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ポリロゴスMLのみなさん、はじめまして。こんにちは。
大学在学中に、おもに学内LANを使用し、哲学科周辺の人たちを中心メンバーにした小さなメーリングリスト“Opera-buffer (おぺら・ばっふぁ)”を(共同)主宰していました。そこでの(まったく上手く行かなかった)経験から、ポリロゴス各フォーラムのモデレータの方々の労苦はとてもよく推察できます。人文諸科学関係の話題は、ほかのML(たとえば情報交換的なML)で扱われる話題とは違って非常にレスがつけにくく、たいがいのばあい主宰者の方が「ちゃんと読まれているのだろうか」と訝りながらなかば孤独感ととに筆を進めていくことになりがちです。
そんなことを考えていたおり、このたびニクラス・ルーマンを扱うフォーラムが開始されると聞きました。これを期に私もなにがしかの貢献ができればと思い、まずは、遅ればせながらの自己紹介メールを投函するところから始めさせていただくことにします。
今回開始されるフォーラムで扱われる社会学者、ニクラス・ルーマンは、私にとっては「思い出深い」理論家です。学部生のときにこの理論に出会って以降、それまで気の赴くままに読みかじっていただけだったヘーゲルやカント、フッサールやハイデガー、あるいはまたヴェーバーやデュルケーム、ジンメル、そしてマルクスといった古典的な著述家達の著作を、ルーマンの解析格子を使いながら(特に「超越論的」な側面への関心から)あらためて読み直していったことがありました。私が大学へ入学したのがニューアカ衰退後だったということもあるでしょうが、デリダ、フーコー、ドゥルーズといった「現代思想」家達への飽きたらない思いが、ルーマンを手にとらせた理由だったように思います。
私はそこで、他のどの「思想家」達も決してあたえてはくれなかった切れ味と使い勝手をもつ道具[=理論装置]をルーマンの理論に発見したのですが、しかし現状では(世評をみると)、この理論は、評価・吟味・批判云々以前の「まる無視」状態に置かれており、偶々取扱われても
単なる無理解にともなわれた否定的なやり方、あるいは珍奇な動物並の扱われ方でしかない、という異様な位置にいるようです。
そうした事態が何に預かっているのか、私にはよくわかりません。それでも、想像するに、たぶん次のようなことによるのでしょう:
・・・ほとんど“パッチワーク(あるいはサンプリング&エディット)”とすらいいたくなるほど「オリジナリティ」に乏しい記述内容。敢えて奇をてらっているのかとすら訝しく思われる・よく吟味されていない印象をあたえる他分野からの術語の流用。それゆえに(?)その理論全体からうけとれる拭いがたい「浅薄」な印象。またしばしば居直りとも受取られる「保守的」な立場。 ・・・そして最悪の特徴・・・、ほとんど読み手に「感情移入」させる余地のない、その「冷たい」「非人間的」な(と評される)主張内容。──などなど。
こうした印象は一概に間違ったものだとは言えない、のかもしれません。が、そこにはまた、よく省察してみてよいかもしれない事柄が含まれているようにも、私には思われます。: つまり、徹底して「《人間》の立場に立たない」という態度で社会を記述する理論が、「《人間》の立場に立たない」というまさにその理由から、読者を獲得できない・あるいは読者から拒絶される、という現象。
このことに関して、ここでみなさんの興味を引くための放言を許していただけるなら──フォーラムに参加するなかで少しづつ自分なりに考え、展開していければと思いますが──私としては次のように「喧伝」しておきたいと思います: ルーマンはおそらく“最も正統的かつ不埒な”ニーチェの後継者である、と(<準拠問題> は「正統的」だが <解決策> はニーチェがたぶん著しく不快に感じるであろうような、“後継者”)。
さて。モデレータの本間直樹さん曰く:
難解なシステム論者として知られるルーマンですが、彼の議論は少し「システマティック」ではありませんし、「システム」という言葉自体「他でもあり得る」柔軟な概念です。ルーマンの解説というよりは、《ルーマンととに考える》フォーラムにしたいと思います。「システム」アレルギーにめげず、多くの方々がご参加されることを期待します。ということで、モデレータの方とともに、参加者が増えることを期待したいと思います。
以上、フォーラムの宣伝のような自己紹介でした。
以後よろしくおねがいします。