然性」という言葉がすでに(プロバブル/ポシブル)そうであり、「進化」だって確率論抜きには考えられません。
こうしてみますと、確率論的な比喩の浸透というのは、たしかにかなりありますね。
ただ、いずれにしても僕がベストだと思うのは、ルーマンのいう「進化」ということと結びつけてその成果物の Unwahrscheinlichkeit というニュアンスを出せる訳語なんですね。
それを実現する「これだ」という言葉があるかというと、ん~?、というところです。
【略】
酒井です。
At [Luhmann10], 高橋徹さん wrote:
Unwahrscheinlichkeitについてはたしかに語感の問題であるように感じました。さかいさんの説明を読んでみると、僕が言いたいことと違っているようには思えませんし。
ですね。
僕自身は、unwahrscheinlich の語感についてはごくシンプルに、ルーマンのいう進化上の獲得物が、ほかでもないそのようなものとなってあることへの「驚き」の感覚を喚起しているのだ、と理解しています。
ちなみに、私、この言葉を使うたびに、「ありがたい」という感謝の意を表す言葉が、「有り難い=存在することが難しい=ありそうにない」というイミだったことをいちいち思い出すのです。
「有り難い」ことがありがたいのも、その「ありそうもなさ」への驚きであり、そこから生じる感謝の気持ち、なわけですね。
【略】