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公開:20220817 更新:20220817
ライプニッツ研究者、稲岡大志さんが企画した『フィルカル』4-1号の特集「ポピュラー哲学」に寄稿した小文。この号には他に下記の特集論考が掲載されており、他執筆者たちと特集全体の構成を相談しながら書いたものです。
※以下の方から草稿へのコメントをいただき、改稿の参考とさせていただきました。この場を借りて御礼申し上げます: 赤江達也さん、植村玄輝さん、河野有理さん、工藤郁子さん、高田敦史さん、山田竹志さん
本書は、高校生児島アリサが、「〔現代に転生した〕ニーチェやキルケゴールらに出会い、人生を考え、成長していく姿」(原田2016a)を描いた哲学小説である。物語は主として、アリサがさまざまな哲学者たちから教えを受ける場面と、その教えを自ら(の問題)に引きつけながら自分を見つめ直す場面とから織りなされている。小説は淡い失恋から始まるが、この話題はその後ほとんど登場しない1。そして友人関係。アリサは、女同士の友情は励ましてくれているときでも「表面的な同情でしかない」と感じられて「少し苦手」(8頁)なのだが、しかし「本音で付き合えるような友達がいたらいいな」(9頁)とも願っている。友人関係の話題はその後何度か登場するものの(たとえば327頁、357頁)、数は多くない。結局、アリサにとっては家族(特に母親)との関係こそが最大の問題であり、自己省察も主にそれを軸にして展開することになる。
「母は本心では私に関心がない」(78頁)。子どもの頃は両親にかまって欲しくて気を引こうとしたこともあったが、小学校高学年になる頃にはそれも諦めてしまっていた(79頁)。母と祖母、父、兄、アリサが四つの住居に別れて暮らしている「自分の家庭は一般的な温かい家庭とは違う」(78頁)。―アリサの家族関係(の問題)とはそのようなものである。
本当は寂しいのかどうかと聞かれれば、本音では寂しいのかもしれないが、自分の気持ちを直視することが、どうしてだか出来なかった。 直視するのが怖いのか、それともしたところで何もならないことをわかっているからか、考えはじめても、途中で頭の中が真っ白になってしまい、それ以上、深掘り出来ないのだ。(79頁、傍点引用者)
だからエピローグも家族の問題で閉じられる。哲学者たちから「誰しもが死を目の前にして代わりのきかない存在だ。そんな孤独を背負った存在だからこそ、歩み寄り、お互いの孤独を癒しあうことが大切なのだ」(362頁)といった教説を学び、「私たちが抱えていた問題は、お互いを知ろうとする対話を避けていたことだ。私は家族というものに期待をしていなかった」(361頁)という気づきを得て自らの態度を変更したアリサは、最終章で「久しぶりに実家に帰り、自分の気持ちを洗いざらい母に話」す(361 頁)。それが母親の変化を引き起こし、家族関係の修復を予感させたところで小説は終結するのである。
ところで、〈家族が歩み寄る〉理由にするには、〈誰しもが死を目の前にして、代わりのきかない孤独な存在である〉ことは根拠として大きすぎ・強すぎる2。使われている哲学的教説が小説の帰結にぴったりとは合っていないために、この終結のさせ方は小説全体の印象をぼんやりとしたものにしてしまっているように思う。だから、もし家族関係に関するこの態度変更こそが作品の核であるとするならば、評者としては、この作品を哲学小説としては高く評価することができない。
しかし作品をもう少し丁寧に読んでみると、別の可能性もあることがわかる。
その鍵は1節で引用した箇所(79 頁)に含まれている。アリサは、以前には、家族について考えようとしても「頭の中が真っ白になってしま」って考えることができなかった。だがそれゆえに「強烈な寂しさを感じることはそんなに」ない(79 頁)ままでいられもしたのである。それが、ニーチェとの出会いによって変わり始める。
けれども、先日、ニーチェと鴨川に行った時、私は気づいてしまった。母から「たまには実家に顔を見せなさい」と言われても意固地になってあまり帰らなかったのは、「諦め」に心が埋めつくされていたからだということに。(80頁)
現世に転生したニーチェが鴨川で語ったのは永劫回帰(を運命愛において引き受けることのできる超人)の教えだった。この教説の〈自分の境遇の辛さを直視せよ〉といった含意がアリサに変化を引き起こすきっかけになったのかもしれないが、ともあれ、自分が「諦め」に支配されていることに気がつけば、そこに「傷つきたくない」という欲求が併存していることにも気づいてしまう。それは両親(特に母親)からの関心を渇望するからこそ生じる「傷」であり、期待するのをやめて「手に入らないもの」(78頁)だと考えておけば傷つかずに済むという「諦め」である。ここからアリサは、さまざまな哲学者たちの話を聞くたびごとに、それに応じて、この「諦め」と「傷」について省察を繰り返すことができるようになっていく。―他人から批評されて傷つく前に自己抑制してしまう癖。それは自信のなさに由来する自意識過剰で否定的なものではないか(106頁)。家族のあり方を嘆くのは、そもそも世間標準の家族像を鵜呑みにしていたからではないのか(127頁)。自分は「自分をみじめに思いたくないあまりに、自分の心に蓋をして自分は決して寂しくないと思いこんでいるだけ」なのではないか(151頁)。それぞれの役割を担って関係を築いている家族の構成員も、一人一人は死すべき孤独な存在であるのに、自分は両親に対して"一般的な親" という理想像を押しつけていたのではないか(299頁)…。
そしてアリサはある日気づく。
あの日、ハイデガーの話を聞いた日から、私は家族のことを思い出すたびに感じていた、頭の中がまっしろになるような違和感をあまり感じなくなっていた。
私は娘でありながら、児嶋アリサという一人の人間である。そして、それは父も、母も、兄も同じで、父や母や兄でありながら、一人の人間なのである。
そう思うと、いままで放って置かれていると感じていた、被害者意識みたいなものが、少し薄れてきたのだ。〔…〕/いつかは死んでしまう時の中で、自分で自分の運命を、かわいそうがるばかりの人にはなりたくない。そう考えているうちに、急に家族が恋しくなってくる不思議な心地が芽生えだしたのだ。(305–306 頁、傍点引用者)
世の中から与えられた役割や評価軸に依存せず、自分も含め、現に存在する人たちを死すべき者として尊重せよ。―アリサがたどり着いたこの実存主義的洞察こそ、エピローグで使われたものであった(この洞察には次節でもう一度立ち返ろう)。しかしここで注目したいのは、この洞察の内容よりも、以前は考えることができなかった事柄を集中して継続的に考えることができるようになったことの方である。家族への態度変更に先立って生じたこの「覚醒」(328 頁)は、本書のもう一つの核だろう。では、それはいったい如何にして生じたのだろうか。
小説は、教説の内容こそがアリサの変化を引き起こしたと提示しているようではある。自分が家族について考えることができていないことをアリサが最初に強く自覚したのは「運命愛」の教説を受けてのことだし、それが癒えてきたことに気づくのは「先駆的決意」の教説を受けてのことだった3。しかしこうした抽象的な教説は、受容者にとってさしあたりまずは「そのように考えてみよ」という命令としてしか機能しないから、集中した継続的な思考を支えることができるものではない4―別言すると、継続的な思考は訓練・習熟を要するスキルの側面を持つから、それは教説の内容だけによって可能になるものではない―ように、評者には思われる。そうした観点から考えてみると、転生した哲学者たちによる教育的配慮は、別の答えの候補であるかもしれない。つまり、本書に登場する哲学者たちはそれぞれアリサに対して、自分を否定されない安全な環境を整えたうえで、自分にとって重要な考えるべき事柄に自分自身で気づかせ、考えることが辛いその内容について、たとえ不十分であったり部分的であったりするのであれ考え・特定の他人に対して表明するよう励ます、といった配慮5を行っているように見えるのである。なるほどこれは哲学だけが可能な配慮ではない6が、しかし哲学にも可能な配慮ではあろう。
以上、手短にこの小説を概観してきた。著者によるキャラ化7を受けて現代に転生した哲学者たち。家族からの愛情の薄さを感じながらもグレもせず学校生活・バイト生活を送る生真面目な高校生アリサ。哲学者たちに教えを受けて自分を見つめなおし家族との和解に向けて動き出すというストーリー。そこで伝えられる教説としての実存主義。―多少なりとも実存哲学に親しんだことがある者なら、しかし、この配置には強烈な違和感を覚えるのではないだろうか。
とあるインタビュー(原田2016b)で著者はこう述べている(傍点引用者):
入門書にするか、小説にするか迷っていました。〔…〕『もしドラ』のように、読みやすい設定で、難解な哲学を紹介する教養小説のスタイルだったら挑戦できるのではないかと思い、「哲学×小説」の軸にすると決めたんです。〔…〕
〔哲学者の「人となり」が描いてあると〕その人に親近感がわき、発言も理解しやすくなる。この感覚を今回の小説でも表現すれば、読者に広く共感を得られるのではないかと思い、「哲学者をキャラクター化して、デフォルメする」という方法を取りました。〔…〕
もともと漫画やアニメが好きなので〔…〕自分の中にキャラクターのフォーマットがあったためか、具体的に落とし込んでいく作業は比較的スムーズでした。
作者は、哲学者たちのキャラ化によって哲学教説を読者に親しみやすくし、またアリサにそれを咀嚼しなおさせることによって理解しやすく伝えることには確かに成功している。しかしそれは、2節で取り出した実存主義的洞察を犠牲にして成り立つものではないだろうか。
キャラ化するということは、登場人物たちそれぞれに特定の属性を備えた一貫した役割を割り振り、その人が何を言いそうか・どうふるまいそうなのかを限定し・予想できるようにしている、ということだろう。そしてまた、社会関係を〈キャラ群の集合+キャラ間の関係〉として把握できるようにしてあるということでもあるだろう。実際、本書で哲学者たちは〈教える者〉という役割のもとでしかふるまわない8。彼らがアリサと対話―それに参加すると自分の意見や見方、態度が変わってしまうかもしれないやりとり9―をすることはない。著者に与えられた役割属性をまとって登場し・それを少しも変容させることなく大人しく去っていく彼らは、京都の街の風景描写と同様、書割の役割しか担っていない。実在した人物をキャラ化してしまった以上、このような帰結はほとんど避けがたかっただろう。しかしこうしたキャラ化の手段化は、実存主義における役割というものへの反省10を飛び越したところでしか成り立ちえないものだろう。だから本書からは、〈実存主義を出来上がった思想として扱い、それを知識として摂取したり普及させようとしたりする著者〉という構図11が垣間見えてしまうのである。
実存主義哲学を主題とする小説が実存主義的ではないということ。これがどのくらい重大な問題であるのか評者にはわからない(少なくとも評者にとっては重大ではない)。しかしもしかすると著者にとっては重大なものでありうるのではないか。評者が本書を読んで著者に尋ねてみたいと思ったのはこの点であった12。