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前回、
最初の6論文においてキーワードとなるのは、と書きましたが、このあたりから吟味していきましょう。
オートポイエーシス(自己創出、自己産出)
自己言及(selfreference:自己準拠とも訳す)
社会システム(コミュニケイション・システムとしての)
心的システム(意識)
セカンド・オーダー・サイバネティクス(観察の観察)
パラドクス
意味
ですが、大きく分けて
・オートポイエーシスと観察
・意味をもちいる二つのオートポイエーシスの区別:社会システムと心的システム
・自己言及とパラドクス
という3つの論点に絞って話を進めたいと思います。
一言にシステム論といってもそれは一枚岩ではない。
まず、"system"の定義からして様々であり、それについて述べるだけでも様々な可能性が考えられる。例えば、
の4つに絞ったとしても、恐らくそれぞれに関してフォーラムが開けるほどの内容が充実している。(例えば、フィヒテ、ヘーゲルをとってみても、ポリロゴスにて併走するフィヒテ・フォーラムやヘーゲル・フォーラムとの関わりで興味深い議論になるかもしれない。)
また、「ルーマンのシステム論」にしても、時期によって理論構成、解釈が様々であり、おおざっぱに分けると、
1:パーソンズの影響下での「機能-構造主義」期(~70年代はじめ)の4つに分けられる(場合によっては3と4とは区別しない)。
2:「自己準拠システム論」期
(70年代後半から80年代前半『宗教の機能(邦訳:宗教社会学』など)
3:オートポイエーシス輸入期(『社会システム』、1984)
4:ラディカル構成主義認識論(セカンド・オーダー・サイバネティクス)
(『社会の学問』(1990)以降)
テクスト:『自己言及(性)について』は実はこの4つの時期にまたがった論文が集められていて、著者のアプローチが微妙にそれぞれ異なっているのが分かる(但し、もともとの英語版に収められている「社会学の基礎概念としての意味」(1971)は邦訳では割愛されている)。
本フォーラムでは、3と4以降の、即ち「オートポイエーシス」以降のルーマンを取り上げたい。
前回、
これからオートポイエーシス輸入以降のルーマンのシステム論を理解するためにはパーソンズとルーマンの差異についてこれ以上振り返る必要はないだろう。と書いたのは、パーソンズの「AGIL図式」(参照、クニール+ナセヒ:34-35)のような構造-機能分析やそれをルーマンが「機能-構造分析」へと転回したことを差し当たり知らなくとも「現在のルーマン」は理解できるとの旨を主張したかったのである。
酒井氏:
疑問1)なぜ、パーソンズとルーマンの差異が重要でないのか、理由が判らない。
こうした疑問は完全に私の言葉たらずから生じたと思われるが、むしろ私は、パーソンズとルーマンの差異は決定的に重要であると考えている。ただしそれは上記のように、「構造-機能主義」と「機能-構造主義」の差異ではない。オートポイエーシスの理解にはこの差異は「これ以上振り返る必要はない」と思う。
本間:
なぜなら、ルーマンが受け継いでいるのは厳密にはシステムと環境の《区別》または《差異》でしかないからである。
酒井氏:
ここには、[2]「システムと環境の区別・差異」という表記があり、その前の段落には、[1]「システムと環境との統一体としての世界」という表記がみられます。‥‥[1] と [2] には関係があるのでしょうか・ないのでしょうか?
無理に読もうとすれば──たとえば──、パーソンズから受け継いだものが [2]「差異・区別」であり、ルーマンはそれに [1]「統一体」という視点をつけ加え=読み変えることによって、問題を変形した、とも読めますが、そうなのでしょうか?
これについては私は"yes"かつ"no"だと、考える。もっとも、酒井氏のご推察通り、パーソンズがシステムと環境の「差異」を考え、ルーマンがそれに世界という「統一体」を「つけ加え=読み換え」たのではない。そうではなく、ルーマンは、パーソンズのいう「システムと環境の差異」の前提になっている「世界」、即ちAシステムと環境の差異(境界)が維持されるべき場としての世界に着目した。この「世界」は最近では「システムと環境の差異としての統一」とも呼ばれ、差異でもあり、統一であるという「パラドクス」そのものを指し、「パラドクスとしての世界」というのがルーマンの認識論のキーワードとものなっている。(ちなみに『社会システム』では、この「システムと環境の差異としての統一」は「同一性と差異の差異」とも言われ、ヘーゲルの「同一性と差異の同一性」たる「精神」と対比されて語られている。)
したがって、前便の:
クニール+ナセヒによって明確に述べられているように(p.45~46)、パーソンズにとっての最大の準拠問題はシステムの「存続」の問題、即ち、ある特定の「構造(例えば社会的行為を制御する価値や規範など)を有するシステムが、そのシステムをとりまく環境とのインプット、アウトプットを通じていかに自己を維持するか、が問題であった。しかしルーマンは、それ自体はシステムでも環境でもない、システムと環境の統一体(Einheit)としての「世界」という概念をシステム論に持ち込むことによって、機能分析にとっての準拠問題を「システムの存続」から、「世界」とその「複合性・複雑性」へと置き換えたという記述は厳密には二重の論点を含んでいる。つまり、
(補足:後者において、「愛」という「相互行為システム」が成立するためには、明日の天気の問題や、神の存在の問題は差し当たってシステムにとっての環境へと区分され、愛の有無に関わる言動だけがシステムの行為として帰属させられる。このシステム/環境の区分は常にシステム自身によって行われ、かつこの区分は常に変動する。例えば、明日の天気次第でデートが中止になるか否かは、「仲のよい」二人にとっては問題にならないが、破綻の近づいた二人にとって重大な問題となるかもしれないし、またその逆もあり得る、など。)
ルーマンは、環境とのインプット・アウトプットを通じてのシステムと環境との境界の維持によってシステムを存続させるという、旧来の考え方を否定した。しかし実は、ルーマンはパーソンズの抱えた「システムの存続」の問題を「等価機能主義」によって完全に乗り越えたわけではなかった。なぜなら、(維持されるべき)システムの「自己性」なり「同一性」は、システムと環境の「差異」によって定義され、維持されるというパラドクスをはらんでいるからである。ルーマンは長らくこの問題を「自己準拠:selfreference」という言葉を用いて解決しようと試みた。しかし彼は今、「オートポイエーシス」概念とセカンド・オーダー・サイバネティクスの導入によって「自己」の意味を従来とは全く別 の地平において思考することを提唱している。
私がこのフォーラムにて問うてみたいのは、この最後のルーマンの試みである。
マトゥラーナはオートポイエーシスを論じるために、システムについての新しい存在論と観察についての新しい認識論とを必要とし、ルーマンはこの課題に対して、「世界」とパラドクスという概念に依拠することによって応えようとしている。この二つがもはや従来の認識論や存在論と完全に訣別 しているのであれば、もはやそういう名で呼ばれる必要はなかろう。とまれルーマンが時折思わせぶりにハイデガーやフッサールに言及するように、この問題はルーマン以前の今世紀の哲学の内部でしばしば取り上げられたものであることに私は着目する。私が最初の話題に「オートポイエーシスと観察」を選んだのも、この二つの問題系、即ち「自己(再)生産」による「存在」と「区別 」による「認識」の問題系がいかに「寄り合わせられるか」が議論の焦点になるからだと考えられるからである。
予想通り長くなったので、ここで一旦切ります。近日中にはリプライの続編(酒井氏の第二の疑問について)を書きます。 でもやっぱり、いきなり不特定多数に対して書くよりも、質問に応えて書く方が圧倒的に楽ですよね!(「複合性の縮減」→酒井氏に感謝。) 差し当たり、どフ問題を顕在的に問い、どの問題を潜在化して「保存」して置くのか それはこのメーリングリストというシステムがなんとか進行することによって決まることでしょう。