高橋です。
三中さんとの議論の関連で酒井さんに召喚されていたことにいまごろ気づきました(^^;。
あわてて三中さん、酒井さん、角田さんのメールをよみました。ちょっと躓くことが多く、これまでの議論に直結するようなかたちでは貢献できないかと思います。
まず、スペンサー、パーソンズ、ベラー、ルーマンの比較ですが、これについては友枝敏雄さんがまとまった論文をだいぶまえに書いておられるので、そちらをご紹介したいと思います。
安田他編『基礎社会学 第V巻:社会変動』、東洋経済新報社
第6章「社会進化論」1981年
さて、私が躓いているのは、いまひとつレファレンスがはっきりしないまま異分野の、また異なる理論家の概念が比較されている点にあります(少なくとも私にはそのへんの整理ができていないので、議論についていくのが大変です)。
生物学のコンテクストやあるいは他の理論家において例えば「システム」という「言葉」が、どのようなかたちで学問的に記述されるレファレンスを得て「概念」化されているか、については詳しくわかりませんが、ルーマンの場合、その具体的な現象として「コミュニケーション」というものがレファレンスになっています。
つまり、ルーマン理論が観察・記述の対象としている現象は「コミュニケーション」だということです。
したがって、それだけいうのであれば、「システム」というという言葉を持ち出すことはまったく必要ありません。システム理論である必然性もありません。
さて、それではいったいなぜ、「システム」だとか、「オートポイエーシス」といった下手をすればせっかくの学際的コミュニケーションを阻害するような言葉をもちだすのでしょうか。
もちろんそれは、少なくとも対象の学問的記述がそれによってよりアーティキュレイトされるからでなくてはなりません。
具体的にはまず、情報、伝達、理解という3つのモメントからなるものとして、1ユニットとしての「コミュニケーション」という現象を定式化するところにあります。そして、このような「コミュニケーション」のシークエンスがルーマンにおける具体的な現象としての社会システムです。
例えば、「あることがらが何らかの仕方で伝えられ、それを受け手がなんらかの仕方で理解した」、というひとつの「コミュニケーション」について考えてみます。このとき、何が伝えられるのか、またどのように伝えられるのか、さらにどのように理解されるかという3つのモメントのどれが違っても、その「コミュニケーション」は違ったものになります。
また、基本ユニットとしての「コミュニケーション」が、例えばどのような順序でおこなわれるかによっても、プロセスとしてのコミュニケーションのあり方は変わってきます。
コミュニケーションというものが、こうした特徴を有した現象であることは、「システム」という言葉を記述用のタームとして採用することをさほど不自然ではないものにしていると思います。「オートポイエーシス」にしても、同じことです。いま例に挙げたようなことをもう少しつっこんで定式化するのに役立つ限りで意味があるわけです。
「オートポイエーシス・システム」の定式化として有名な「みずからを構成する要素をみずからで産出するネットワーク」という考え方が、先程の例から、コミュニケーション・プロセスの記述にも適用可能だということはなんとなくわかっていただけるのではないかと思います。
つまり、コミュニケーション・プロセスにおける様々な、例えば発言は、そのプロセスの内部においてはじめて、現にあるような意味を持つものとなるということを理論的タームで記述することができるわけです。
さらに、学問的意義という点でいいますと、「オートポイエーシス・システム」としての社会システム(コミュニケーション・システム)の要素が、そのようにそのプロセス内在的にのみ特定の意味を持つということは、それを別なプロセスに取り出したときには、別のものになってしまう危険性があることを示唆しています。これは、社会学者が、コミュニケーションを対象として記述する上で、みずからの記述があくまで2次的なものにすぎないことを理論的にいやおうなく示すものだといえます。
以上紹介してきたことは、コミュニケーションという現象を対象としたひとつの社会学的な問題関心のあり方を示したにすぎないかもしれませんが、それだけに、まして他分野の方にとっては興味を引くものにならないかもしれません。
しかしそのこと自体はたいへんあたりまえなことであって、やはり学際的な交流が有意義になるのはそうした当たり前の差異と無関心をこえた対話に、それぞれが意義を見いだすときだと思います。
このメールで、ルーマンが「社会システム」というときのレファレンスについて長々と紹介しましたのは、そうした有意義な交流がもし可能になるならば、それぞれのレファレンスを明らかにすること、つまりとりあえずここでは、ルーマンの理論において「システム」がいかなる特徴を持った現象を記述するために採用されているかを、まずまっさきに明らかにしておかなければならないことだと思ったからです。
「システム」という言葉ひとつとっても、それぞれの分野で違ったニュアンスがあり、また別なイメージをもたれているということ自体、きわめてコミュニケーション・システムらしい事態であるように思えました。
・・それにしても、ほんとうにコミュニケーションというものはunwahrscheinlichなものですね(笑)。
酒井です。
At 11:42 PM +0900 00.4.13,
高橋徹さん wrote:
三中さんとの議論の関連で酒井さんに召喚されていたことにいまごろ気づきました(^^;。
おまちしておりました(^_^)。
とはいうものの、
あわてて三中さん、酒井さん、角田さんのメールをよみました。ちょっと躓くことが多く、これまでの議論に直結するようなかたちでは貢献できないかと思います。
「いいかげんなことばっか書きやがってこのやろう、レスなんか書けるか!」という突っ込みが、少し透かし聞こえるような気がするのですが、そうだったらごめんなさい(^_^;。 けけけけ
でも、そのおかげで、サービスたっぷりの徹さんのメールが読めたので、それをもってよしとしましょう(誰が?)。
ま、それはそれとして。
あんまり慌てず、おおらかにやっていったほうがいいような気もしますね。この議論。
いまのところ、一番おおらかにやってないのは明らかに酒井であるが(^_^)。以後、おおらかにするよう気をつけます。
「学際的」な議論って、たいがい「普通に話し合えば理解し合えるはず」という前提にのっているかぎりで、すでに失敗を運命づけられているのよね。
ちなみに、それが自然科学者と社会科学者との対話だった場合、「失敗」はたいがい後者のせいになるのだ。「あいつら何ゆってっかぜんぜんわかんねーよ。 あんなんでよく“科学”とかいえるよな~」云々。
いやはや、くわばらくわばら。
──すいません、一般論です。
まず、社会学者と生物学者との間で簡単に相互理解に至り付くことができるという考えは、はじめに(お互い)捨てておきたいものです(^_^)。はい。
徹さんもいうとおり、「リファレンスを明らかにしながら」ゆっくり進んでいかないと、話をするのは難しいに違いありません。
同じ日本語しゃべってるんだから、話せば互いに理解できそうなもんだ、というのが多くの場合幻想に終わる、という体験を、私自身、理学部に在籍した7年間の間に、嫌と言うほど味わってきました(;_;)。
まぁそれは単に、ワタシの議論に説得力がないだけ、という可能性も大いにあったわけですけどもねぇ。
幸いにして(また羨ましくも)、書かれたものから判断する限り、三中さんは、旺盛な知識欲とタフネス、それと同時に繊細さを持ち合わせた方のようにおみうけしますので、
それに加えて、先日直にお会いした「印象」では、すこぶる“ワイルド”な方でもあったのですが(^_^)
そのタフネスを頼って、話を進めていくことはできそうな気がします。
このメールでワタシがいいたいのはそれだけなんですが(^_^)。ついでにちょっと一言。
高橋徹さん[981]:
生物学のコンテクストやあるいは他の理論家において例えば「システム」という「言葉」が、どのようなかたちで学問的に記述されるレファレンスを得て「概念」化されているか。
【ドカスカと略】
「システム」という言葉ひとつとっても、それぞれの分野で違ったニュアンスがあり、また別なイメージをもたれている
略したところで書いていただいたことについては、もちろん三中さんの判断に直接ゆだねればいいわけですが、それはそれとして、
「生物学のコンテクストにおいて“システム”という「言葉」が、どのようなレファレンスをもっているのか」
ということに関して言うと:
すでに三中さんは、メールの中で──生物学においては「システムがどんなリファレンスをもつか」云々どころか──その言葉を使うこと自体に意味(意義)がない、と考えていることを「宣言」してるわけです。
すなわち、何らかの実在的要素の >>集合<< に、それ自体として「名前」をつけるのは、──認知的な便宜ならいざしらず──、「反則」だ。なぜなら、要素の集合自体は──認知的存在ではありえても──実在的存在ではないからだ、と。
おぉ! オッカムの剃刀。
〈認識/存在〉という区別自体、古典的な形而上学が用い続けてきた区別ではないか、と突っ込みたくなるのを、ここでは頑張って我慢しましょう。
それで三中さんはここで、社会「システム」だかいうものについて云々するようなヤツら(=ルーマンフォーラムにいるような人たち)に対して、
あんたらシステム、システムっていうけどさぁ、
それっていったい「何」なのよ。
そもそもそんなもの「存在」しないでしょうに。
そんなこと言うことになんの意義があんのよ。(ないでしょ?)
と、ふっかけに来ているわけです。
この場合、ふっかけられたほうとしては、ついつい
えぇと、そうですね、システムというのはですね・・・・
と、若干どもりながらも、その「定義」について開陳したりしてしまう、というふうに、議論は進んでしまう。。。
これ、ダメなんですね。
こうなったら、いっくらコストかけても、たぶん、互いの努力はすべて水泡に帰す可能性高いですね。
いや、あくまでワタシ個人の「経験則」にもとづいてるだけですけどもね。
そこで、
高橋さんのいう、「何かの「言葉」を使うとき、そのリファレンスを明確にしようという互いの努力が必要だ」ことを我田引水しつつ*言うと、はっきりさせねばならないのは、実は、上のタームでいうと
システム(仮に生物学でこれに相当するものがあるとして)
の方だけではなく、三中さんが、生物学における
実在(的要素)
はいったい何だと考えているのかについても教えを請うのでないと
というステップを議論の間に挟むのでないと
ハナシはエラい混乱を招くことになるのではないか、と思います。(というか、端的に言うと、実りのないまま議論は収束し、しかも喧嘩には ほぼかならず負けます)
* すいませんね。徹さんとしてはたぶん、まず酒井の議論において、「システム」のリファレンスがはっきりしていないではないか、というところを突っ込みたかったのだろうと思うのですが、こんな形で横取り的に流用しちゃって(^_^;。
ということで(^_^)、
三中さんに質問を:
そもそも、
1)生物学における「実在」あるいは、進化学における「実体」*とは、
いったいなんなのでしょうか?(遺伝子なのか?)
* この質問だと、あまりといえばあまりなんで、こう言い換えましょう:「淘汰の“働く”要素──すなわち生物学者が因果図式を“適用”する単位──は何なのか?」 そしてまた「その要素=単位を、生物学者はどのようにして確定するのか?」**
** この“確定”の仕方がわかれば、進化論は「他の領域」に流用できることになるわけですが。
そして、
2)そうした「実在」や「実体」(説明項)では“なく”、
しかし生物学に密接に関わる対象[=つまり、「説明項」によって説明されるもの(被説明項)]
とは、どのようなものがあるのでしょうか。(たとえば「種」がそうなのか?)
さらにまた、
3)被説明項の存在論的な「身分」とは、いかなるものなのでしょうか?
(上に書いたことが間違っていないなら、「(観察者にとっての“単なる”)認知対象」なのか?)
こうしたことが明らかになると、それと対応させて、社会学の側の議論を紹介することができるのではないか、と私としては期待したいわけです。。
あぁ。。。なんか結局慌ててかいてますね、ワタシ(^_^)。
いや、笑ってる場合じゃないか(;_;)
誤解はないと思いますが、酒井は徹さんの(書いていただいたことはもちろん)アプローチを否定しようとしているわけではありません。議論としては、徹さんのとろうとしている道のほうが、ストレイトフォワードだと思います。
ま、これ単に、酒井と徹さんの「性向disposition」の違いかもしれませんね。ということで、あんまり気にせず、何か続きを書いていただけたらと思います。
ぉぃぉぃ。ここまで書といていまさらそんなこと言うか!>自分
高橋です。
ま、それはそれとして。
あんまり慌てず、おおらかにやっていったほうがいいような気もしますね。この議論。
そうですね。こういう議論をとおして、それぞれのシステム論が何を記述しようとしていて、じゃあそのためには、どういう理論が適切なのかということを確かめながらやってゆくと、結構有益なコミュニケーションになるんじゃないかと思っています。
だから、河本さんが、マトゥラーナ&ヴァレラの定式化には欠点が多いと批判されているとき、やっぱり「これじゃあ、ちゃんと神経系とか細胞とかを記述できてないよ~」というつっこみがあるんだと思います。
もちろん、私なんかはまわりを実証研究専門の社会学者や自然科学者に囲まれて生活していることもあって経験的な記述に引きつけて読む方で課題意識を持ってます--なぜかというとそういう方たちともコミュニケーションしたいと思っているから(^^)--が、他方で、ルーマン理論は、なんといいますか、現実に対する批判的リフレクティヴィティを強化する武器として読んでいくっていう筋もあるわけです。
で、ルーマンの仕事を全体として「社会学的啓蒙」というプロジェクトとみるならば、彼自身の中ではその両面というのはひとつになっていて、また彼の理論自体がそれをひとつと考えなきゃいけないような構成になっているのだと思ってます。
ただ、ことによって、みずからの言説の批判性というものに頓着していない(?)自然科学者とコミュニケーションするときには、やや経験的なものに引きつけた紹介の方がしょっぱなの躓きはすくないと思います。したがって、そういう場合には、批判性という問題は「奥座敷」に位置していることになります。
あまり笑えないですが、私が最近出た社会学者、自然科学者混合の研究会で社会階層的研究について紹介されたある人がいった階層間「格差」という言葉に、ある自然科学系の方が反応されて、「そんな価値判断の入った言い方をせずに、単純に『差異』といえばいいではないか」とつっこみが入り、これをめぐって押し問答がしばらく続いたりしました。社会学者にとっては、「差異」を「格差」と表現するところに、単なる経験的な「差異」を明らかにするばかりでなく、社会的不公正や不平等を発見するという研究上の価値をみいだすことがあるのですが、そういうハビトゥス(?)がご理解いただけないことがあったりします(^^;。
他方、哲学者といいますか、やはり批判性というものにみずからの言説の価値を担保している立場の方とコミュニケーションするときは、ルーマン理論の批判的ポテンシャルというものを汲み上げてゆくような対話のスタイルになるように思えますし、経験的な事実を挙げてゆくような言い方は相手をいらいらさせてしまうかもしれません。
どうも、これはすごくわかりきったことかもしれないし、単純化しすぎている部分があるかもしれませんが、とりあえずこういう交通整理みたいな確認もたまにはいいかなあなどと思ったりいたしました。
ちなみに、ルーマンは、ビーレフェルト大学の退官記念講演で、経験的社会学と批判的社会学の関係を取り上げていますね(『ルーマン、学問と自身を語る』新泉社所収)。
この両者が、コミュニケーション可能かということも、ある意味で学際的コミュニケーションの問題以上に悩ましいですね(^^;
経験性と批判性とかりにいいますと、ルーマン理論がポテンシャルとしてもつこの双方のスペクトルをともに展開したようなルーマン研究論集みたいなのが作れればいいな、と個人的には思っています。非力ゆえに私には編集能力はないですが(^^;
1)そもそも、
生物学における「実在」あるいは、進化学における「実体」とは、
いったいなんなのでしょうか?(遺伝子なのか?)
【略】
もちろん、こうした問いは私も投げかけたいと思ったので、酒井さんは「流用」といわれてましたが、ぜんぜんそうじゃないですよ(^^)
私の場合、「人の名前を聞く前にまず自分から名を名乗れ」的にルーマンの「社会システム=コミュニケーション」という話を先にしたわけです。
というわけで、
誤解はないと思いますが、酒井は徹さんの(書いていただいたことはもちろん)アプローチを否定しようとしているわけではありません。
この点、まったく誤解はありませんよ(^^)。