酒井泰斗プロデュース「いまこそ事象そのものへ!──現象学からはじめる書棚散策」紀伊國屋書店新宿本店ブックフェア(2017年8月14日~9月30日)

 このページは、現象学の新しい教科書『ワードマップ 現代現象学』の刊行を記念して開催されたブックフェア いまこそ事象そのものへ! をご紹介するために、WEBサイト socio-logic.jp の中に開設するものです。

 本ブックフェアは、2017年8月、新曜社の協力を得て、紀伊國屋書店新宿本店3階にて開催されました。フェア開催中、店舗では 選書者たちによる解説を掲載した36頁のパンフレットを配布しましたが、このWEBページでも その内容を公開しています。

 なお、他の年にも、本フェアと同様の趣旨のブックフェアを開催しています。そちらの紹介ページもご覧いただければ幸いです:

更新情報
2018.08.15
書誌情報二つを追加しました。 フェア開催時には未完だった10が刊行され、69の邦訳がでました。
2018.07.31
3-1 認知143 としてリストしていた
  • ステファン・コイファー&アントニー・チェメロ
    『現象学入門──新しい心の科学と哲学のために』勁草書房
の邦訳が、田中彰吾さん・宮原克典さんの訳で 2018年7月に刊行されました。邦訳情報を掲載しておきました。
訳者解説では、〈現象学を学ぶためのリソース〉として本リストをご紹介いただきました。 「リンク」欄にも記載させていただきました。田中さん、宮原さん、どうもありがとうございました。
なお「けいそうビブリオフィル」では本書の序文が公開されています。あわせてご覧ください。
2018.03.10
ジュンク堂池袋本店で開催中の「新曜社『ワードマップ』フェア」にて、現象学ブックフェアのブックレットを置いていただいているようです。入手しそびれた方、ぜひご来店を。
2018.02.08
月刊「みすず」、2018年1、2月合併号「読者アンケート特集」にて、飯田隆さんに『ワードマップ 現代現象学』を取り上げていただきました(新曜社blog)。飯田さん、ありがとうございました。
「経験から始める哲学入門」という副題をもつ、この入門書を読んで、深く感じたのは、哲学における基本的教養というものが、いつのまにか大きく変わったということである。・・・・・・
現象学入門書にはお決まりのジャーゴンを一切廃して、音楽作品の存在論や人生の意味までの多様な主題を論じている本書が想定している哲学的教養は、過去の哲学についての知識ではなく、日常の経験に根差すことと、議論赴くところに従うことである。・・・・・・
2017.12.01
村田憲郎さん選書執筆による「1-1a 現代現象学の源流1」の解説文を掲載しました。
これですべての項目が掲載されました。
2017.11.28
9月に引き続き、10月の東大駒場書籍部人文書売り上げランキングにも、『ワードマップ現代現象学』がランクインしたようです。
2017.11.21
小手川正二郎さん選書執筆による「1-1b 現代現象学の源流2」の解説文を掲載しました。
2017.11.09
佐藤 駿さん選書執筆による「2-4 世界」の解説文を掲載しました。
2017.10.20
武内 大さん・吉川 孝さん選書執筆による「2-6 神」の解説文を掲載しました。
2017.10.15
9/30のフェア終了後も店頭でのお問合わせが多いため、パンフレットを引き続き『ワードマップ 現代現象学』の売り場付近においていただけることになりました。フェア中にご来場いただけなかった方はぜひ。
2017.10.10
『ワードマップ 現代現象学』が東大駒場盛況書籍部の9月人文書売り上げ第1位になったようです。
2017.10.10
宮原克典さん・新川拓哉さん選書執筆による「3-1 認知」の解説文を掲載しました。
2017.10.01
マスコットキャラクター《とだやまくん》ともどもご愛顧いただいた現象学ブックフェア、昨日無事終了しました。 とだやまくん
ご来場いただいた皆さま、ご協力いただいた皆さまに改めて御礼申し上げます。このページは引き続き更新していきます。たまに覗いてみてください。
2017.09.30
現象学ブックフェア、本日が最終日となりました。 最後のPOP、岡本源太さん(美学)にいただいた の推薦文を掲載しました。
2017.09.29
池田 喬さん選書執筆による「3-2 政治と身体」の解説文と、田口 茂さん(哲学)にいただいた の推薦文を掲載しました。
2017.09.28
吉良貴之さん(法哲学)にいただいた の推薦文を掲載しました。
2017.09.27
売り切れとなっていた 金子洋之『ダメットにたどりつくまで』が再入荷しました。
岡本源太さん(美学)にいただいた の推薦文を掲載しました。
2017.09.26
加藤秀一さん(社会学)にいただいた の推薦文を掲載しました。
2017.09.25
たくさんの方にご来場いただいたブックフェアも、とうとう最終週となりました。まだいらしていない方、どうぞお見逃しなく。
本日は 「3-5b ケアと看護2」(前田泰樹さん選書執筆)の解説文と、田口 茂さん(哲学)にいただいた の推薦文を掲載しました。
2017.09.24
糸谷哲郎さん(日本将棋連盟棋士八段)にいただいた の推薦文を掲載しました。
2017.09.23
岡本源太さん(美学)にいただいた の推薦文を掲載しました。
2017.09.22
戸田山和久さん(哲学)にいただいた の推薦文を掲載しました。
2017.09.19
納富信留さん(哲学)にいただいた の推薦文を掲載しました。
2017.09.20
数冊先行入荷したナカニシヤ出版の新刊 をフェア棚に置いていただきました。
2017.09.20
フェア終了まで残すところあと10日となりました。
本日は 「2-5 魂」(植村玄輝さん選書執筆)の解説文を掲載しました。
2017.09.19
植村玄輝さんによる の推薦文を掲載しました。
2017.09.17
田口 茂さん(哲学)にいただいた の推薦文を掲載しました。
2017.09.16
フェア終了まで残すところあと二週間となりました。
本日は 「2-3 美」(森 功次さん選書執筆)の解説文を掲載しました。
2017.09.15
「出版社在庫なし売り切れ」ステータスをお伝えしていた 細川亮一『ハイデガー哲学の射程』ですが、創文社の倉庫といったものから見つかった奇跡の数冊が本日入荷しました。これが本来的な意味におけるラストチャンスです。
2017.09.15
中山洋子さん(看護学)にいただいた の推薦文を掲載しました。
2017.09.13
戸田山和久(哲学)さんにいただいた の推薦文を掲載しました。
2017.09.12
古田徹也さん(哲学・倫理学)にいただいた、 の推薦文を掲載しました。
2017.09.11
フェア終了まで残すところあと19日、本日から5週目に入ります。今週もよろしくお願いします。 本日は 「2-2 善」(吉川 孝さん選書執筆)の解説文を掲載しました。
2017.09.10
吉川 孝さんによる の推薦文を掲載しました。
2017.09.09
現象学フェア、4回目の週末になりました。本日は田中彰吾さん(心理学)による の推薦文を掲載しました。
2017.09.08
吉川孝さんによる の推薦文を掲載しました。
2017.09.07
今週末(9日)、現象学フェアの選者である植村玄輝さんの単著『真理・存在・意識』の合評会が東京大学本郷キャンパスで行われます。評者はフェア選者の富山豊さん、葛谷潤さんと、『WM現代形而上学』執筆者の秋葉剛史さんです。ご参集ください。
2017.09.07
植村玄輝さんによる 佐藤 駿著『フッサールにおける超越論的現象学と世界経験の哲学』の推薦文を掲載しました。
2017.09.06
「2-1 真」(富山 豊さん選書執筆)と、小手川正二郎さんによる 八重樫 徹著『フッサールにおける価値と実践』の推薦文を掲載しました。
2017.09.05
昨日再々入荷した細川『ハイデガー哲学の射程』ですが、 あっさりと売り切れて しまいました。今後は代わりに『ハイデガー入門』を買っていってください。
2017.09.04
ブックレットの在庫切れを見越して増刷準備に入っていたところでしたが、またもや予想よりも早く在庫切れとなってしまいました。すみません。第二版は明日には入荷の予定です。しばらくお待ち下さい。
再度品切れになっていた創文社の三冊が再度入荷しました。なお『射程』は出版社にも在庫がなく、この入荷が最後となります。
2017.09.03
現象学ブックフェア、3週目の最後の営業時間が終了しました。
この週の間に、業界紙まで取材に来て大騒ぎになった ルーマン・ブックフェア、「過去最高の勢い」(当者比)と称された分析美学フェアの7週間総売上を二週間+であっさりと抜き去りました。ご来場いただいた皆さんに感謝いたします。
たしかに『ワードマップ 現代現象学』はたくさんの方にご購入いただいていますが、それよりもはるかに、マイナーな著作が広く薄く1冊ずつ売れています。これはブックレットを御覧頂いたうえて購入していただいた方が多いためかと思います。計算間違いのため36ページにもなってしまいましたが、つくってよかったブックレット。現象学ブックフェアは、今月末30日まで、紀伊國屋書店新宿本店三階にて開催しています。引き続きどうぞ宜しくお願いします。
2017.09.01
フェア期間中三回目の週末となりました。今週末は学会などで東京を訪れる方も多いのではないでしょうか。ぜひ あわせて新宿まで足を延ばしていただければ幸いです。
本日は 「3-3 他人の心」(八重樫徹さん選書執筆)を掲載しました。
2017.08.30
たいへん多くの方にご来場いただいたおかげで、フェアの開催期間を9月末まで延長していただけることになりました。ご来場いただいた皆さま、どうもありがとうございました。
今回のフェアは推薦書の総数が(間違って)230もあります。そのうち一度に置けるのは100+冊程度ですので、フェア棚は日々更新されています。一度ご訪問いただいた方も、ブックレットをお読みになった後で、ぜひまた再訪してみてください。なお、他のフェアとの関係上、これ以上の延長はありません。
2017.08.29
名著、津上英輔『あじわいの構造』ですが、残念ながら版元在庫なし・重版未定とのことです。図書館、古書店などで探してみてください。
2017.08.28
再び売り切れとなっていた池田 喬『存在と行為』、古田徹也『それは私がしたことなのか』、マリオン『還元と贈与』が再入荷しました。
24日-25日に再入荷した門脇俊介『理由の空間の現象学』と細川亮一『ハイデガー哲学の射程』は完売しました。ただいま再入荷待ちです。代わりに(?) 細川亮一『ハイデガー入門』(ちくま新書)を置いていただきました。
長滝祥司『現象学と二十一世紀の知』は版元品切れとなりました。
2017.08.27
本日は 「3-4 法と社会」(植村玄輝さん選書執筆)を掲載しました。
2017.08.25
売り切れとなっていた門脇俊介『理由の空間の現象学』が再入荷しました。
2017.08.24
売り切れとなっていた細川亮一『ハイデガー哲学の射程』が再入荷しました。酒井がPOPを書いてます!
2017.08.23
売り切れていたダン・ザハヴィの二冊、『フッサールの現象学』『初学者のための現象学』が入荷しました。
2017.08.23
トゥギャッター「この本を わたくしが語ろう」 などの推薦ツイートを収録しました。
2017.08.22
『ワードマップ 現代現象学』、なんと刊行一週間にして増刷が決まりました。フェア、そして全国の書店にてご購入いただいた皆さんに感謝いたします。これにあわせフェア ブックレットの増刷も決まりました。ブックレットの誤植は「誤植修正」欄にまとめていますが、お気づきの点あれば までお知らせください。
2017.08.22
ブックフェアも第二週目に入ったところで、今回のフェア企画を特徴づける項目のひとつである「3-7 現代現象学のライバル」(葛谷 潤さん選書執筆)を気前よく掲載しました。
2017.08.21
品切れとなっていた二冊、古田徹也『それは私がしたことなのか』、ステッカー 『分析美学入門』が再入荷しました。
2017.08.21
驚きのランクインです。
2017.08.20
田中彰吾さんのブログ(2017.8.18)でブックフェアをご紹介いただきました。ありがとうございます。 フェアのラインナップについて
現象学の初心者がすいすい読めてわかった気になるようなヤワな本はまったく選ばれていないように見受けられます。が、読むことを通じて現象学の深みに入っていけるような本が多い印象なのです。
と評していただきましたが、〈現象学への入門〉を趣旨としていない本フェアの特徴を綺麗に指摘していただいたと思います。
2017.08.18
フェアがスタートして初めての週末がやってきます。フェア棚にPOPも揃ったようです。まだいらしていない方も週末はぜひフェア会場をご訪問ください。本日は、八重樫 徹さん執筆の「3-6 人生」の解説文を掲載しました。
2017.08.18
スタッフの予想を遥かに超える勢いで、ほんとうに沢山のかたにブックフェアにご訪問いただいております。昨晩『ワードマップ 現代現象学』が二度目の品切れとなってしまいました。本日18日中には更に上方修正した冊数を再入荷していただける予定になっています。紀伊國屋書店さんからのアナウンスを お待ち下さい。
※追記:14:38 入荷のアナウンスがありました。
2017.08.16
予想外に多くの方にブックフェアに ご来場いただき、昨日18時時点でブックレットが店頭からなくなってしまいました。せっかくご来場いただいたのにブックレットを入手できなかった方には申し訳ありませんでした。 ブックレットは本日開店時(10時)には補充済みとのことですので、恐縮ですが再度ご来訪いただければと思います。
また『ワードマップ 現代現象学』も昨晩で品切れとなっていましたが、こちらも本日午後には入荷するとのことです。
2017.08.15
メルロ=ポンティ・サークルのWEBサイトに告知を掲載していただきました。どうもありがとうございます。
「誤植修正」欄を設けました。ブックレットについてお気づきの点あれば までお知らせください。
2017.08.14
ブックフェア、無事スタートすることができました。関係各位にあらためて感謝するとともに、皆さんのご来場をお待ちしております。数冊だけ入荷した絶版書、ドレイファス『世界内存在』【109】は 初日にあっさりと全て売れてしまったようです。
さっそく会場を訪れていただいた皆さんの写真幾つか──吉良さんの顔、吉川さんの手など──を「会場写真」欄に掲載しました。
2017.08.13
ブックフェア、いよいよ明日から開催です。どうぞよろしくお願いします。
本日は、吉川 孝さん執筆の 解説文を掲載しました。
2017.08.11
高知の学生さんにブックフェアのポスターを作製していただきました。印刷して自由にお使いください。
2017.08.09
選書者による推薦文(POP)をすべて掲載しました。今回のフェアでは、ほかに下記の方に推薦文を書いていただいています。誰がどんな本を選んだのか、会場で確認してみてください(推薦文一覧)。
  • 飯田 隆さん(哲学)
  • 糸谷哲郎さん(日本将棋連盟棋士八段)
  • 加藤秀一さん(社会学)
  • 吉良貴之さん(法哲学)
  • 戸田山和久さん(哲学)
  • 中山洋子さん(看護学)
  • 納富信留さん(哲学)
2017.08.08
ブックフェア紹介ページを公開しました。
日本現象学会WEBサイトに告知を掲載していただきました。どうもありがとうございます。
2017.08.04
『ワードマップ 現代現象学』、書店によっては並び始めたようです。各種オンライン書店にも入荷されました。
ところで、『現代現象学』の編者のひとりである植村玄輝さんが、『ワードマップ 現代形而上学』刊行時(2014年)に書いたblog記事は、『現代現象学』企画の一つの背景的前提になっています。『現代現象学』を読み終わった方は、併せてこちらの記事も読んでみてください。
2017.08.02
ブックフェア開催日が2017年8月14日(月)に確定しました。
2017.07.18
「1-2  現代現象学──経験の哲学」(植村玄輝・八重樫 徹・吉川 孝)の解説文を掲載しました。
2017.07.18
ページ制作を開始しました。
いまこそ事象そのものへ!──現象学からはじめる書棚散策 - はてなブックマーク数

趣旨:はじめに

 このブックフェアは、新しい現象学的哲学の教科書『ワードマップ 現代現象学』の刊行にちなんで開催するものです。
 本書『ワードマップ』では、現象学が「経験の探究」として提示されていますが、ここでいう経験は、私たちが世界の中で様々な対象に出会い・様々なやり方で関わることを指しています。つまり、物事を経験の相において、経験される事柄 と 経験する者 を切り離さずに捉えることをとおして 哲学的課題に取り組む探究のプログラムとして、現象学が特徴づけられているわけです。このような方針のもとで本書は、現象学が、古典的・現代的な様々な哲学的問題に対して どのようにアプローチできるかを示すことによって、現象学入門と哲学入門の双方となることを目指しています。
 このブックフェアは、本書のこうした方針を借りて、現象学を介して哲学を中心とする諸分野の良書を読書人に紹介することを趣旨として企画したものです。この趣旨に沿って、『ワードマップ』執筆者を中心とする若手の現象学者の皆さんに、

などを紹介していただきました。
 フェアタイトルの「いまこそ」には、意識経験の解明という課題が いわゆる分析哲学でも共有されてきた今こそ、現象学の方針に則りつつも現象学の枠を超えて哲学の議論を始めよう という本書執筆者たちの基本姿勢を示す意味を込めたつもりです。
 このブックレットを片手に、いつも立ち寄る書棚を違った眼で眺めたり、いつもは立ち寄らない棚に寄り道してみたりするために、このブックリストを利用していただけたら幸いです。(酒井泰斗)

ワードマップ 現代形而上学
ワードマップ 現代現象学
経験からはじめる哲学入門

植村玄輝・八重樫 徹・吉川 孝 編著
富山 豊・森 功次 著
新曜社 2017年
  • まえがき
  • 第1部 基本編
    • 第1章 現代現象学とは何か
      • 1-1 現象学の特徴
      • 1-2 出発点としての経験
      • 1-3 動物実験と現象学の意義
      • 1-4 現代現象学のもくろみ
    • 第2章 経験の分類
      • 2-1 経験の現象学的な分類とは何か
      • 2-2 知覚からはじめる経験の分類
    • 第3章 経験の志向性と一人称性
      • 3-1 経験の基本的特徴を問うことはどういうことか
      • 3-2 経験の志向性
      • 3-3 経験の一人称性
  • 第2部 応用編
    • 第4章 「志向性」
      • 4-1 思考と真理
      • 4-2 意味と経験
      • コラム フッサールのノエマ概念
    • 第5章 「存在」
      • 5-1 実在論と観念論
      • 5-2 心身問題
    • 第6章 「価値」
      • 6-1 価値と価値判断
      • 6-2 道徳
      • コラム 現象学とケア
    • 第7章 「芸術」
      • 7-1 音楽作品の存在論
      • 7-2 美的経験、美的判断
      • コラム 現象学者たちの芸術論
    • 第8章 「社会」
      • 8-1 他人の心
      • 8-2 約束
      • コラム 社会の現象学
    • 第9章 「人生」
      • 9-1 人生の意味
      • 9-2 哲学者の生
  • あとがき
  • 現代現象学をさらに学ぶための文献案内
  • 索引

現象学を近づきにくいものとしてきた術語をいっさい使わず、経験の具体相から出発する、まったく新しい種類の入門書。
心身問題から音楽作品の存在論、さらには人生の意味まで。 飯田 隆(哲学、日本大学文理学部教員)

書籍リストの構成と担当者

第一部 現象学:源流から現代へ
  1. 1-1a 現代現象学の源流1 (村田憲郎)
  2. 1-1b 現代現象学の源流2 (小手川正二郎)
  3. 1-2  現代現象学──経験の哲学
    (植村玄輝・八重樫 徹・吉川 孝)
第二部 哲学の古典的主題
  1. 2-1 (富山 豊)
  2. 2-2 (吉川 孝)
  3. 2-3 (森 功次)
  4. 2-4 世界 (佐藤 駿)
  5. 2-5 (植村玄輝)
  6. 2-6 (武内 大・吉川 孝)
第三部 現代の哲学・諸学との接点
  1. 3-1 認知 (宮原克典・新川拓哉)
  2. 3-2 政治と身体 (池田 喬)
  3. 3-3 他人の心 (八重樫 徹)
  4. 3-4 法と社会 (植村玄輝)
  5. 3-5a ケアと看護1 (吉川 孝)
  6. 3-5b ケアと看護2 (前田泰樹)
  7. 3-6 人生 (八重樫 徹)
  8. 3-7 現代現象学のライバル (葛谷 潤)

※ リスト中、数字に「*」を付した書籍はコメント中には触れられていないものの選者がテーマに関連する書籍として選書したものです。

推薦文(POP)一覧
  • はじめに
    • 植村・八重樫・吉川編『ワードマップ 現代現象学』(飯田 隆(哲学))
  • 1-1a 現代現象学の源流1
    • 細川亮一『ハイデガー哲学の射程』(酒井泰斗(会社員))
    • D・ザハヴィ『フッサールの現象学』(酒井泰斗(会社員))
    • ベルネ他『フッサールの思想』(植村玄輝(哲学))
    • 新田義弘『現象学とは何か』(田口 茂(哲学))
  • 1-2  現代現象学──経験の哲学
    • ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心:心の哲学と認知科学入門』(田中彰吾(心理学))
    • A・ノエ『知覚のなかの行為』(糸谷哲郎(日本将棋連盟棋士八段))
    • J. Smith, Experiencing Phenomenology(八重樫 徹(哲学))
  • 2-1 真
    • 金子洋之『ダメットにたどりつくまで』(古田徹也(哲学・倫理学、専修大学)
  • 2-2 善
    • 八重樫 徹『フッサールにおける価値と実践:善さはいかにして構成されるのか』(小手川正二郎(哲学))
    • 古田徹也『それは私がしたことなのか 行為の哲学入門』(吉川孝(倫理学))
  • 2-3 美
    • 佐々木健一『美学辞典』(岡本源太(美学))
    • 西村清和『遊びの現象学』(岡本源太(美学))
    • R・ステッカー『分析美学入門』(森 功次(美学))
  • 2-4 世界
    • 植村玄輝『意識・存在・真理:フッサール『論理学研究』を読む』(吉川 孝(哲学))
    • 佐藤 駿『フッサールにおける超越論的現象学と世界経験の哲学』(植村玄輝(哲学))
    • 門脇俊介『理由の空間の現象学』(植村玄輝(哲学))
  • 2-5 魂
    • 中畑正志『魂の変容:心的基礎概念の歴史的構成』(岡本源太(美学))
    • T・クレイン『心の哲学』(植村玄輝(哲学))
    • サルトル『自我の超越』(森 功次(美学))
  • 2-6 神
    • 新田義弘『世界と生命:媒体性の現象学へ』(田口 茂(哲学))
  • 3-1 認知
    • メルロ=ポンティ『知覚の現象学』(加藤秀一(社会学)
  • 3-3 他人の心
    • 田口 茂『現象学という思考:〈自明なもの〉の知へ』(吉川 孝(倫理学))
    • 小手川正二郎『甦るレヴィナス』(八重樫 徹(哲学))
  • 3-4 法と社会
    • 尾高朝雄『ノモス主権への法哲学』(吉良貴之(法哲学)
    • 前田泰樹ほか編『ワードマップ エスノメソドロジー』(戸田山和久(哲学))
    • フッサール『間主観性の現象学 I〜III』(田口 茂(哲学、北海道大学教員))
  • 3-5a ケアと看護1
    • P・ベナーほか『ベナー 看護実践における専門性:達人になるための思考と行動』(中山洋子(看護学))
  • 3-6 人生
    • P. Hadot, Philosophy as a Way of Life(納富信留(哲学))
    • 吉川 孝『フッサールの倫理学:生き方の探究』(植村玄輝(哲学))
    • H・アレント『ラーエル・ファルンファーゲン』(吉川孝(倫理学))
  • 3-7 現代現象学のライバル
    • F. Dretske, Knowledge and the Flow of Information(戸田山和久(哲学))
    • R・ミリカン『意味と目的の世界』(戸田山和久(哲学)

 

 

書籍リスト

第一部 現象学:源流から現代へ

1-1a 現代現象学の源流1(村田憲郎)

005
H・スピーゲルバーグ 2000
世界書院
001 新田義弘・小川侃編、
L・ラントグレーベほか
現象学の根本問題 1978 晃洋書房
002 細川亮一 ハイデガー哲学の射程 2000 創文社
003 R・ベルネほか(千田義光ほか) フッサールの思想 1994 晢書房
004 D・ザハヴィ
(工藤和男・中村拓也)
フッサールの現象学 2017 晃洋書房
005 H・スピーゲルバーグ
(立松弘孝監訳)
現象学運動 2000 世界書院
006 D. Jaquette (ed.) The Cambridge Companion to Brentano 2004 Cambridge U. P.
007 U. Kriegel (ed.) The Routledge Handbook of Franz Brentano and the Brentano School 2017 Routledge
008* L・ラントグレーベ
(山崎庸佑ほか)
現象学の道 1980 木鐸社
009* 新田義弘 現象学とは何か:フッサールの後期思想を中心として 1992 講談社学術文庫
010* D. Zahavi (ed.) The Oxford Handbook of the History of Phenomenology 2015 Oxford U. P.
011* B. Smith Austrian Philosophy: The Legacy of Franz Brentano 1994 Open Court
012* W・H・ジョンストン
(井上修一ほか)
ウィーン精神:ハープスブルク帝国の思想と社会 1848‐1938〈2〉 1986 みすず書房
013* R. Rollinger Husserl's Position in the School of Brentano 1999 Springer

 自らの思索だけを頼りに新たな哲学を打ち立てたが、結局はデカルト主義、「我思う」にもとづく基礎づけ主義という古い枠組みに囚われたままのフッサールに対して、深い実存的な問題意識をもって師から離れ、西洋形而上学の歴史全体との対決を試みたハイデガー。そんなイメージが、現象学に興味をもつ人々の間にすらあるかもしれない。しかしこうした図式的理解は、いまや静かに解体されつつある。>>解説文を開く/閉じる

 確かにかつてハイデガーの強い影響のもと、例えばフッサールの弟子ラントグレーベは、初期の諸著作における見かけ上の客観主義と心理主義との矛盾が、中期の超越論的現象学によって発展的に解消されるとしたが、その方法である「現象学的還元」とデカルト的コギトへの還帰との結びつきに対しては留保を置き、その一方で後期の著作に見られる間主観性、発生的現象学、生活世界などの着想は肯定的に評価していた。他にも哲学がもつ思惟されざる「影」(フィンク)、自我の現在の謎(ヘルト)など、戦後ドイツを代表する論者たちのテーマは深くまた多様であるが『現象学の根本問題』【001】、彼らの探求の動機はおおむね上の図式に規定されているように見える。

 しかしむろんハイデガーにしても、一方で『存在と時間』で「実存主義的な」固有の哲学を展開し、他方では批判の対象として西洋形而上学を扱ったというわけではない。例えば細川亮一『ハイデガー哲学の射程』【002】によれば、むしろアリストテレス形而上学の「存在論-神学」の二重性とプラトンのイデア論を捉え直すことで、『存在と時間』の現象学的な「基礎存在論」が成立した。この意味ではハイデガーは西洋形而上学の批判者というよりむしろ継承者だと言えよう。

 またフッサールの膨大な遺稿の研究が進み、各著作間の連続性が可視化され、後期の哲学の研究が進む一方で、超越論的現象学への道が複数あり、すでに早い時期から間主観性の問題が登場することが明らかとなり、デカルト的コギトへの還帰の道が相対化されてきた『フッサールの思想』【003】。本書はフッサール固有の認識論の評価や(6 章)彼独自の「形而上学」概念の紹介(10章)なども含んでいる)。その延長上で、現代の代表的な現象学者であるザハヴィは、志向性をめぐる英語圏の諸議論にも対応しながら、フッサールの超越論的意識はまさしく世界との関係を含んでおり、また間主観的でもあると主張している『フッサールの現象学』【004】。つまり超越論的意識への還帰に、世界や他者の排除が必ずしも伴うわけではないのである。こうしてこんにち現象学者たちは、あらためて意識の経験に向かいつつある。

 ここで、フッサールの周りに集まった初期現象学者(シェーラーやミュンヘン・ゲッチンゲン学派、『哲学および現象学的研究年報』に寄稿した哲学者たち)がすでに社会性、価値対象や行為についての現象学を企てていたことを指摘したい。実際、彼らは「現象学運動」と呼ばれるべき、多様な立場が哲学的議論を通じて展開する一つの運動を形成していた『現象学運動』【005】。現象学は哲学として、巨匠の内省よりも、むしろこうした運動のうちにあるのではなかろうか。

 そして最後にフッサールの師ブレンターノと彼の学派の重要性を強調したい。彼の哲学にはじめて触れる人は、彼の多面性、哲学史の知識と議論の鋭さに驚くにちがいない。すでに英語圏ではチザムらの先駆的研究があり、また彼の志向性概念や心的現象の分類、メレオロジーの構想などはむしろ心の哲学や分析形而上学と関連するはずだ『ケンブリッジ版ブレンターノ必携』【006】。ブレンターノの哲学は現象学と分析哲学の対話を媒介する可能性を秘めているし、マイノング、マルティー、トワルドフスキら彼の個性的な弟子たちもまた両者が共有しうる哲学的源泉となるだろう『ラウトレッジ版 ブレンターノ・ブレンターノ学派ハンドブック』【007】参照)。(村田憲郎)

新田の叙述は、決して易しいとは言えないが、その独特のうねりをもった文体と相俟って、読むものに不思議な感動を与える。
時代を超えた根本的な問いをフッサールと共に問い抜こうとした労作。 田口 茂(哲学、北海道大学教員)

ハイデガー読んでみた。
さっぱりわからなかった。
でももうちょっと付き合ってみようかな。 ──そんな方に長年お勧めしてきた定番書です。 酒井泰斗(会社員、ルーマン・フォーラム管理人)

フッサール読んでみた。
さっぱりわからなかった。
でももうちょっと付き合ってみようかな。 ──そんな方に長年お勧めしてきた定番書です。 酒井泰斗(会社員、ルーマン・フォーラム管理人)

ザハヴィ『フッサールの現象学』が現在最良の入門書なら、本書はさしずめ修了認定試験の参考書的存在。これが読みこなせれば「フッサールについて一通りのことはわかっている」と言っていいと思います。第1章から通読しようとするとかなりの高確率で挫折するので、まずは気になった箇所から始めるのがおすすめ。 植村玄輝(哲学、岡山大学教員)

1-1b 現代現象学の源流2(小手川正二郎)

014
B・ヴァルデンフェルス 2009
法政大学出版局
014 B・ヴァルデンフェルス (佐藤真理人) フランスの現象学 2009 法政大学出版局
015 D・フランク(本郷 均ほか) 現象学を超えて 2003 萌書房
016 金森 修編 エピステモロジー 2013 慶應義塾大学出版会
017 澤田 直編 サルトル読本 2015 法政大学出版局
018 F=D・セバー(合田正人) 限界の試練:デリダ、アンリ、レヴィナスと現象学 2013 法政大学出版局
019 R. Moati Levinas and the Night of Being: A Guide to Totality and Infinity 2016 Fordham U. P.
020* M・メルロ=ポンティ (加賀野井秀一ほか) フッサール『幾何学の起源』講義 2005 法政大学出版局
021* H.-D. Gondek & L. Tengelyi Neue Phänomenologie in Frankreich 2011 Suhrkamp
022* 米虫正巳編 フランス現象学の現在 2016 法政大学出版局
023* 小林 徹 経験と出来事:メルロ=ポンティとドゥルーズにおける身体の哲学 2014 水声社

 「フランス現象学」と聞くと、サルトル、メルロ=ポンティ、ボーヴォワール、レヴィナスといった独創的な思想家たちが、思い思いの仕方で、時には奇抜な語彙とともに展開していった思想を真っ先に思い浮かべやすい。現象学はあたかも彼らの発想源の一つでしかなかったかのように。あるいは、ジャニコーの決定的著作『現代フランス現象学:その神学的転回』【120】で示されたように、レヴィナス、アンリ、マリオン以降、フランス現象学は客観的な検証を自ら拒否する神学になってしまった、あるいは反対にスタンダードな現象学を乗り越えたのだとみなされることもある。そうだとすると、フランス現象学は荒唐無稽な独り語りか、もはや現象学では扱えない「現れざるもの」を扱おうとする思想だということになろう。>>解説文を開く/閉じる

こうしたイメージはどれも完全な誤りだとは言えないものの、華々しい外見や晦渋な表現の裏側にあるフランス現象学の真の豊かさを覆い隠している恐れがある。以下で紹介する著作は、読者がこうした見せ掛けに囚われることなく、フランス現象学の多彩な針路と今も色褪せることのない豊かな分析に目を向けることを可能にしてくれるはずだ。

 ヴァルデンフェルス『フランスの現象学』【014】は、1930 年代に現象学がフランスに受容される際、幾つもの関心が重なり合い、実に多彩な顔ぶれが関わっていたことを壮大なスケールで描き出す。現象学がフランスに特有な形――フランスのスピリチュアリスム、実存主義、マルクス主義との係わり――で受容された背景を知るために有益なのはもちろんのこと、今日では顧みられることがほとんどなくなった重要な思想家たち(マルセル、チャン・デュク・タオ、デュフレンヌ)を再読するきっかけにもなるはずだ。また、(ポスト)構造主義者と呼ばれる思想家たち(レヴィ=ストロース、ラカン、アルチュセール、フーコー、デリダ)が現象学と真摯に格闘するなかで自らの思想を形作っていた経緯についても多くの紙幅が割かれており、ほとんどなされぬままになっている現象学と構造主義との生産的な対話の可能性を指し示している。

 サルトルやメルロ=ポンティの思想に触れてみたいが、原著を読むのは骨が折れるという方には、澤田直編『サルトル読本』【017】やメルロ=ポンティ他『フッサール『幾何学の起源』講義』【020】がお勧めだ。前者を繙けば、サルトルの多様な主題(哲学・政治・美学・文学)から自分の関心にあうものを見つけられるだけでなく、サルトルと係わりのある現象学的な思想家(ボーヴォワール、ファノン)に触れることもできよう。後者には現代フランス現象学を代表する研究者たち(バルバラス、ダステュール、リシール等)によるメルロ=ポンティ論が収録されており、様々な角度からメルロ=ポンティの思想の特色を見て取ることができる。

 レヴィナス、アンリ、マリオンにおける現象学的分析の豊かさにじっくりと触れてみたいという方は、フランク『現象学を超えて』【015】から入って、セバー『限界の試練』【018】やR・モアティ『レヴィナスと存在の暗闇』【019】、または【022】【172】に向かうのがよいだろう。フランクの本は、フッサール、ハイデガー、レヴィナスの繋がりを緻密に描き直しているだけでなく、各思想家が事柄にどれほど接近できているのかを探ろうとしている点で、ハイデガーやレヴィナスを秘教的な読み方から解放しフランスの若い世代の現象学者たち(ブノワやモアティ)に多大な影響を与えたものだ。セバーとモアティもジャニコーの問題提起を受け止めて、レヴィナス、アンリ、マリオンの現象学的分析を可能な限り具体的に検討し直そうとしている点でフランス現象学の魅力を存分に伝える書物となっている(独語にトライするという気概がある方は、レヴィナス以降のフランス現象学について最も体系的に纏められているゴンデク&テンゲイ『フランスの現象学』【021】に是非チャレンジしてもらいたい)

 最後に、サルトルらの「主体の哲学」とは異なる形(「概念の哲学」)で現象学を受容した科学認識論(エピステモロジー)の系譜にも関心をもつ読者もいるはずだ。金森修編『エピステモロジー』【016】には、カヴァイエスによる現象学受容を経て、フランス独自の科学認識論を構築していった思想家たち(グランジェ、ヴュイユマン、S・バシュラール、ドゥサンティ、サランスキ)についての稀少な論考が収められている。フランスの現象学受容の豊穣さと奥深さを窺い知ることができよう。

 思想業界では、しばしば新しく出てきた思想家の言っていることが新しいと勘違いされることが多い。だからこそ、その時々の「売れ筋の」思想家が紹介・翻訳される。そうした時流からするなら、フランス現象学は「時代遅れ」とみなされるかもしれない。しかし、思想家の記述を自分の体験と照らし合わせて吟味することができる読者なら、フランスの現象学者たちの記述が新鮮味を失っていないばかりか、現代においてまだ真摯に問われていないことにまで達していることを理解してもらえるはずだ。多くの読者がフランス現象学の真の新しさに触れてもらうことを願っている。(小手川正二郎)

1-2  現代現象学──経験の哲学(植村玄輝・八重樫 徹・吉川 孝)

024
ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』
S・ギャラガー、
D・ザハヴィ (石原孝二監訳) 2011
勁草書房
025 D・ザハヴィ(中村拓也) 自己意識と他性 2017 法政大学出版局
026 R・M・チザム (中才敏郎ほか) 知覚 1994 勁草書房
027 A・ノエ (門脇俊介、石原孝二監訳) 知覚のなかの行為 2010 春秋社
028 C・マッギン (五十嵐靖博、荒川直哉) マインドサイト:イメージ・夢・妄想 2006 青土社
029 門脇俊介 破壊と構築 2010 東京大学出版会
030 村田純一 色彩の哲学 2002 岩波書店
031 野家啓一 無根拠からの出発 1993 勁草書房
032 D. Zahavi The Oxford Handbook of Contemporary Phenomenology 2015 Oxford U. P.
033 B. Dainton Stream of Consciousness: Unity and Continuity in Conscious Experience 2005 Routledge
034 J. Smith Experiencing Phenomenology: An Introduction 2016 Routledge
035 U. Kriegel Varieties of Consciousness 2015 Oxford U. P.
036 A. D. Smith The Problem of Perception 2002 Harvard U. P.
037 A. L. Thomasson Fiction and Metaphysics 1999/2008 Cambridge U. P.
038 H. B. Schmid Plural Action: Essays in Philosophy and Social Science 2010 Springer
039 Ch・テイラー(下川 潔ほか) 自我の源泉 2010 名古屋大学出版会
040* 長滝祥司 現象学と二十一世紀の知 2004 ナカニシヤ書店
041* 鈴木生郎ほか ワードマップ現代形而上学 2014 新曜社
042* 門脇俊介 現代哲学の戦略:反自然主義のもう一つの別の可能性 2007 岩波書店
043* B. Smith & D. W. Smith (eds.) The Cambridge Companion to Husserl 1995 Cambridge U. P.
044* H. L. Dreyfus (ed.) Husserl, Intentionality, and Cognitive Science 1986 The MIT Press

『ワードマップ 現代現象学』【000】は、現象学を通じての哲学入門を意図したものである。「現代現象学」というひょっとしたら耳慣れない言葉は、D・ザハヴィの編著『現代現象学ハンドブック』【032】によって、一応の市民権を得たといっていい『ワードマップ 現代現象学』のタイトルだけでなく構想も、この編著がなければ生まれていなかったかもしれない)。だが、このハンドブックで「現代現象学」と呼ばれるジャンルは、よくもわるくも雑多である。>>解説文を開く/閉じる

同書の寄稿者には、(1)ふつうフッサールにはじまるとされる現象学の伝統——現代現象学と対比的に「古典的現象学」と呼ばれる——から着想を得つつ、(2)同時代の哲学的な問題——そこには古くからの哲学的問題も含まれうる——に取り組むという姿勢が共有されているに過ぎない。そのため、現代現象学という確固たるひとつの分野があるとは考えない方がいいだろう。『ワードマップ 現代現象学』にかぎって言えば、現代現象学は、経験という観点に立脚した思考を展開して、分析哲学を中心とする現代哲学の諸問題をめぐる議論に取り組むことを特徴としている。いずれにしても、(20世紀から21世紀への!)世紀転換期ごろからふたたび勢いを取り戻した現象学のさまざまな動向が、「現代現象学」というラベルによっていわば可視化されたことは確かである。こうしたアウトリーチ的な側面も含め、ザハヴィをこの多様な動向を代表する哲学者の一人とみなすことにおそらく異論はないはずだ。

  さて、フッサール研究からキャリアを開始したザハヴィは、『自己意識と他性』【025】(原著1999年刊)において、反省に先立つ自己意識に関する古典的現象学の取り組みを包括的に論じた。その後のザハヴィは、現象学は分析哲学などの他の哲学的伝統とより積極的に対話すべきだという同書の提案を、コペンハーゲン大学主観性研究センターの設立(2002年)によって自ら実践することになる。S・ギャラガーとの共著『現象学的な心』【024】(原著[第1版]は2008年刊)は、狭い意味での哲学だけでなく、心理学・認知科学・精神医学・社会学とも連携しながら進められた主観性研究センターでの研究のひとまずの集大成といえる。
 もちろんザハヴィやその周辺だけが現代現象学だというわけではない。ここでは、ザハヴィの立場を相対化するものとして、 【032】にも寄稿した)H・B・シュミットの『複数的行為』【038】を挙げておこう。究極的にはフッサールの(忠実な)徒であるザハヴィとは対照的に、シュミットはハイデガー的な立場にも根ざして行為や社会について論じ、現代哲学における「共同行為論」を牽引する論者の一人になっている。
 ザハヴィやシュミットがそれぞれキャリアを積み上げるのとほぼ同時期に、いわゆる分析哲学においても、古典的現象学の成果を取り込む著作が目につくようになった。 (原著の)出版年順に紹介していこう。存在論における経験の志向性に関する考察の重要性を説き、虚構のキャラクターのような心に依存した存在者をも包摂する形而上学の構想を描いたA・L・トマソン『虚構と形而上学』【037】は、純粋志向的対象に関するインガルデンの理論に大きく依拠している(トマソンの立場の明快な解説として、『ワードマップ 現代形而上学』【041】の第8章が役立つ)。知覚の哲学の本格的な復興前夜に錯覚論法と幻覚論法に抗って直接実在論を徹底的に擁護したA・D・スミス『知覚の問題』【036】は、E・フッサール、M・ハイデガー、M・メルロ=ポンティといった現象学者たちの議論をW・セラーズやJ・マクダウェルのような分析哲学者たちの議論のなかに継ぎ目なしに溶け込ませた(すこし早すぎた)名著だ。サルトルの想像力論を参照しつつ知覚とイメージの違いを論じた『マインドサイト』【028】は、著者C・マッギンのその後の醜聞を踏まえると言及することにやや躊躇してしまうが、分析哲学と現象学が接近する過程を象徴する一冊である。メルロ=ポンティにも依拠し、知覚を受動的な状態ではなく私たちのなす行為として捉える「エナクティヴ・アプローチ」を提案するA・ノエ『知覚のなかの行為』【027】も、現象学の伝統のなかで培われた発想が現代の知覚論に新たな着想をいかに与えうるかについて、読者に多くのヒントを与えてくれるだろう。分析哲学者による古典的現象学の参照は、知覚や想像といった個別の意識的経験に関する議論だけでなく、意識に関するより一般的な事柄が問題になる場面でも見られる。分析哲学における時間意識への関心の高まりを代表するB・デイントン『意識の流れ』【033】では、フッサールの初期時間論が詳しく検討されている。非知覚的な意識(意識的な思考・情動・意志)を分類し、その基本的な構造を明らかにするU・クリーゲル『意識の諸相』【035】は、F・ブレンターノの記述的心理学のプロジェクトを継承する(また、同書の意志に関する議論がリクールに多くを負うことも、ここで言及に値する)。また、私たちの経験が事物・性質・出来事・可能性・自己・身体・他者・感情にどのように関わるのかを、古典的現象学からの引用をふんだんに交えつつ論じたJ・スミス『現象学を経験する』【034】は、分析哲学を背景に持つ著者による良質な現象学入門として薦められる。
 最近約20年の動向としての現代現象学には、もちろん先駆者たちがいる。ブレンターノやA・マイノングの研究者としても知られるR・M・チザムによる『知覚』【026】(1956年)は、戦後の分析哲学における認識論・知覚の哲学の古典であると同時に、この伝統から現象学への接近の最初期の例でもある。また1980年代には、現象学による分析哲学との対話も本格化しはじめた。この試みのドキュメントとしてまず挙げるべきは、H・L・ドレイファスによる編著【044】だろう。また、チザムと連携しつつブレンターノ学派(あるいはオーストリア哲学)や初期現象学の研究を牽引したB・スミスを編者の一人として出版された【043】は、1990年代における分析哲学的なフッサール研究のショーケースとして読むことができる。これらとは主題が異なっているが、Ch・テイラーの『自我の源泉』【039】は、ヘーゲル研究の伝統を踏まえながら、ハイデガーやH・G・ガダマーの解釈学の成果を取り入れて、当時の英米哲学の主流をなす自然主義と対決しつつ、近代的アイデンティティの問題を考察している。さらに近年にもテイラーはドレイファスとの共著【096】において、実在論・観念論という哲学の基本問題にも取り組んで、現代哲学に大きなインパクトを与えている。
 以上のような観点から日本の哲学界を振り返ると、現代現象学やその先駆形態と共鳴する仕事が見出される。ドレイファス周辺の議論やR・ローティのプラグマティズムをほぼリアルタイムでフォローしつつ、その単なる追従には終わらない独自の反基礎づけ主義的な現象学を標榜する野家啓一 『無根拠からの出発』【031】は、その先見の明を評価しつつ、現代の議論状況を踏まえて再訪すべき著作である。ドレイファスとローティに捧げられ、ハイデガーやフッサールを現代哲学の土俵に乗せて論じる門脇俊介『破壊と構築』【029】は、同じ著者による【042】【045】【053】【097】と合わせて、現代現象学のあるべき姿のひとつを鮮やかに描き出していた。フッサールの知覚論における射映概念の再検討に始まり、J・J・ギブソンの生態学的心理学を現象学的な考察によって補完する「生態学的現象学」の提案で閉じられる村田純一『色彩の哲学』【030】も、同様の観点から日本における現代現象学の試みとみなすことができるだろう (なお、村田は上述の【032】にも色彩論を寄せている)
 このように「現代現象学」と呼ばれうる動向は、現象学の伝統を踏まえながら、現代哲学におけるさまざまなトピックの議論に取り組むことによって、現象学的アプローチを哲学への取り組みとして活かし続けている。

ルービックキューブのような本だ。
一面だけそろえるように各章独立に読むこともできるが、全章を読んで全面/全色がそろったときに見える知のパノラマはとても美しい。
心的経験が深いところで相互に連結して多面体をなしていることを教えてくれる一冊。 田中彰吾(心理学、東海大学教員)

普段経験していること、当たり前と思っていること。
そういったことを考え直すことにより、改めて見えるものがある。
知覚を考察することによって、果たして何が見えてくるのか……?
あなたの周りの世界の捉え方を、大きく変えるかもしれない一冊です。 糸谷哲郎(日本将棋連盟棋士八段)

「現象学を理解する最も生産的なやり方は現象学の中に住むことだ」(p. 197)。
分析哲学をバックグラウンドにもち、フッサール、ハイデガー、サルトルらのテキストに精通する著者による、現代現象学への誘いの書。 八重樫 徹(哲学、東京大学大学総合教育研究センター特任研究員)

第二部 哲学の古典的主題

2-1 真(富山 豊)

045 門脇俊介 フッサール:心は世界にどうつながっているのか 2004 NHK出版
046 貫 成人 経験の構造:フッサール現象学の新しい全体像 2003 勁草書房
047 M・ダメット(藤田晋吾) 真理という謎 1986 勁草書房
048 金子洋之 ダメットにたどりつくまで 2006 勁草書房
049 M. Dummett The Logical Basis of Metaphysics 1991 Harvard U. P.
050 M・ダメット(野本和幸ほか) 分析哲学の起源:言語への転回 1998 勁草書房
051 J・R・サール(坂本百大) 志向性:心の哲学 1997 誠信書房
052 R・ブランダム(斎藤浩文) 推論主義序説 2016 春秋社
053 門脇俊介 『存在と時間』の哲学I 2008 産業図書

 存在する限りにおけるすべての存在者について、それが存在する限りでそれに伴って、それについて述べることの出来るものが古来、超越範疇と呼ばれて来た。超越範疇の内に「真」が含まれるのは、魂がある意味で存在者の全体であると語ったアリストテレスの霊魂論を引き継いで、あらゆる存在者は知性による認識可能性、すなわち知性との一致という意味での真理との関係において捉えられ得ると考えられていたからである。>>解説文を開く/閉じる

 この世界の全体、すべての存在者の全体について、我々の認識との相関関係という視点から(のみ)その存在の在り様について語ることができる、という立場を現代において再び、そして影響力のある仕方で主張したのがフッサールの超越論的観念論であった。そこにおいて我々の認識と対象との、心と世界との通路の役割を担わされた概念が「志向性」である。それゆえ志向性の概念こそ、哲学があらゆる存在者について語るための「認識との相関」という鍵を、超越範疇としての「真」の概念から受け継いだものだと言えるだろう。そうだとすれば、「志向性」と「真理」とが密接な関わりを持つ概念であることは、歴史的にも事柄の上からも明白である。

 ところがこのふたつの概念の連関は、フッサール解釈の歴史においてしばしば正当に重視されて来なかった。おそらくその理由のひとつは、還元をはじめとするフッサール現象学の方法論的諸概念が、心とは独立に世界の側で客観的に成り立っていること、という意味での客観的事実のようなものを排除するように見えたからであろう。こうしたものが排除されるのであれば、結局のところある認識が事実に照らして真であるのか偽であるのか、という意味での「真」について直接に語ることは躊躇われてしまう。

 しかしながら、現象学の端緒を告げる著作である『論理学研究』においても「還元」が明示的に語られる『イデーン』第一巻においても、フッサールは我々の経験の内部におけるある種の確証と反証の経験について語る。我々の様々な心の働きは、それぞれがそれだけで孤立して生じているわけではない。世界についての我々の予想・予期や推論・推定、あるいは記憶といったものは、様々な他の証拠、とりわけ知覚的経験が絶えず更新されることによって確証の度合いを高めたり、反証されたりしている。経験から独立の世界の実在を独断的に措定してしまうのではなく、様々な経験同士の結びつきの中で現れるこうした確証の経験、フッサールの用語で言えば「充実化」の経験において、真理の概念は現象学に居場所を持つ。こうした経験同士のネットワークが可能になるのは、それらが互いに特定の対象について何事かを述べるような経験であるからである。それぞれがその経験自体とは別の何か特定の対象についてのものであり、それによって複数の経験同士が同じ対象についてそれぞれの視点から何事かを語るようなものでないならば、確証や反証といった現象も不可能となるだろう。逆に言えば、経験同士がこうしたネットワークを成すものとして経験されているということが、経験がそれぞれ特定の対象についてのものであるという性格に内実を与える。この性格こそが「志向性」と呼ばれるものであり、我々の心が世界にどうつながっているのかを、そしてその結びつきを手引きとして世界のあらゆる存在者の在り方について哲学が語るための鍵となるものである。ここで述べたような、経験同士のネットワークにおいて志向性を考えるという方向性を明確に打ち出してフッサールの志向性理論を展開する試みとして、まずは門脇『フッサール』【045】を挙げるべきだろう。コンパクトに圧縮された記述だが、明確な方法論的意識に貫かれた叙述となっている。同様の精神を共有し、志向性と真理の正当な連関の下で、すなわち充実化の議論からフッサールの叙述や用語法に即したより詳細な議論を展開している研究書として貫『経験の構造』【046】が有益である。時間論や受動性など、フッサール現象学の重要なトピックでありながらこうした視点から明確な一貫性を持って議論されることの少ない事柄についても扱われている。『ワードマップ 現代現象学』【000】第4章における拙論は、これらの流れを受け継ぎつつ、以下に述べるようなフッサール以外の議論文脈との接続をより明確に意識した形で、充実化の経験を中心とするネットワークによる志向性理論というアイデアを展開したものである。

 じつを言えば、「客観的事実」のようなものをあらかじめ前提し、それとの対応によって真理を考えるような立場から、充実化の経験に訴えることによってあくまでも経験の内部から真理を考えるような立場への転換は、タルスキに由来するモデル論的な意味論から検証主義的な意味論、あるいは証明論的意味論への転換として現代の言語哲学、あるいは論理学の哲学において台頭して来た流れと軌を一にしている。こうした検証主義的意味論の台頭の先駆けとなって大きな影響力を振るったダメットの議論は『真理という謎』【047】、とりわけ「直観主義論理の哲学的基底」の前半部で展開されている。とはいえ、分析哲学や論理学の予備知識なしにダメット本人の叙述に挑むのは容易ではない。心強い手助けのひとつとして金子『ダメットにたどりつくまで』【048】が頼りになるだろう。予備知識に自信があり、ダメットの議論の到達点を見極めたい方にはぜひ『形而上学の論理的基礎』【049】に挑んでいただきたい。また、ダメット自身がフッサールについてまとまった言及を行っている著作として『分析哲学の起源』【050】がある。さらに志向性の問題について詳しく考えてみようとする際には、もはや古典ではあるがサール『志向性』【051】が分析哲学の側からの充実した議論を与えてくれるほか、クレイン『心の哲学』【110】の第一章もコンパクトで有益なガイドである。

 個々の意味内容を孤立させて考えるのではなく、我々の経験全体の成すネットワークの方から、その相対的位置によって意味の問題を考えようとする方針をより意識的に前面に押し出して提唱しているのが、ブランダム『推論主義序説』【052】をマニフェストとするブランダムの推論主義である。じつを言えば、こうした全体論的な意味の分析を現象学の伝統においてフッサール以上に自覚的に行っていたのは、道具分析に象徴されるハイデガーの議論である。ハイデガーの議論の可能性をこうした文脈から読み解く上で、門脇『『存在と時間』の哲学I』【053】を手引きとして推薦しておきたい。(富山 豊)

反実在論は観念論でも懐疑論でもないが、そういう誤解はあまりに根深い。
反実在論を知るには誰よりもダメットの議論を知らねばならないが、そのハードルはあまりに高い。
本書は、本当に貴重なダメット哲学の入門書。ついでにブラウワーの直観主義にもたどりつけます。
古田徹也(哲学・倫理学、専修大学教員)

2-2 善 (吉川 孝)

054 F・ブレンターノ(水地宗明) 「道徳的認識の源泉について」
『世界の名著 ブレンターノ フッサール』所収
1970 中央公論社
055 E・フッサール
(吉川孝、八重樫徹)
「評価と行為の現象学」
『現代思想 総特集フッサール:現象学の深化と拡張』所収
2009 青土社
056 M・シェーラー(吉沢伝三郎) 倫理学における形式主義と実質的価値倫理学 上 2002 白水社
057 M・シェーラー(吉沢伝三郎) 倫理学における形式主義と実質的価値倫理学 中 2002 白水社
058 M・シェーラー(吉沢伝三郎) 倫理学における形式主義と実質的価値倫理学 下 2002 白水社
059 八重樫徹 フッサールにおける価値と実践 : 善さはいかにして構成されるのか 2017 水声社
060 吉川孝、池田喬、横地徳広編著 生きることに責任はあるのか:現象学的倫理学への試み 2012 弘前大学出版会
061 古田徹也 それは私がしたことなのか:行為の哲学入門 2013 新曜社
062 J・レイチェルズ、S・レイノルズ(次田憲和) 新版 現実をみつめる道徳哲学:安楽死・中絶・フェミニズム・ケア 2017 晃洋書房
063 加藤尚武, 児玉聡 編・監訳 徳倫理学基本論文集 2015 勁草書房
064 品川哲彦 正義と境を接するもの:責任という原理とケアの倫理 2007 ナカニシヤ出版
065 太田紘史 編著 モラル・サイコロジー:心と行動から探る倫理学 2016 春秋社
066* L・グルーエン(河島基弘) 動物倫理入門 2015 大月書店
067* C・ダイアモンドほか(中川雄一) 〈動物のいのち〉と哲学 2010 春秋社
068* M. Gubser The Far Reaches: Phenomenology, Ethics, and Social Renewal in Central Europe 2014 Stanford U. P.
069* A.C. MacIntyre Dependent Rational Animals: Why Human Beings Need the Virtues
依存的な理性的動物:ヒトにはなぜ徳が必要か
2001
2018
Open Court Pub
法政大学出版局

『ワードマップ 現代現象学』【000】の第6章では、食肉の是非をめぐる問題を手掛かりに、「善」という「道徳的価値」を考察している。「善」の現象学的分析は、「真」と同様にF・ブレンターノに遡ることができるのであり、彼みずからが「これまでに発表したものでおそらくもっとも成熟したもの」と述べ、E・フッサールも「私が最大の感謝を捧げねばならないと感じている書物」と評した道徳哲学の名著を忘れてはならない「道徳的認識の源泉について」【054】>>解説文を開く/閉じる

M・シェーラー『倫理学における形式主義と実質的価値倫理学』【056–058】は現象学的倫理学の代表作であるが、英米系を中心とする現代倫理学の議論ではほとんど省みられなくなった。しかし、ここでの道徳経験の豊かな分析から、現代に通じる議論をどれだけ引き出せるかが今後の課題となるだろう。シェーラーと同時期にフッサールも独自の倫理学を構想している(フッサール「評価と行為の現象学」【055】。 八重樫徹の 『フッサールにおける価値と実践:善さはいかにして構成されるのか』【059】は、感情・道徳・人生の意味をめぐる分析哲学の議論を視野に入れて、フッサールのテキストの意義を明らかにしている(ほかにも小手川正二郎『甦るレヴィナス:『全体性と無限』読解』【172】、吉川 孝『フッサールの倫理学:生き方の探究』【213】、池田喬『ハイデガー 存在と行為:『存在と時間』の解釈と展開』【214】が現象学的倫理学の現代的意義を検討している)

『生きることに責任はあるのか:現象学的倫理学の試み』【060】は、こうした現象学的倫理学の裾野の広がりを示す論集であり、そこには現象学を「ケア」「徳」「道徳上の運」などの現代の議論と関連づける論考も収められている。一般的に倫理学がこれらのトピックと向き合うとき、公平性よりも身近な他者との非対称的関係を重視したり、行為のみならず行為者へ着目したり、自己統制できない脆さをあわせもつ行為者に立脚したりせざるをえず、功利主義や義務論などの近代道徳哲学の主流の枠組みに収まりにくいものになる。現象学的倫理学もこうした論点に積極的に取り組んでおり、ケアの倫理・徳倫理学・道徳上の運をめぐる議論は、現象学的倫理学を現代倫理学に位置づけるための参照点となる。

 J・レイチェルズとS・レイチェルズの『新版 現実をみつめる道徳哲学:安楽死・中絶・フェミニズム・ケア』【062】は現代倫理学への優れた入門書であり、ケアの倫理や徳倫理学も紹介されている。ケアの倫理については、品川哲彦が『正義と境を接するもの:責任という原理とケアの倫理』【064】において、E・レヴィナスの倫理学とも関連づける検討をいち早く行っている。徳倫理学は、近年日本でも本格的に論じられており、関連する論点をめぐる優れた論集がある『徳倫理学基本論文集』【063】。また、古田徹也は『それは私がしたことなのか:行為の哲学入門』【061】において、道徳的責任を問いうる「行為」の身分をめぐる議論を整理しながら、運にも左右される道徳的行為者の見事な分析を行っている。

 現象学的倫理学はこれまで応用倫理学への取り組みが不十分であると考えられてきた。しかし、H・L・ドレイファスと看護研究とのかかわりに、現象学的応用倫理学の一つのあるべき姿を見いだすことができる『ベナー 看護実践における専門性:達人になるための思考と行動』【191】。看護師の職業倫理にも関連する論考は、臨床場面の実践や専門技能の教育のなかで働く道徳性が、従来の道徳哲学が重視する「道徳判断の正当化」とは異なる問題圏を形成することを指摘している(「道徳性とは何か:道徳的熟達の発展に関する現象学的説明」【194】)。現代現象学はさまざまな道徳経験に眼を向けて、それらが身体性や歴史的背景などの事実的な状況に制約されていることをも明らかにする。このような分析は、「モラル・サイコロジー」や「エスノメソドロジー」と呼ばれる分野とつながりをもちうるだろう。『モラル・サイコロジー:心と行動から探る倫理学』【065】『ワードマップ エスノメソドロジー』【182】は、これら分野に対しての優れた道案内である。現象学的倫理学は、経験やそれを取り巻く状況についての記述を行うかぎりで、認知科学や社会科学からのアプローチと同様に(しかし、あくまでも経験の分析として)「記述倫理学」という役割をはたすことがある。

 近代道徳哲学を背景にもつ標準型の規範倫理学はもともと、あたかも、いっさいの規範を欠いた抽象的な状況から道徳原則に基づいて何らかの規範を導出し、無条件に何らかの行為を選択するかのような場面を想定していた。そのためトロッコ問題などの思考実験の手法が重視され、いわば架空の状況を想定するSF 映画のように考察が進められる。これに対して現象学的倫理学は、個別の経験とその具体的状況の記述に根ざして、たとえば現場の優れた看護師のさまざまな行為の実例を挙げることがある。これはドキュメンタリー映画のように思考して、具体的な状況のなかでの範例を示そうとしている。このような倫理学の役割や意義を明らかにすることが今後の課題となるだろう。(吉川 孝)

ゴリゴリの合理主義者(フッサール)の倫理学? と聞くと敬遠する人もいるかもしれないが、 本書を繙けば、「道徳的な感情や生き方について ここまで繊細な分析が可能なのか」と驚嘆するはず。
理性への信頼が揺らいでいる現代においてこそ読まれるべき一冊! 小手川正二郎(哲学、國學院大學教員)

「事象そのもの」に迫るのは現象学の特権と思っている人は、この本を手にとって打ちのめされましょう。現象学者も顔負けの精緻な分析が、現代哲学の枠組みの更新を迫り、行為者としての人間の真の姿を浮かび上がらせている。 吉川 孝(倫理学、高知県立大学教員)

2-3 美(森 功次)

071
R・ステッカー(森 功次) 2013
勁草書房
070 佐々木健一 美学辞典 1995 東京大学出版会
071 R・ステッカー(森 功次) 分析美学入門 2013 勁草書房
072 R・オーデブレヒト (太田喬夫) 芸術価値論:美的価値体験 2011 中央公論美術出版
073 高梨友宏 美的経験の現象学を超えて:現象学的美学の諸相と展開 2001 晃洋書房
074 M・メルロ=ポンティ (富松保文) 『眼と精神』を読む 2015 武蔵野美術大学出版局
075 M・アンリ(青木研二) 見えないものを見る〈新装版〉:カンディンスキー論 2016 法政大学出版局
076 春木有亮 実在のノスタルジー:スーリオ美学の根本問題 2010 行路社
077 樋口 聡 スポーツの美学:スポーツの美の哲学的探究 1987 不昧堂出版
078 西村清和 遊びの現象学 1989 勁草書房
079 津上英輔 あじわいの構造:感性化時代の美学 2010 春秋社
080 小熊正久・清塚邦彦編著 画像と知覚の哲学 2015 東信堂
081* J-P・サルトル(平井啓之) 想像力の問題 1975 人文書院
082* 金田晉 芸術作品の現象学 1990 世界書院
083* G・ドゥルーズ(山県 煕) 感覚の論理:画家フランシス・ベーコン論 2004 法政大学出版局
084* M・デュフレンヌ(棧 優) 眼と耳:見えるものと聞こえるものの現象学 1995 みすず書房
085* G・ベーメ(梶谷真司ほか) 雰囲気の美学:新しい現象学の挑戦 2006 晃洋書房
086* 谷川渥 美学の逆説 2003 筑摩書房

 美やそれを見て取る感性的判断についての考察を、学問分野として成立させたのは18世紀のバウムガルテンとされる。とはいえ、哲学者たちは古来より、美や美的経験、美的価値について語ってきた。>>解説文を開く/閉じる

 まずそうした美学的トピックを全般的に学べる書として、佐々木健一『美学辞典』【070】を挙げておこう。美学史のみならず、「美」そのもの、または「美的経験」「美的判断」といった個別テーマについて、「読み物としての辞書」というスタイルで大まかな理解を与えてくれる良書だ。この書の情報量と密度は非常に高い。一通り美学を学んだあとでこの書に戻ってくると、その洗練された仕上がりに驚かされることだろう。また美的経験や美的判断について現代的の議論を学びたいのであれば――「英語圏の」という限定を付すことにはなるが――ステッカー『分析美学入門』【071】の、とりわけ第3 章、第4 章を勧める。

 現象学者たちは美的経験と、そこに見いだされる一般的構造について考察する中で、芸術や美の価値の位置づけを明らかにしようとしてきた。20 世紀前半の現象学者たちのそうした志向は、当時隆盛を誇っていた形式主義(formalism)と相性がよく、美的経験はある種の真理経験と結びつけて語られがちであった。オーデブレヒト『芸術価値論:美的価値体験』【072】は、そうした初期の現象学的美学の成果のひとつである。また高梨友宏『美的経験の現象学を超えて』【073】は、初期現象学者の美学思想について、程よい見通しを与えてくれる。

 このように美的経験を真理経験と結びつけるのが現象学的美学のひとつの方向性であったとすれば、もう一つの方向性は、美的経験を想像経験と結びつける方向性だといえよう。サルトル『想像力の問題』【081】は、そのきっかけとなった古典的著作である(サルトルのこの書は、純粋に想像力論という分野に範囲を絞っても、現代の議論に大きな影響を与えている。その影響は、マッギン『マインドサイト』【028】などに見て取ることができるだろう)

 現象学的絵画論は、〈この絵画は何をどう描いているか〉ではなく、〈この絵画はどのような経験を与えてくれるのか〉という観点から考察を進め、画像知覚論を大きく発展させた。金田 晉『芸術作品の現象学』【082】は、フッサールの遺稿などを材料に、現象学的画像知覚論の基本的な論点を紹介してくれる。また画像知覚論を大いに発展させたメルロ= ポンティの古典的著作『眼と精神』は、今では【074】で解説付きで読むことができる。メルロ= ポンティの提出した「芸術は見えないものを見させる」という考え方は、アンリ『見えないものを見る:カンディンスキー論』【075】や、ドゥルーズ『感覚の論理:画家フランシス・ベーコン論』【083】に引き継がれ、新たな発展を遂げた。現象学的美学のこうした発展は、当時のフランス美学に大きな影響をあたえた。春木有亮『実在のノスタルジー:スーリオ美学の根本問題』【076】は、戦後フランス美学の泰斗、エティエンヌ・スーリオの美学を解説する貴重な書である。またデュフレンヌ『眼と耳:見えるものと聞こえるものの現象学』【084】はブーレーズやポップアートといった、現代芸術を材料に、美的経験の分析を行っている。

 さてここからは、古典現象学者の読解にとらわれずに一人称的観点を重視しながら美的経験の考察を進めている、いわば「現代現象学」的な著作を紹介していきたい。樋口 聡『スポーツの美学:スポーツの美の哲学的探究』【077】は、スポーツ観戦者・実践者の美的体験の構造を考察するとともに、スポーツにおける美の対象は何かという興味深い考察を行っている。西村清和『遊びの現象学』【078】は、かくれんぼ、おもちゃといった身近な遊戯経験の分析から、人間の感性的経験の根本にある構造的な「遊び」の考察に進み、フィクション論や賭博論へとつなげるスリリングな著作だ。谷川渥『美学の逆説』【086】、とりわけ第IV 章「美的距離の現象学」は、距離という概念を軸に美的経験が考察されている(なお、同書では「あらゆる美学は、その最も本質的な部分において、「現象学」なる言葉を用いようが用いまいが多かれ少なかれ現象学的記述を含むと考えることができる」と述べられており、これはまさに『ワードマップ 現代現象学』【000】で提示する美学観と同じものである)。またベーメ『雰囲気の美学:新しい現象学の挑戦』【085】は、「雰囲気」という概念を軸に、美的経験論を構築し直そうとする意欲的な試みである。現代日本の美学者による美的経験論としては津上英輔『あじわいの構造─感性化時代の美学』【079】を紹介しておこう。津上は、ノスタルジー、観光、ラジオ体操といった興味深い観点から美的経験論の新たな諸相を切り開いている。

 最後に、小熊正久・清塚邦彦編著『画像と知覚の哲学』【080】を紹介しておく。分析哲学者と現象学者の共同研究の成果であるこの論文集は、現代哲学が今後進むべき一つの方向性を指し示している。(森 功次)

070 佐々木健一『美学辞典』

ノエーシス(知性認識)に対するアイステーシス(感性認識)の学たる美学には、インガルテンからメルロ=ポンティにいたる現象学者も寄与。その見取図を本書で。 岡本源太(美学、岡山大学教員)

078 西村清和『遊びの現象学』

現象学的遊戯論ではまずフィンクが著名だが、本書はより原初的な遊動の現象から遊戯論を、さらにフィクション論から言語ゲーム論までを刷新する。 岡本源太(美学、岡山大学教員)

071ステッカー『分析美学入門』

美学において大事なのは現象学的態度であって、分析哲学とか分析美学とかは重要ではない、、、などと考えているひとは、いますぐこの本を読むべき。現代美学のスタートラインに立つための一冊。 森 功次(美学、山形大学学術研究員)

2-4 世界(佐藤 駿)

096
H・ドレイファス、
C・テイラー(村田純一ほか) 2016
法政大学出版局
087 G・バークリ(大槻春彦) 人知原理論 1958 岩波書店
088 A・ショーペンハウアー (西尾幹二) 意志と表象としての世界I 2004 中央公論新社
089 A・ショーペンハウアー (西尾幹二) 意志と表象としての世界II 2004 中央公論新社
090 A・ショーペンハウアー (西尾幹二) 意志と表象としての世界III 2004 中央公論新社
091 L・ウィトゲンシュタイン (野矢茂樹) 論理哲学論考 2003 岩波書店
092 佐藤 駿 フッサールにおける超越論的現象学と世界経験の哲学 2015 東北大学出版会
093 植村玄輝 意識・存在・真理:フッサール『論理学研究』を読む 2017 知泉書館
094 H・パトナム(野本和幸ほか) 理性・真理・歴史:内在的実在論の展開(新装版) 2012 法政大学出版局
095 J・マクダウェル(神崎 繁ほか) 心と世界 2012 勁草書房
096 H・ドレイファス、C・テイラー(村田純一ほか) 実在論を立て直す 2016 法政大学出版局
097 門脇俊介 理由の空間の現象学 2002 創文社
098 E・フィンク(座小田豊ほか) 存在と人間:存在論的経験の本質について 2007 法政大学出版局
099 武内 大 現象学と形而上学 2010 知泉書館
100* I・カント(原 佑) 純粋理性批判 上 2005 平凡社
101* I・カント(原 佑) 純粋理性批判 中 2005 平凡社
102* I・カント(原 佑) 純粋理性批判 下 2005 平凡社
103* N・グッドマン(菅野盾樹) 世界制作の方法 2008 筑摩書房
104* ヒラリー・パトナム (野本和幸ほか) 心・身体・世界:三つ撚りの綱/自然な実在論(新装版) 2011 法政大学出版局
105* 倉田 剛 現代存在論講義I 2017 新曜社

 世界は何からできているのか、世界はその本性から言ってどのようなものなのか──。その趣きと形こそ違え、哲学の始まりにあった問いがなお哲学の問いとして生きつづけているということは、科学的進歩観に慣れてしまった現代人の目にはいささか奇妙に映るかもしれない。しかしこのことは、私たちが亡き人々との対話を生き生きと続けてゆくことができるという哲学の喜ばしい特徴の一例である。>>解説文を開く/閉じる

 近代科学の金字塔であるニュートン『プリンキピア』は1687年の公刊。その2年前にアイルランドに生まれたバークリは、25歳にして『人知原理論』【087】を著す。後に「観念論(idealism)」と呼ばれることになるその主張「存在するとは知覚されることである」は、フッサールの現象学に親和性がある。〈世界は経験と独立の実体ではない〉というテーゼは、私たちの経験に即して世界を捉えなおそうとするかぎり、どうしても真剣に考える必要がある。カントなどはバークリを「陶酔的観念論」などと酷評したが、逆に評価したのはショーペンハウアーである。「世界は私の表象である」という端的な一文から始まる『意志と表象としての世界』【088-090】は、単に「古きよき」哲学の魅力をたたえているだけではない。「世界は私の意志である」というテーゼへと旋回する第二巻で展開される身体論は、私たち(主観)が同時に身体的な存在であるという洞察を積極的に取りあげた点でも異色と言えよう。

 ドイツ観念論が次第に影響力を失い、フッサールの思索を通じて現象学も次第に形を整えはじめたころ、フレーゲやラッセルの哲学に影響を受けた哲学者のうちでは、いわゆる「言語(分析)哲学」が生まれつつあった。ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』【091】が「言語論的転回」の中心となる。とはいえ、この小著を単なる論理学の哲学の本と見なすのは不可能だろう。例えば「世界と生は一つである」という主張を考えてみればよい。なるほどこの小さな著作で主役となっているのはもはや意識や主観ではなく言語であるが、そこに描かれた「語られるもの」と「示されるもの」との対比に、ショーペンハウアーの見ていた世界の2 つのアスペクト(表象と意志)がかすかに余韻を残している──そんなふうに本書を読んでみるのも一興だろう。

 現象学に戻って言えば、『論理哲学論考』とフッサールの観念論に発想の近さを見出すのはそれほど難しいことではない。佐藤『フッサールにおける超越論的現象学と世界経験の哲学』』【092】は、ウィトゲンシュタインの「論理空間」に比せられる「志向的空間」という概念を用いながら、20 世紀最初で最後の偉大な観念論者の姿を描き出そうと試みている。もし、このようなフッサール像に違和感を覚える向きがあるなら、まずは植村の著作『真理・存在・意識』【093】に目を通していただきたい。フッサールの抱きつづけた「形而上学」への関心がいかに彼の現象学と結びついているかを知ることができよう。

 『論理哲学論考』はまた「論理実証主義」と呼ばれる思想をインスパイアすることによって間接的に「科学哲学」の勃興に寄与することになったが、戦後にはその潮流のうちで「理性」と世界の関係が再び問い直されてゆくことになる。パトナム『理性・真理・歴史』【094】は「ものと知性の対応」を中心的な観念とする真理観を批判して、「世界と心が相携えて世界を制作する」という「内在的実在論」を展開する。あえて言えば、こうした〈観念論ではないギリギリのラインで説かれる実在論〉は、世界をめぐる今日の哲学的議論にしばしば見られる特徴である。この種の議論に広汎な影響を与えたマクダウェルの『心と世界』【095】もまた、「概念の無限界性」を説きつつ、「観念論」と呼ばれることに抵抗する議論を与えることを忘れない。ドレイファス/テイラー『実在論を立て直す』【096】は、ハイデガーとメルロ=ポンティによる(現象学的)洞察を組み込みながら実在論を論じなおす最新の文献である。

 マクダウェルの『心と世界』は「理由の空間」(セラーズ『経験論と心の哲学』【230】に由来する概念)のうちにいわば世界そのものを位置づけなおそうとしている。「理由の空間」は規範的であって自然化されることを厭う。門脇『理由の空間の現象学』【097】は、このアイディアを引き受けながら、伝統的な現象学の志向性概念を新たに考えなおす。後期フッサールの立場を〈非概念的な知覚経験の内容を述定的判断として明示化する志向性〉という観点から捉えなおそうとする試みなどは、今日なお展開されるべき重要なテーマを示唆している(同じ著者による『フッサール』【045】も参照していただきたい)

 経験と世界をめぐってなされてきた哲学者たちの思索のごく一部を紹介してみたが、最後にフッサール晩年の助手を務め、ハイデガーにも学んだフィンクが展開した思索にも触れておこう。例えば『存在と人間』【098】はヘーゲルの『精神現象学』を読み解きつつ、独自の 宇 宙 論 コスモロジー を展開する。日本語で読めるフィンクの著作は多くないが、武内の 『現象学と形而上学』【099】は、世界(と人間)をめぐるフィンクの思索をフッサール、ハイデガーをはじめとする現象学の伝統に接続しながら読み解く数少ない優れた研究書のひとつである。(佐藤 駿)

入門書はいくつか読んだけど、フッサール本人の書いたものはまだ難しすぎる…。 そんな人にお薦めの本です。 専門書なのですいすいとは読めないかもしれないけれど、著者の丁寧な議論をたどっていけば、フッサールの主著『イデーンI』を読むための備えができているはず。 植村玄輝(哲学、岡山大学教員)

初期フッサールの主著が、これほど徹底的に1冊の哲学書として読まれたことはかつてあったでしょうか。
本書によってはじめて『論理学研究』が真の古典になったのかもしれません。
文献解釈と論証とのバランスのとれた論述は、研究史にも稀な専門性にもかかわらず読みやすい。 吉川 孝(倫理学、高知県立大学教員)

『ワードマップ 現代現象学』執筆者世代にとってのある種のトラウマの書。「こんなことができるなら私も現象学をやる!」と思ってそのまま大学院に進学した人も結構いるはず(少なくともここに一人)
著者の早逝があらためて惜しまれる。 植村玄輝(哲学、岡山大学教員)

2-5 魂(植村玄輝)

110
T・クレイン(植原 亮) 2010
勁草書房
106 J-P・サルトル(竹内 芳郎) 自我の超越:情動論素描 2000 人文書院
107 R・インガルデン (武井勇四郎、赤松常弘) 人間論 法政大学出版局
108 M・シェーラー (亀井裕、山本達) 宇宙における人間の地位 2012 白水社
109 H・L・ドレイファス (門脇俊介ほか) 世界内存在 2000 産業図書
110 T・クレイン(植原 亮) 心の哲学:心を形づくるもの 2010 勁草書房
111 中畑正志 魂の変容:心的基礎概念の歴史的構成 2011 岩波書店
112 信原幸弘 ワードマップ 心の哲学 2017
113 源河 亨 知覚と判断の境界線:「知覚の哲学」基本と応用 2017 慶應義塾大学出版会
114 D・チャーマーズ (太田紘史ほか) 意識の諸相 上 2016 春秋社
115 D・チャーマーズ (太田紘史ほか) 意識の諸相 下 2016 春秋社
116 D・カッツ (東山篤規、岩切絹代) 触覚の世界 2003 新曜社
117 T. Crane Aspects of Psychologism 2014 Harvard U. P.
118* ウィリアム・フィッシュ (山田圭一ほか) 知覚の哲学入門 2014 勁草書房
119* 平井靖史ほか編 ベルクソン『物質と記憶』を解剖する 2016 書肆心水

 「魂≒心」についての現象学的探求は、私たちは自分の心をどのように経験するのかという点を最重視する『ワードマップ 現代現象学』【000】、「5–2 心身問題」を参照)。したがって現象学者たちにとって、心とはまずもって意識のことだ。だが、古典的な現象学者のほとんどが、経験の場としての意識を閉じた領域として理解することに抵抗し、意識の志向性——意識が世界に向かって開かれていること——を強調してきたという事実を忘れてはいけない。>>解説文を開く/閉じる

たとえば、意識を非人称的な超越論的領野として捉えるサルトル『自我の超越』【106】によれば、自我さえも意識のなかにはなく、むしろ意識の対象として世界内に存在するのである。サルトルほど過激な主張に至らないにしても、多くの現象学者たちは、意識の世界への開放性を手掛かりに、心に関する考察の範囲を意識から世界内の行為主体へと拡張(あるいは転換)してきた。たとえばR・インガルデン『人間論』【107】では、一方で身体を備え因果的世界に組み込まれながらも、他方で行為や責任の主体となり価値を実現する私たち「人間」のあり方が論じられている。同書をM・シェーラー『宇宙における人間の地位』【108】——シェーラーによれば、人間は世界に属すると同時に、ある意味では世界を超えた「精神」も持つ——と併読することで、初期現象学における人間論についての見通しが得られるはずだ。また、フッサールやハイデガーやメルロ= ポンティを彼らの隣に並べることで、世界内の主体としての私たちについて現象学が何を論じてきたのかが、さらに奥行きをともなって見えてくるだろう。その手掛かりとして、ここではH・L・ドレイファスのハイデガー論『世界内存在』【109】を挙げておく。

 以上をふまえ現代哲学を見やると、分析哲学者たちが意識と志向性を切り離しがたいものとして論じ始めたことが目を引く。こうした状況の変化を明快に描き出す論文「経験の表象的特性」(2004年)でD・チャーマーズが指摘するように、少し前までの分析哲学では、意識と志向性は別個に論じられてきたのである。同論文を含むチャーマーズ『意識の諸相』【114-115】は、最近の分析哲学における意識についての議論の展開を知るのにうってつけの一冊である。また、意識と志向性を密接に関係づける問題設定の(再)浮上は、近年生じた分析哲学から現象学への接近の背景を用意したもののひとつでもある(この接近については「現代現象学」の項も参照)。この流れのなかで、特に心の哲学に関連する重要著作として注目したいのは、T・クレイン『心の哲学』【110】だ。クレインは同書で、現象学的な発想を取り入れつつ、20 世紀後半の英語圏の議論をよくもわるくも支配してきた物理主義的な傾向とは異なる心の哲学の方向性を包括的に打ち出すのである。クレインのより最近の立場は、心的なものに関する「心理主義」──心についての探求を言語哲学的な考察などに丸投げするのではなく、心をあくまでも心的なものとして捉える立場──を宣言する論集『心理主義の諸相』【117】にまとめられている。また、分析哲学的な心の哲学が現象学的な問題設定に接近した日本での良質な論考として、「何が知覚可能なのか」という問いにフッサールやシェーラーも参照しながら取り組む源河 亨『知覚と判断の境界線』【113】を挙げておく(ちなみに同書は、知覚の哲学と美学を結びつける試みの書でもある)

 現象学的な心の哲学の今後の展開として期待される方向性のひとつは、世界内の行為主体としての心という古典的現象学の発想を、現代の議論のなかにより実質的な仕方で取り込むというものである(『ワードマップ 現代現象学』で論じられた現象学的な「身身」二元論もその一例である)。同様の路線の研究はもちろんノエ【027】やギャラガー&ザハヴィ【024】によって着手されているが、それが心身問題も含めた心の哲学の全体にもたらすインパクトについては、いまだに大まかな見積もりさえできていないというのが現状だろう。現象学的な心の哲学がさらに前進するためには、大局的な見通しを持つことがこれまで以上に必要になる。こうした状況において、中畑正志『魂の変容』【111】は、通時的な大局的観点を提供してくれるだろう。現代の心の哲学の思考様式を規定する重要概念が成立する過程を跡づけ、心についてのアリストテレス的な描像の意義をあらためて論じる同書では、ブレンターノと志向性に関しても、著者の学識に裏打ちされた綿密な考察が繰り広げられる。共時的な大局的観点については、定番の議論から最新のトピックまでを豊富な参考文献とともにコンパクトに概説した信原幸弘編『ワードマップ 心の哲学』【112】が助けになる。また、ベルクソンと心の哲学の接続をテーマにした平井ほか編『ベルクソン『物質と記憶』を解剖する』【119】も、現象学の独自性を浮き彫りにするための参照点のひとつになりうる。最後に、現代の心の哲学が避けて通ることができない、心の経験科学との関連について軽く触れておきたい(詳しくは「3-1 認知」を参照)。シェーラーやメルロ= ポンティのような古典的現象学者がすでに同時代の心の経験科学の成果を自分の議論に取り入れていたことは、よく知られている。だが実は、現象学的な観点を心の経験科学に取り込む逆向きの方針にも、同じくらい長い歴史がある。D・カッツ『触覚の世界』【116】は、現象学的な実験心理学に関する、日本語で読める貴重な一冊である。(植村玄輝)

志向性概念をブレンターノからアリストテレスに遡った第五章はじめ、主観性・感情・想像力の諸概念が思想史的に拡張される。現象学の拡張のためにも必読。 岡本源太(美学、岡山大学教員)

106サルトル『自我の超越』

〈エゴEgo〉とは意識の中に住まう「住人」ではない! 心と世界との関係を一新した、初期フランス現象学の画期的著作『自我の超越』。合本の『情動論素描』も、感情を「世界把握の一方法」として捉えるという、斬新かつ独特の知見に溢れている。何よりもオススメなのは、、、これ一冊で二冊読める! 森 功次(美学、山形大学学術研究員)

志向性の問題を中心に心の哲学の地図を描きなおすクレインの試みは、現象学に関心のある人にこそもっと読まれるべき。
索引を見て「あんまり現象学者出てこないな」とスルーした人もこの機会にぜひ。 植村玄輝(哲学、岡山大学教員)

2-6 神(武内 大・吉川 孝)

003
J-L・マリオン (永井 晋、中島盛夫)2010
法政大学出版局
120 D・ジャニコー (北村 晋ほか) 現代フランス現象学:その神学的転回 1994 文化書房博文社
121 E・レヴィナス(合田正人) 全体性と無限:外部性についての試論 1989 国文社
122 E・レヴィナス(内田 樹) 観念に到来する神について 新装版 2017 国文社
123 M・アンリ(北村 晋) 現出の本質 上 2005 法政大学出版局
124 M・アンリ(北村 晋) 現出の本質 下 2005 法政大学出版局
125 M・アンリ(中 敬夫ほか) 実質的現象学:時間・方法・他者 2000 法政大学出版局
126 J-L・マリオン (芦田宏直) 還元と贈与:フッサール・ハイデガー現象学論攷 1994 行路社
127 J-L・マリオン (永井 晋、中島盛夫) 存在なき神 2010 法政大学出版局
128 J・デリダ (小林康夫、西山雄二) 名を救う:否定神学をめぐる複数の声 2005 未来社
129 永井 晋 現象学の転回:「顕現しないもの」に向けて 2007 知泉書館
130 新田義弘 世界と生命:媒体性の現象学へ 2001 青土社

 1991 年にD・ジャニコーは、E・レヴィナス、M・アンリ、J-L・マリオンらの現象学を「現象学の神学的転回」と特徴づけ、このような趨勢を現象学からの逸脱として非難している『現代フランス現象学:その神学的転回』【120】。もとより、彼らの狙いは、端的に言うなら、現象概念を存在概念から解放し、M・ハイデガーが批判した「存在・神・論」という図式には収まらない神学の可能性を追求することにあった。>>解説文を開く/閉じる

 レヴィナスは、最初の主著『全体性と無限:外部性についての試論』【121】において、志向性の意味形成(E・フッサール)や現存在の存在理解(ハイデガー)の解明を、すべてを「同」の地平に囲い込もうとする「全体性」の哲学と批判している。そのうえで、「同」に回収されえない「他」の「超越」が、R・デカルトにおける「神」の「無限」の「観念」と関連づけられ、私たちの思考のうちでなおその思考を凌駕するものと位置づけられる。具体的には、他人の「顔」に直面するときの「覚醒」、「苦痛」、「受苦」などの場面のうちに、あらゆる思考に先立つ「倫理」の水準が見届けられる『観念に到来する神について』【122】

 アンリは、見るものと見られるものとの「隔たり」によって規定される現象を唯一のものと見做す立場を「存在論的一元論」として批判し、フッサールやハイデガーが、「超越」を基調としたギリシャ的な現象概念に囚われていることを鋭く指摘する『現出の本質』【123-24】『実質的現象学:時間・方法・他者』【125】。アンリはこのような現象理解によって隠蔽された「生」の内在領域、すなわち「自己触発」、「情感性」の内実を探究し、情感性の内に「絶対者の自己啓示」を見てとる。後にアンリは、人間的生の自己触発と神の生の自己触発を区別し、他方で両者の媒介機能をキリスト教の「受肉」モデルによって語ろうとしている『受肉:「肉」の哲学』、法政大学出版会、2007 年)

 マリオンは、存在・神・論的な神のもつ「偶像性」を克服すべく、否定神学に依拠しつつ「存在なき神」の探究に向かう。マリオンは、「神」の語に十字架の×印をつけて「×」という表記を用いるが、それは神の存在の抹消ではなく、我々の思考の「飽和」という意味での抹消を意味している『存在なき神』【127】。こうした議論の方法論については、『還元と贈与:フッサール・ハイデガー現象学論攷』【126】において検討される。フッサールによる志向的対象性への還元、ハイデガーによる現存在への還元に次ぐ第三の還元として「呼び声の純粋形式」への還元が導入され、この還元の先に「×」という贈与者が示唆される。

 ところで、J・デリダの「脱構築」もまた、否定神学との類似性がしばしば指摘されていた。デリダが否定神学について論じた『名を救う:否定神学をめぐる複数の声』【128】は、後にマリオンから批判を受けることになる。しかし、両者の否定神学に対するスタンスのとり方は全くもって対照的である。デリダが脱構築の果てに見出したのは、超越的な神ではなく、真理を欠き、制御し難く、必然的な非起源としての「コーラ」であった。

 いずれにせよ、彼らの試みは、晩年のハイデガーが提唱した「顕現せざるものの現象学」の具体的展開と見做すこともできる。或いは、現象学的立場に身を置く限り、せめてこの世界の見えないものに探究領域を限定すべきなのであろうか。

 ここで日本の現象学研究についても触れておきたい。新田義弘は、「顕現せざるものの現象学」の構想を、神学ではなく、フッサール的な経験の深層分析へと生かし、他方で否定神学の系譜を入念に辿る作業を通じて、そこから「絶対者の自己遂行」の論理を抉り出し、さらにこれを脱神学化して「超越論的媒体性」の機構へと鋳直していく『世界と生命:媒体性の現象学へ』【130】。これに対して永井晋は、新田の「媒体性の現象学」を継承しつつも、神学的領域へと切り込んでいく。永井は、マリオンのイコン論、アンリの受肉論、レヴィナスのエロス論においても尚残存する偶像化の傾向を看破し、とりわけイスラム神秘主義におけるイマジナル論を手掛かりとしつつ、神の純粋現象そのものへと肉薄する『現象学の転回:「顕現しないもの」に向けて』【129】

 たしかに、神的現象を語るには、少なくとも従来の現象学的方法では困難を極める。しかし現象学的方法が、固定されたマニュアルのようなものではなく、探究されるべき事象の要求に応じて自ら変貌を遂げる自在さを有していることも決して忘れてはならない。神的現象をどこまで具体的に記述できるのか。その際、分析の進行とともに変貌を遂げた方法を、どこまで現象学的なものとして許容しうるのか。或いは現象学の定義そのものが再考を迫られることになるのであろうか。(武内 大・吉川 孝)

真理論的関心に貫かれた、著者独自の「媒体性の現象学」の試み。
読者は、本書の叙述を通して、近代の思惟の自己変貌の過程を著者と共に追体験してゆくことができる。
地平の論理を超えて、知の発生の原点に迫る。 田口 茂 (哲学、北海道大学教員)

現代の哲学・諸学との接点

3-1 認知(宮原克典・新川拓哉)

140
M・メルロー=ポンティ (竹内芳郎ほか) 1974
みすず書房
131 門脇俊介、信原幸弘編 ハイデガーと認知科学 2002 産業図書
132 A・クラーク (呉羽 真ほか) 生まれながらのサイボーグ:心・テクノロジー・知能の未来 2012 春秋社
133 F・ヴァレラほか (田中靖夫) 身体化された心:仏教思想からのエナクティブ・アプローチ 2001 工作舎
134 河野哲也 環境に拡がる心:生態学的哲学の展望 2005 勁草書房
135 田中彰吾 生きられた〈私〉をもとめて:身体・意識・他者 2017 北大路書房
136 信原幸弘、太田紘史編 シリーズ新・心の哲学Ⅱ(意識篇) 2014 勁草書房
137 C・コッホ (土谷尚嗣、小畑史哉) 意識をめぐる冒険 2014 岩波書店
138 G・ノルトフ(高橋 洋) 脳はいかに意識をつくるのか:脳の異常から心の謎に迫る 2016 白揚社
139 村田純一 知覚と生活世界:知の現象学的理論 1995 東京大学出版会
140 M・メルロー=ポンティ (竹内芳郎ほか) 知覚の現象学1 1967 みすず書房
141 M・メルロー=ポンティ (竹内芳郎ほか) 知覚の現象学2 1974 みすず書房
142 A. Gurwitsch Studies in Phenomenology and Psychology 1979 Northwestern U. P.
143* S・コイファー、A・チェメロ (田中彰吾、宮原克典) 現象学入門:新しい心の科学と哲学のために 2018 勁草書房
144* A・クラーク (池上高志、森本元太郎) 現れる存在:脳と身体と世界の再統合 2012 NTT出版
145 松葉祥一ほか編 メルロ=ポンティ読本 未定 法政大学出版局

 「現象学は、一人称的観点から私たちの経験を探究する」『ワードマップ 現代現象学』【000】第1章)。では、現象学は、科学的客観性という三人称的観点から心を探究する「心の科学」とどう結びつくのか。メルロ=ポンティは『知覚の現象学』【140-141】『人間の科学と現象学』【146】において、現象学の経験探究に科学的客観性の観点をとりいれる一種の「自然主義」の思想を「現象学的実証主義」として打ち出した。>>解説文を開く/閉じる

 近年では、自然主義的な現象学は、神経科学や人工知能の発展とともに急成長をとげている「認知科学」の分野との接点で活発に展開される。ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』【024】は、この分野の研究状況を概観した(やや難易度の高い)入門書である。本書が難しければ、現象学と心の科学の影響関係を基礎的な部分から解説するコイファー&チェメロ『現象学入門:新しい心の科学と哲学のために』【143】から始めるとよい。逆に、より専門的な議論に進むならば、ハイデガーの世界内存在の観点から認知科学を捉え直すことをテーマに、分析哲学と現象学、日本と海外を代表する研究者の論考を集めた門脇・信原(編)『ハイデガーと認知科学』【131】が最適である。現在の研究動向から少し距離をおいて自然主義的な現象学について考えるならば、いち早く認知科学との接点で現象学的哲学を展開してきた村田純一の論文集『知覚と生活世界』【139】が重要な手がかりを与えてくれる。

 認知科学と現象学の有意義な連携を特に期待できる二つのトピックとして「身体」と「意識」がある。長らくこの両者は、認知科学の主流において、まともな認知科学の対象にはならないと想定されてきた。その背景となったのは、「認知とは脳内で実現する無意識的な情報処理にほかならない」という共通了解である。しかし、特に1990 年代以降、認知科学をとりまく状況は大きく変化している。

 一方で、近年の認知科学では「身体性認知」の名のもとで、身体や環境の認知的意義が積極的に検討されている。そして興味深いことに、身体性認知の論者たちは、ほぼ共通してメルロ=ポンティの思想の影響を公言する。身体や環境の具体的な位置づけに関しては諸説ある。クラーク『生まれながらのサイボーグ』【132】は、情報処理の観点を堅持しながら身体や環境の意義を強調する「拡張認知」の立場を展開する(もう少し専門性の高い『現れる存在』【144】も良書である)。ヴァレラら『身体化された心』【133】は、オートポイエーシス理論と経験に対する一人称的な観点を融合した「エナクティヴ・アプローチ」という大胆な考え方を打ち出す(本書がわかりにくければ、松葉・本郷・廣瀬(編)『メルロ= ポンティ読本』【145】所収の「メルロ=ポンティと認知科学」を参照いただきたい)。ノエ『知覚のなかの行為』【027】は、知覚を一種の行為とみなす「知覚の感覚運動理論」を唱える。国内の研究でいうと、河野『環境に拡がる心』【134】がギブソンの生態心理学を中核にすえた独自の身体性認知の理論を論じる。最後に、メルロ=ポンティの思想に影響を受けて発展してきた身体性認知の最新研究をふたたび自然主義的な現象学的経験探究にとりいれて、自己経験の本質を追求する意欲的な著作として、田中『生きられた〈私〉をもとめて』【135】を強くお薦めする。

 他方で、1990 年代以降の認知科学では「科学的意識研究」の可能性も積極的に模索されている。現代の科学的意識研究は「意識の神経相関」、すなわち、意識経験に対応する神経活動を特定することを目標に始まったが、最近では意識と脳のより根本的な結びつきを科学的に解明する試みも登場している。コッホ『意識をめぐる冒険』【137】は、科学的意識研究の通史や方法論を自伝的エピソードも交えて分かりやすく概説し、また、なぜ脳に意識が宿るのかという根本的な問いに取り組む代表的な科学理論として「意識の統合情報理論」を紹介する。ノルトフ『脳はいかに意識をつくるのか』【138】は、統合失調症やうつ病における自己や情動の経験に関する現象学的な探究を行いつつ、「意識の神経素因」という概念を中核にすえて意識の本質を探る野心的な一冊である。もちろん、科学的意識研究の可能性は哲学的な問題でもあり続けている。このテーマに関する英米系の心の哲学の議論を把握するには、信原・太田(編)『新・心の哲学 意識編Ⅱ』【136】から始めて、チャーマーズの大著『意識の諸相』【114-115】に挑戦するとよい。一方で、科学的意識研究と現象学の関係は未知数の部分が大きい。この点を考えるには、「意識野」の理論を提唱したグールヴィッチの論文集『現象学と心理学に関する諸研究』【142】がよい出発点になりうる。より歴史的な観点から始めるならば、20 世紀の現象学の心理学/精神医学への影響を網羅的に論じたシュピーゲルベルク『精神医学・心理学と現象学』【187】が参考になる。(宮原克典・新川拓哉)

140-141 メルロ=ポンティ『知覚の現象学』1 2

メルロ=ポンティは「性」や「自由」等々と名づけられる以前の私たちの生の経験を誰よりもありありと描き出す。その息をのむほど繊細な記述の道ゆきを辿る読書は、それ自体が至上の生の経験になるだろう。押しも押されもしない現代の古典であり、また(ギャラガー&ザハヴィも言うように)認知科学との関連といった今日的課題を考える上でも尽きせぬ知的刺戟の源泉でありつづける名著。 加藤秀一(社会学、明治学院大学教員)

3-2 政治と身体(池田 喬)

155
I・M・ヤング(岡野八代ほか) 2014
岩波書店
146 M・メルロ=ポンティ (木田 元ほか) 人間の科学と現象学 2001 みすず書房
147 S・de・ボーヴォワール (第二の性を原文で読み直す会) 第二の性1 2001 新潮社
148 S・de・ボーヴォワール (第二の性を原文で読み直す会) 第二の性2 上 2001 新潮社
149 S・de・ボーヴォワール (第二の性を原文で読み直す会) 第二の性2 下 2001 新潮社
150 S・de・ボーヴォワール (朝吹三吉) 老い 上 2013 人文書院
151 S・de・ボーヴォワール (朝吹三吉) 老い 下 2013 人文書院
152 M・ヌスバウム(神島裕子) 正義のフロンティア:障碍者・外国人・動物という境界を越えて 2012 法政大学出版局
153 E・F・キテイ(岡野八代ほか) 愛の労働あるいは依存とケアの正義論 2010 白澤社
154 N・ノディングス(佐藤 学監訳) 学校におけるケアの挑戦 2007 ゆみる出版
155 I・M・ヤング(岡野八代ほか) 正義への責任 2014 岩波書店
156 E・レルフ(高野岳彦ほか) 場所の現象学:没場所性に抗して 1999 筑摩書房
155 H・ルフェーブル(森本和夫) 都市への権利 2011 筑摩書房
157 D・ハーヴェイ(森田成也ほか) 反乱する都市 2013 作品社
158* I. M. Young On Female Body Experieinces:"Throwing Like a Girl" and Other Essays 2005 Oxford U. P.
159* 『理想』第695号 特集「男女共同参画」 2015 理想社
160* 岡野八代 フェミニズムの政治学:ケアの倫理をグローバル社会へ 2012 みすず書房

 肉体を魂の牢獄と捉えたプラトン以来、政治哲学の大部分において身体と政治には断絶があった。性、病、障害、老いなどの身体経験は個人的な事柄とされ、分配や正義のような第一級の政治的主題とは見なされてこなかった。他方、現象学は、フッサール以来、主体と世界との関係を身体感覚の次元に至るまで分析し、ハイデガー以来、身体の延長としての家に住むという経験に特別な関心を示してきた。そこにオルタナティブな政治思想を見いだす者は少なくない。>>解説文を開く/閉じる

 フッサールとハイデガーの哲学がドイツからフランスに伝わった時、生きられた経験の学としての現象学は、人間とは何かではなく、人間は何になりうるのかを問う未来志向の実存主義と結びついて政治色を強めた。身体経験として世界内存在を捉えたメルロ=ポンティは、人間を客体として扱う人間科学は人間の主体性を弱体化させ、現象学は政治的主体を生成させるというビジョンを示した『人間の科学と現象学』【146】。身体に関わる科学的言説の政治性に敏感に応答しながら、抵抗的主体を生み出す最も顕著な成果はボーヴォワール『第二の性』【147-149】だ。「個人的なことは政治的である」で知られる第二派フェミニズムの記念碑的著作は、性別による差別を、世界への超越を阻む内在への束縛として現象学的に解明し、「実存が本質に先立つ」という実存主義のテーゼを「女に生まれるのではない、女になるのだ」に具体化した。

 昨年京都賞を受賞したヌスバウムは基調講演で正義の最後のフロンティアは老人だと述べたが、ボーヴォワールの『老い』【150-151】はこの領域に踏み込んでいた。ボーヴォワール以降、フェミニズムと結びついたケイパビリティ・アプローチ、ケアの倫理などの新しい政治哲学が、功利主義や社会契約論が「健康成人男性」モデルに無反省に依拠してきたことの弊害を指摘し、英語圏で影響力をもち始めたことは、性別や年齢の影響で変化する身体経験を扱う現象学の政治思想としての可能性を見積もるための絶好の機会を与えた。ヌスバウムの『正義のフロンティア:障碍者・外国人・動物という境界を越えて』【152】は、ケイパビリティという一種の身体志向性に基づいて政治哲学の転換を促した彼女の一つの到達点を示している。

 ケアの倫理の代表的論者であるキテイは、実際、自らの分析を現象学と時に呼んでいる。契約や選好といった標準的成人の認知能力を人格の要件にするシンガーやロールズの立論を退け、特別なニーズをもつ人へのケアを尺度にする彼女の正義論は、重度認知障碍者である自身の娘のケア経験の分析に基づき、障碍に関するシンガーらの認識論的な無知を暴くことで説得力を増す。哲学者が構築した理論で日常生活者を裁くのではなく、日常経験を分析することで既存の理論の歪みを正し、具体的経験から採用可能な規範を抽出する点など、彼女のアプローチは現象学の認識批判の正統的な継承のようでさえある『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』【153】。老いだけでなく誕生と成長もケアの現場である以上、健康成人男性モデルの弊害を脱した未来社会に向けて、教育が重要テーマになるのは当然だろう。ノディングスはケアの教育を政治の実験場と捉える『学校におけるケアの挑戦』【154】

 差異の政治学の論客として知られるヤングが立ち上げた「フェミニズム現象学」も要注目だ。ヤングは、メルロ=ポンティ、ボーヴォワール、ハイデガーの現象学を活用して、女性的実存とその抑圧の意味を多面的に分析する、アメリカ版『第二の性』のような論考を次々に出版した。唯一翻訳のある遺稿『正義への責任』【155】は、ヌスバウムの序文、アーレント論、過去向きの責めと未来志向の責任についての論考を含む。

 ヤングは、家を建てて住むことを世界内存在の基礎と見なすハイデガーの議論を受け、フェミニズムにおいてほぼ常にネガティブに捉えられてきた家の空間の積極的な政治的意味への再考を促した。狭義の哲学を離れ、地理学に目を向けると、レルフ『場所の現象学:没場所性に抗して』【156】のように、ハイデガーやメルロ=ポンティの生きられた空間の分析をシリアスに捉え、幾何学的に捉えられた都市設計が本当の意味での場所や住むことを奪っているという批判的思考に結びつく例は多い。

 ハイデガーは倫理学の元々の意味に立ち返り、エートスとは住むという意味であり、世界内存在の現象学は根源的倫理学だとしたが、地理学者と異なり、哲学者のほとんどは冷笑した。しかし、本当に存在する政治に目を向けたらどうか。今日の最も激しい闘争は身体の延長としての場所を守る住民の主体性という観点を抜きには理解できない。工場労働者ではなく「居住者」を新たな革命の主体として呼び込んだルフェーブルの『都市への権利』【157】は、この文脈で現象学的に読みなおす価値がある。そのルフェーブルへのオマージュから始まるハーヴェイ『反乱する都市:都市のアーバナイゼーションと都市の再創造』【158】は、世界中の都市で勃発中のシティ・ムーブメントの意味を理解させる。身体の住処としてのホームが物件としてのハウスに完全に占拠されかけている今、住むことの現象学は牧歌的なイメージではなく先鋭的な政治のメッセージに変わりつつある。(池田 喬)

3-3 他人の心(八重樫 徹)

172
小手川正二郎 2015
水声社
162 A. Avramides Other Minds 2000 Routledge
163 J・L・オースティン(坂本百大鑑訳) オースティン哲学論文集 1991 勁草書房
164 野矢茂樹 哲学・航海日誌 I 2010 中央公論新社
165 野矢茂樹 哲学・航海日誌 II 2010 中央公論新社
166 子安増生 心の理論—心を読む心の科学 2000 岩波書店
167 K. Stueber Rediscovering Empathy: Agency, Folk Psychology, and the Human Sciences 2006 A Bradford Book
168 D. Zahavi Self and Others: Exploring Subjectivity, Empathy, and Shame [邦訳: 自己と他者:主観性・共感・恥の探究 2017
[2017]
Oxford U. P.
[晃洋書房]
169 M・シェーラー (吉沢伝三郎、飯島宗享) 同情の本質と諸形式 2002 白水社
170 斎藤慶典 思考の臨界 2000 勁草書房
171 田口 茂 現象学という思考 2014 筑摩書房
172 小手川正二郎 甦るレヴィナス 2015 水声社
173* A・スミス(高 哲男) 道徳感情論 2013 講談社
174* S. Overgaard Wittgenstein and Other Minds 2009 Routledge

 私たちはどうやって他人の心を知ることができるのか。他人の心を知るとはそもそもどのようなことなのか。「他我問題」としてデカルト以来多くの哲学者が挑んできたこれらの問いには、いくつもの異なるアプローチが存在する。他我問題に取り組む哲学者たちは、普段何気なくやっていることが謎として立ち現れ、どうにかしてそれが謎ではないということを示そうとして試行錯誤するわけだが、そこにはいかにも哲学らしい哲学の姿がある。ミルらの類推説をリップスが批判し、フッサールがリップスを批判し、大森荘蔵がフッサールを批判し、野矢茂樹が大森を批判するといった具合に、異なる伝統の垣根を越えて、試行錯誤の歴史が連綿と紡がれてきた(もちろんいま挙げた以外にも数多くの批判の系譜を描くことが可能である)>>解説文を開く/閉じる

 他我問題におけるさまざまな立場を概略的に知るにはA・アヴラミデス『他人の心』【162】が役立つ。他人の心についての現代哲学の重要論文はいくつもあるが、ここでは日本語で読める古典的論文として、J・L・オースティン『オースティン哲学論文集』【163】所収の「他人の心」をまず挙げたい。野矢茂樹『哲学・航海日誌I』【164】は、大森とフッサールの議論を批判的に検討したうえで、ウィトゲンシュタイン的ともいえる自身の立場を鮮明に打ち出している。他人の心の理解に関する研究はもちろん哲学者の専売特許ではなく、経験科学でもさかんに進められている。元々は霊長類研究からはじまった「心の理論(Theory of Mind)」研究は、理論説とシミュレーション説の論争に発展し、心理学者・生物学者・哲学者を巻き込んで今日でも続いている。「心の理論」について概略的に知るには子安増生『心の理論:心を読む心の科学』【166】が役立つ。

 フッサールは他者経験を説明する際に「感情移入(Einfühlung)」という術語をリップスから継承し、しかしリップスとは異なる仕方で用いた。このドイツ語は心理学の文脈で “empathy” と英訳され、定着している。しかし、この語には意味の揺れがつきまとっており、誰がどのような文脈で、またどのような目的で使っているのかに注意する必要がある(日本語でも文脈によって「感情移入」と訳されることもあれば、「共感」と訳されることもある)。この概念の歴史と現代のさまざまなディシプリンにおける用法については、K・シュテューバー『感情移入の再発見:行為者性・素朴心理学・人間科学』【167】が詳しい。現代の共感研究や「心の理論」研究を踏まえ、古典的現象学者の議論を援用しながら他人の心の問題にあらためてアプローチするD・ザハヴィの近著『自己と他者:主観性・共感・恥の探究』【168】は、このテーマに関する現代現象学の重要な成果である。日本の現象学者の近年の成果としては、フッサールを手がかりにしつつ、「身体の響き合い」を基盤とする独自の他者経験論・間主観性論を展開する田口茂『現象学という思考』【171】第7章が興味深い。そこには「自我」や「志向的変様」をめぐって著者が(フッサールとともに・フッサールを超えて)展開してきた深い考察が反映されている。

 他人の心に関する直接知覚説(direct perception theory)は、現代でも検討されている理論的選択肢の一つだが、この立場を100年以上前に提唱していた古典現象学者にM・シェーラーがいる。直接知覚説に共感するにせよ反対するにせよ、シェーラー『同情の本質と諸形式』【169】は現代現象学にとって重要な参照先の一つである。もちろん、その他にも他者経験の問題に取り組んだ現象学者は数多くいる。古典的現象学における他者論の見取り図を得るには、斎藤慶典『思考の臨界』【170】の第III 部第2 章が役立つ。

 最後に、現象学の伝統から出発して他者をめぐる独特の思索を展開したE・レヴィナスにも言及しないわけにはいかない。レヴィナスの思想がどこまで現象学的といえるのかは論争の余地があるが、小手川正二郎『甦るレヴィナス』【172】はレヴィナスをどこまでも現象学者として読み解き、現象学的倫理学の一つのかたちを描き出そうとする意欲作である。

『ワードマップ 現代現象学』【000】第8章では、経験の地図の中に他者経験を位置づけるという観点から、「他人の身体を見ることと他人の心を知ることはどのような関係にあるのか」という現象学的な他者論に典型的な問いについて論じた。ザハヴィをはじめとする何人かの現代現象学者も指摘しているように、他人の心をめぐる現代の議論では、「心の理論」論争の基礎にもなっている知覚経験と高次認知(推論的思考)の区別の問い直しが求められている。そのための手がかりは、フッサールやシェーラーのような古典的現象学者の議論の中にふんだんに見出せるだろうし、認知科学の成果に現象学の立場から説明を与えようとしている論者もいる。さらに、感情移入/共感の現象学を掘り下げることは、倫理学や美学における現象学的アプローチの重要性を示すことにもつながるだろう。現代現象学にやるべきことはまだまだ残されている。(八重樫 徹)

フッサールを読解しても事象そのものには向かわないと思っている人は、この本を手にして打ちのめされましょう。
テキストの緻密な読解が、物、他者、本質などをめぐる哲学の思考として結実して、事象をめぐる開かれた議論を喚起しています。 吉川 孝(倫理学、高知県立大学教員)

「レヴィナス哲学は現象学なのか」という問いにはっきりと肯定的に答え、秘教性を払拭する野心的解釈。ウィリアムズらの近代道徳哲学批判に呼応しつつ、「レヴィナス的倫理学」を構想する。 八重樫 徹(哲学、東京大学大学総合教育研究センター特任研究員)

3-4 法と社会(植村玄輝)

183
A. Salice & H. B. Schmid (eds.) 2016
Springer
175 A・シュッツ(佐藤嘉一) 社会的世界の意味構成 2006 木鐸社
176 A・シュッツ、Th・ルックマン (那須 壽 監訳) 生活世界の構造 2015 ちくま学芸文庫
177 尾高朝雄 ノモス主権への法哲学 2017 書肆心水
178 D・ザハヴィ(中村拓也) 初学者のための現象学 2015 晃洋書房
179 柏端達也 自己欺瞞と自己犠牲 2007 勁草書房
180 大屋雄裕 法解釈の言語哲学 2006 勁草書房
181 P・ウィンチ(森川真規雄) 社会科学の理念 1977 新曜社
182 前田泰樹ほか編 ワードマップ エスノメソドロジー 2007 新曜社
183 A. Salice & H. B. Schmid (eds.) The Phenomenological Approach to Social Reality 2016 Springer
184* E・フッサール (浜渦辰二・山口一郎監訳) 間主観性の現象学 その方法 2012 ちくま学芸文庫
185* E・フッサール (浜渦辰二・山口一郎監訳) 間主観性の現象学 その展開 2013 ちくま学芸文庫
186* E・フッサール (浜渦辰二・山口一郎監訳) 間主観性の現象学 その行方 2015 ちくま学芸文庫

 現象学は、一人称性を備えた経験という観点から哲学の問題に取り組む。しかしだからといって、現象学的な哲学から自分以外の他人が排除されるわけではない『ワードマップ 現代現象学』【000】第8章を参照)。このことは古典的現象学の歴史からも確認できる。経験の主体とは他の主体とともにある主体であるということ──間主観性(相互主観性)──は、このトピックに関する膨大な考察【184-186】を残したE・フッサール以来、現象学者たちによって繰り返し強調されてきたのである。>>解説文を開く/閉じる

 実際、現象学は社会科学に対して影響を残してきた。その代表格はA・シュッツ『社会的世界の意味構成』【175】だろう。現象学的社会学の誕生を告げる同書でシュッツは、「行為の社会的意味はどのように成り立つのか」という(M・ヴェーバーの理解社会学が手をつけなかった)問いに現象学を援用しつつ取り組み、フッサールの間主観性論の重要性をいちはやく強調した。シュッツの現象学への関心は、遺稿をTh・ルックマンが仕上げることによって完成した『生活世界の構造』【176】まで維持される。現象学的社会学は、シュッツのアメリカへの亡命の結果、かの地の社会学の発展にも足跡を残すことになる。その一例として、エスノメソドロジー(EM)をあげることができる。人びとの実践の記述からその実践を導く「人びとの(ethno-)方法論(methodology)」を取り出すことで社会的現実のあり方を明らかにするEM は、経験の観点からの哲学としての現象学とゆるやかに方向性を共有している。現象学的な哲学がより具体的な場面に向かっていく際に、EM はヒントをあたえてくれるに違いない。前田泰樹ほか編『ワードマップ エスノメソドロジー』【182】は、そのための良い手引きとなるだろう。また、行為の理解というヴェーバー以来の課題にウィトゲンシュタインの論理文法という道具立てを用いて応えるP・ウィンチ『社会科学の理念』【181】は、EM と現象学を分け隔てるものは何かを考えるための素材を提供してくれる。以上の点について現象学の側から見通しを得ることができる書籍としては、D・ザハヴィ『初学者のための現象学』【178】がある。同書では、間主観性に関するフッサールらの議論の要を得た解説(第8章)に続いて、現象学と社会学の関係についての概観が、シュッツやEM そして知識社会学への言及とともに与えられている(第9章)。ザハヴィ自身のより踏み込んだ(そして最新の)見解については、『自己と他者』【168】のとりわけ最終部を参照されたい。

 現象学と社会科学の関係を考える際に注目したいもうひとつの動向は、初期現象学における社会哲学の再発見と再評価である。約束することが独自の仕方で他人に関わることに着目し、「社会的作用」という新しい経験のカテゴリーを導入したA・ライナッハ以来、法・共同体・国家といった主題は1920–30年代の現象学がもっとも盛んに論じたトピックのひとつだった『ワードマップ 現代現象学』【000】のコラム「社会の現象学」を参照)。A・サリーチェ& H・B・シュミット編『社会的現実への現象学的アプローチ』【183】は、初期現象学における社会哲学に関する最初の本格的な論集であり、さまざまな人物——フッサールやM・ハイデガーといった大物から、ライナッハやE・シュタインらの通好みを経て、H・シュマーレンバッハのような無名のマニア向けまで——を主題とした論文が収められている。同書によって得られる見通しは、いまだにその全貌の見えないこの失われた伝統から宝物をさらに掘り起こす際に役立つはずだ。この発掘作業の調査対象には日本語で書かれた文献も含まれる。サリーチェとシュミットの編著でも論じられているように、法哲学者の尾高朝雄も、初期現象学における社会哲学の伝統に属するのである。尾高には戦前の『国家構造論』(岩波書店、1936年)のように明確に現象学的な日本語著作もあるが、ここでは戦後の主要著作を集成した『ノモス主権への法哲学』【177】を紹介しておこう。同書に収められた「法哲学における形而上学と経験主義」は、1930年にフッサールの元で学んだ尾高にとって師の超越論的現象学が持つ意義の大きさをうかがわせる好論文である。今後の尾高研究の課題は、同書の残りの論考のように、現象学への明示的な言及が見られない議論に現象学的な発想が(どれくらい)流れ込んでいるのかを見極めることにある。

 最後に、法と社会の現象学を現代哲学のより広い展開のなかに位置づけるための書籍を紹介しよう。サリーチェと【183】を編集したシュミットの『複数的行為』【038】を見ればわかるように、現代現象学はすでに分析哲学における共同行為論への接近を開始している。共同行為──「私たちの行為」として記述される行為──についての日本語で読める書籍としては、自己犠牲的な行為の合理性を論じる過程でこの話題について一章を割いた、柏端達也『自己欺瞞と自己犠牲』【179】がある。古田徹也『それは私がしたことなのか』【067】に収められたコラム「共同行為について」も、現代の議論を概観するのに役立つ。また、初期現象学における社会哲学の意義を評価するにあたっては、大屋雄裕『法解釈の言語哲学』【180】がひとつの参照点となりうる。法解釈という私たちの社会的行為が支える「運動としての法」というアイディアを展開する同書は、問題(法はどのように存在するのか)と基本方針(実践への着目)に関して、尾高の考察も含めたライナッハ以降の現象学的な法哲学とかなりの一致を見せる。そして、両者を(おそらく大きく)隔てる明確な違いのうちのひとつは、EMの場合と同じく、大屋の議論の背景にも(EMにおけるのとは別の解釈が施された)ウィトゲンシュタインがいるという点だろう。(植村玄輝)

「八月革命」によって主権は天皇から国民に移ったのか?
いや、重要なのは主権の在り処ではなく、在り方なのだ。正しい統治の理念「ノモス」が、つねに法と政治を限界づける。民主主義は、その制約のもとで意味を間主観化していく営みにほかならない。
現象学と法哲学が出会う一冊。 吉良貴之(法哲学、宇都宮共和大学教員)

学生時代に現象学者たちがフッサールのどこそこにこんなことが書いてあるという議論ばっかりやっていたのを見ながら「はやく事象そのものへ向かえよ」と思っていた。のちに、エスノメソドロジーに出会って「ん? これが現象学が本来やろうとしていたはずのことではないの?」と目から鱗が落ちました。
現象学の鬼っ子エスノメソドロジーから、現象学のあり方を逆に照らし出すことが大切では? 戸田山和久(哲学、名古屋大学教員)

184-186 フッサール『間主観性の現象学』 I II III

この三巻本は様々なアイデアの宝庫である。
必ずしも間主観性に興味がなくても、折に触れて、思考のヒントとして覗いてみることをお勧めしたい。
フッサールの思考の現場に居合わせ、フッサールに弟子入りするお試し体験が可能になる。 田口 茂(哲学、北海道大学教員)

3-5a ケアと看護1(吉川 孝)

191
P・ベナーほか(早野 ZITO 真佐子) 2015
医学書院
187 H・シュピーゲルベルグ (西村良二) 精神医学・心理学と現象学 1994 金剛出版
188 D・ラングドリッジ (田中彰吾ほか) 現象学的心理学への招待:理論から具体的技法まで 2016 新曜社
189 A・ジオルジ(吉田章宏) 心理学における現象学的アプローチ:理論・歴史・方法・実践 2013 新曜社
190 P・ベナー、J・ルーベル (難波卓志) 現象学的人間論と看護 1999 医学書院
191 P・ベナーほか(早野 ZITO 真佐子) ベナー 看護実践における専門性:達人になるための思考と行動 2015 医学書院
192 M・ヴァン・マーネン(村井尚子) 生きられた経験の探究 2011 ゆみる出版
193* S. カイ トゥームズ(永見 勇) 病いの意味:看護と患者理解のための現象学 2001 日本看護協会出版会
194* H・L・ドレイフュス、S・E・ドレイフュス(菊池理夫ほか) 「道徳性とは何か:道徳的熟達の発展に関する現象学的説明」
『共同主義対普遍主義』所収
1998 日本経済評論社

 現象学は人間科学の方法論としてさまざまな分野において発展しており、そこにはE・フッサールの構想した「現象学的心理学」の正統な後継が見いだされる。現象学的心理学の歴史については、『現象学運動』【005】の著者、H・スピーゲルバーグ(シュピーゲルベルグ)による包括的研究がある『精神医学・心理学と現象学』【187】。精神医学、心理学、教育学などにおける現象学的アプローチ、つまり「人間科学における現象学」は、ヨーロッパや北米などを中心に世界各国に広まった。この動向が人間科学としての看護学の確立の時期と重なったため、現象学的アプローチは看護の質的研究の方法論として積極的に取り入れられた。>>解説文を開く/閉じる

 哲学としての現象学はどのように人間科学に受容されたのだろうか。D・ラングドリッジは、『現象学的心理学への招待:理論から具体的技法まで』【188】において、フッサール、M・ハイデガー、P・リクールなどを背景とするような、心理学における質的研究の方法の諸相を紹介している。現在の看護研究における現象学的アプローチに目を向ければ、フッサールとハイデガーに根ざした方法が有力視されている。一方でA・ジオルジは『心理学における現象学的アプローチ:理論・歴史・方法・実践』【189】において、フッサールの「生きられた世界(生活世界)」の本質分析を人間科学の方法論へと練り上げて、看護学にも大きな影響を与えている。インタヴューなどの素材をもとに体験の意味を取り出す手法は、「本質直観」を人間科学へ適用したものになっている。他方でP・ベナーは、H・L・ドレイファスの『世界内存在』【109】のハイデガー読解に依拠して「解釈学的看護学・解釈的看護学」を展開している。『現象学的人間論と看護』【190】では、ハイデガーにおける「気づかい(ケアリング)」の一次性という洞察をふまえ、看護にかかわるさまざまな現象が検討されている。

 さらにベナーは「技能知」の「ドレイファスモデル」(チェスプレーヤーや航空機パイロットの技能の発達モデル)を手がかりに、看護師の技能知の形成を解明しており、『ベナー 看護実践における専門性:達人になるための思考と行動』【191】はその集大成になっている。看護実践のさまざまな事例を検討したこの体系的著作には、H・L・ドレイファスとS・E・ドレイファスの兄弟も参加しており、看護学と現象学的哲学との共同研究の注目すべき実例になっている。看護師の職業倫理をもある種の技能と見なして、熟達性の獲得という観点から考察する方法は、応用倫理学の分野における現象学からのアプローチとして大きな意味をもつだろうし、「達人」の経験の分析は徳倫理学【062】との関係においても研究課題となるだろう。

 技能知の現象学的解明として忘れてはならないのが、M・ヴァン・マーネンの『生きられた経験の探究』【192】である。そこでは、教えることをめぐる実践知がどのように蓄積されて、優れた行為を導くのかという問題が考察されている。しかも、この著作は、親として子供をケアする経験の意味を解明する「親の現象学」の試みになっている。このような看護や教育における「ケア」の分析はそれ自体において意味をもっているが、現代現象学の観点からは、これらの成果を道徳哲学や政治哲学の文脈(品川哲彦【064】、E・F・キテイ【153】、N・ノディングス【154】との関連において検討することが求められている。現象学とケアとがどのように結びつくかについては、『ワードマップ 現代現象学』【000】のコラム「現象学とケア」においても、いくつかの方向性が示されている。(吉川 孝)

看護における"実践知"と看護師のエキスパート性を追究してきたベナー博士らによる研究の集大成といえる本書は、解釈学的現象学を基盤とした研究はどのように生み出されていくのかという問いにも答えてくれている。 中山洋子(看護学、高知県立大学 特任教授)

3-5b ケアと看護2(前田泰樹)

196
西村ユミ 2001
ゆみる出版
195 佐藤登美・西村ユミ編 「生きるからだ」に向き合う:身体論的看護の試み 2014 へるす出版
196 西村ユミ 語りかける身体:看護ケアの現象学 2001 ゆみる出版
197 看護研究49(4) 特集 看護と哲学:共同がもたらす新たな知 2016 医学書院
198 西村ユミ 看護師たちの現象学:協働実践の現場から 2014 青土社
199 村上靖彦 摘便とお花見:看護の語りの現象学 2013 医学書院
200 前田泰樹 心の文法:医療実践の社会学 2008 新曜社
201* 松葉祥一・西村ユミ編 現象学的看護研究:理論と分析の実際 2014 医学書院
202* 看護研究45(4) 特集 経験を記述する:現象学と質的研究 2012 医学書院
203* 看護研究44(1) 焦点 現象学的研究における「方法」を問う 2011 医学書院
204* 現代思想 2013年8月号 特集 看護のチカラ:「未来」にかかわるケアのかたち 2013 青土社

 日本での「ケアと看護」という領域への現象学の影響について考えるためには、まず看護実践の側から生じてきた問いについて考えておく必要がある。佐藤登美・西村ユミ編として2014 年に出版された身体論的看護に関する書物 【195】『「生きるからだ」に向き合う』には、若き佐藤が1970 年代に臨床の看護実践の現場に身を置きながら執筆したエッセイが収録されているが、そこには、科学化していく看護実践に対して、身体論的観点からとらえることの重要性が率直に示されている。患者がどのような経験をしているのか、その経験に看護師はどのように関わっているのか、といったことは、臨床の看護師にとっての問題でもある。そこにこそ、経験の哲学としての現象学へと接近していく看護実践固有の事情があったのであり、佐藤が提示した「身体」の呼応や「痛み」と「思い」の区別を巡る論点は、後の研究『語りかける身体』【196】『心の文法』【200】など)において再発見されることになる。>>解説文を開く/閉じる

 こうした看護実践からの現象学への接近と、哲学の側からの臨床実践への関心とが交差したところにおかれるのが、西村ユミ『語りかける身体』【196】という書物である。いわゆる植物状態と呼ばれる患者と看護師との関わりを記述した本書においては、両者のはっきりと見てとることのできない関係へと迫るために、看護師自身の経験へと立ち戻り、その経験の内側から記述していこうとする方針が採られている。一例をあげると、コミュニケーションの手段が「確立できていない」と言いつつも、微妙な瞬きや握手を通じて患者と交流している看護師が語った、「視線が絡む」という言葉を軸に記述が展開されていく。このように現場に身をおきつつインタビューを行い、現象学的な思考を手がかりとして、経験の記述を行う研究のあり方は、日本の看護研究に強い影響を与えることになった。

 その後、看護学における現象学は、日本においても質的研究の方法論の一つとして確立されていくことになる。フィールドワークやインタビューを主たる方法とする質的研究は、人類学や社会学の中でその方法が洗練されてきた経験的研究であるが、それが心理学、教育学、看護学をも含めて広範な領域を見通す研究方法として再編されていくなかで、現象学的質的研究もその一つとして位置づけられていくことになる。現象学的な発想のもとで看護実践の質的研究がどのように可能になるかについては、雑誌『看護研究』における三つの特集号【197】【202】【203】( および『現代思想』の特集【204】を中心に、議論が繰り広げられている。この議論には、哲学者から臨床の看護師まで多岐にわたる立場からの参加があり、現象学とケアという領域の現時点での到達点を知ることができる。また、次代を担う看護学研究者が寄稿しており、近い将来まとまった書物としての出版が期待される。

 現時点で、参加者たちの出版した書物としては、次の三点をあげておく。看護学者のものとしては、西村ユミが社会学者との共同研究としてフィールドワークを行いながら書き上げた『看護師たちの現象学』【198】がある。哲学者のものとしては、西村の方法論に影響を受けながら、それを自らの哲学的問題として引き受けた、村上靖彦『摘便とお花見』【199】がある。また、現象学から影響を受けつつ社会学から派生したエスノメソドロジー『ワードマップ エスノメソドロジー』【182】参照)による前田泰樹『心の文法』【200】をあげておく。それぞれ比較してみると、対象と方法を切り離さずに問おうとする共通点と、だからこそ生じる差異を見て取ることができる。(前田泰樹)

3-6 人生(八重樫 徹)

206
D・ウィギンズ (大庭健、奥田太郎鑑訳) 2014
勁草書房
205 Th・ネーゲル(永井 均) コウモリであるとはどのようなことか? 1989 勁草書房
206 D・ウィギンズ (大庭健、奥田太郎鑑訳) ニーズ・価値・真理 2014 勁草書房
207 S. Wolf Meaning in Life and Why It Matters 2012 Princeton U. P.
208 Th. Metz Meaning in Life: An Analytic Study 2016 Oxford U. P.
209 青山拓央 幸福はなぜ哲学の問題になるのか 2016 太田出版
210 佐藤岳詩 R・M・ヘアの道徳哲学 2012 勁草書房
211 P. Hadot Philosophy as a Way of Life 1995 Wiley-Blackwell
212 納富信留 ソフィストとは誰か 2015 筑摩書房
213 吉川 孝 フッサールの倫理学 2011 知泉書館
214 池田 喬 ハイデガー 存在と行為:『存在と時間』の解釈と展開 2011 創文社
215* R・ノージック(坂本百大) 考えることを考える 下 1997 青土社
216* P・リクール(久米博) 時間と物語 I:物語と時間性の循環/歴史と物語 2004 新曜社
217* P・リクール(久米博) 時間と物語 II:フィクション物語における時間の統合形象化 2004 新曜社
218* P・リクール(久米博) 時間と物語 III:物語られる時間 2004 新曜社
219* A・マッキンタイア(篠崎 栄) 美徳なき時代 5940 みすず書房
220* H・アーレント(大島かおり) ラーエル・ファルンハーゲン 6480 みすず書房

 書店の或る棚(哲学・思想の棚ではない)の前に行くと、『~な人生の変え方』、『人生の9割は~』、さらにはそのものずばり『生き方』(!)といったタイトルの本を目にするだろう。どんな哲学書よりもよく売れるこうした本を、哲学の「専門家」は鼻で笑いがちだが、その一方で、生き方に迷ったときに哲学に手がかりを求める人はそれなりにいる。そうした需要に哲学者は応える必要がないのだろうか。応えるべきだと考える哲学者も実はそれなりにいるし、近年その数は増えているようだ。>>解説文を開く/閉じる

 哲学が「頭のいい専門家」たちによる高度なゲームといった様相をますます呈するようになってきた1970 年頃に、Th・ネーゲル『コウモリであるとはどのようなことか』【205】所収の「人生の無意味さ」など)やR・ノージック『考えることを考える』下巻【215】所収の「人生の意味」)が「人生の意味」といういかにも素人臭いテーマを論じたのは、皮肉を含んだパフォーマンスという意味合いもないわけではなかっただろう。ノージックによれば、有限な存在であるわれわれが生きることに意味を見出すためには、それを外部に求めざるをえない。しかし、意味を与えてくれるように見える当のもの(愛する人や仕事など)もまた有限であるかぎり、意味の探求は終わらない。終わるとすれば無限な存在に意味の源泉を求めるときだけだ。こうして、人生の意味の唯一の源泉は神だということになる。ネーゲルは人生の無意識さの問題が生じる原因を、人生から一歩引いて眺める視点に求める。そうした視点に立ってしまうことは人間にとって不可避である。それゆえ、人生の無意味さを感じることもまた不可避だということになる。しかし、それでも人間は真剣に自分の人生を生きることができるし、生きざるをえない。ネーゲルは無意味だとわかっている人生をそれでも大切に生きるアイロニカルな真剣さの態度を薦める。

 意味のある人生を生きることが価値のあることだとすれば、それはどのような価値なのかが問題になる。ある人が幸福であることや道徳的であることと、意味のある人生を生きていることは、どのような関係にあるのか。こうした問いを立てるとき、人生の意味は倫理学の問題になる。R・M・ヘア(ヘア自身の著作は邦訳も複数あるが、ここでは人生の意味に関する議論に一章を割いている良質なヘア研究書である佐藤岳詩『R・M・ヘアの道徳哲学』【210】を挙げておく)やD・ウィギンズ『ニーズ・価値・真理』【206】所収の「真理・発明・人生の意味」)は、倫理学の問題として人生の意味の問題を取り上げた。S・ウルフ『人生の意味、なぜ問題なのか』【207】はそもそも人生の意味がなぜ倫理学の問題になるのかをあらためて論じた。

 近年では、人生の意味は形而上学、倫理学、美学、心の哲学などの知見を動員して取り組まれるべき一つの大きな応用問題とみなされ、哲学業界の中に「『人生の意味』産業」とでもいうべきものが出現している。そうなるきっかけを作ったTh・メッツ『人生の意味:分析的研究』【208】は、人生の意味に関する可能な理論的選択肢を整理し、それぞれのメリットとデメリットを明らかにしたうえで自らの立場を選択し、可能な批判に対して擁護するという、お手本どおりのアカデミック哲学のスタイルで人生の意味を論じた。日本の分析哲学者が書いた最近の本として、青山拓央『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』【209】も挙げておきたい。本自体のテーマは「幸福」だが、人生の意味をめぐる何人かの哲学者の議論のコンパクトな紹介を含んでいる。

『ワードマップ 現代現象学』【000】第9章では、「人生の意味」や「生き方」について考えるときに、現象学の視点、つまり経験に寄り添う視点に立つことが有益だということを論じているが、「生き方」の問題への現象学的アプローチの成果と呼べるものはそれほど多くない。吉川 孝『フッサールの倫理学』【213】はフッサールの倫理思想の展開を追いながら生き方について現象学に何が言えるのかを問う本であり、八重樫徹『フッサールにおける価値と行為』【059】も一章を割いてフッサールの立場から人生の意味を論じている。ハイデガー『存在と時間』における幸福と死を論じた池田 喬『存在と行為』【214】の第4章も、生き方の問題を現象学的に扱ったものと言えるだろう。

 生きることがつねに一人称的な経験を生きることだとすれば、哲学者はすでに生きてしまっている(あるいは生きているつもりになっている)哲学者としての自分の人生から離れて生き方について考えることはできないだろう。いや、できるかもしれないが、少なくとも経験に寄り添う哲学者にはそれは許されない。では、哲学者として生きるとはどのようなことなのだろうか。あるいは、生きることにとって哲学することはどのような意味をもつのだろうか。こうした問いは古代から存在する。P・アド『生き方としての哲学』【211】は、古代哲学を生き方の探求という視点から解釈する画期的な本。後期フーコーにも影響を与えた。納富信留『ソフィストとは誰か?』【212】も同じく古代哲学研究者が、哲学者という生き方はソフィストから自らを区別するという仕方で構造的に確立されてきたという基本発想から、生き方としての哲学とはどのようなものであったか、どのようなものであるべきかを力強く論じた好著。いずれも現象学の伝統の内部で書かれた本では当然ないが、現象学の立場から生き方を考えようとするときに避けては通れない本である。

 「生きることにとって哲学することはどのような意味をもつのか」という問いは哲学者だけのものではなく、書店の「生き方本」コーナーに立ち止まる人々にとっても意味をもつ問いだろう。この問いを考える人にとって、ソクラテスやショーペンハウアーやブッダの思想と並んで、現代現象学も参照に足る一つの選択になればよいと思う。(八重樫 徹)

哲学とは生きることの修養、私の変容への訓練である
古代哲学の精神を現代に甦らせる、生きた言葉の誘惑
フーコーの師として知られるフランス哲学者の名論集
納富信留(哲学、東京大学教員)

「フッサールに倫理学なんてあるの?」と思った人もいるかもしれません。
あるんです。しかも、フッサールの全体像が変わるほど重要な話かもしれません。
入門書や概説書だけを読んでいてもなかなか見えてこない、フッサール研究の最前線。
2012年度日本倫理学会和辻賞(著作部門)受賞作。 植村玄輝(哲学、岡山大学教員)

哲学と伝記とを別物とみなすような哲学観は問い直されるべきかもしれない。アレントによる一人のユダヤ人女性の評伝は、愛、孤独、世界、人生などの現代哲学のトピックへの現象学的アプローチの最良の実践になっている。 吉川 孝(倫理学、高知県立大学教員)

3-7 現代現象学のライバル(葛谷 潤)

224
R・ミリカン(信原幸弘) 2007
勁草書房
221 F. Dretske Knowledge and the Flow of Information 1999 CSLI Pub.
222 F・ドレツキ(水本正晴) 行動を説明する 2005 勁草書房
223 F・ドレツキ(鈴木貴之) 心を自然化する 2007 勁草書房
224 R・ミリカン(信原幸弘) 意味と目的の世界 2007 勁草書房
225 戸田山和久 哲学入門 2014 筑摩書房
226 G. Evans The Varieties of Reference 1982 Oxford U. P.
227 G. Evans Collected Papers 1996 Oxford U. P.
228 Ch. Peacocke A Study of Concepts 1995 The MIT Press
229 G・ライル(坂本百大ほか) 心の概念 1987 みすず書房
230 W・セラーズ(浜野研三) 経験論と心の哲学 2006 岩波書店
231* M・ダメット(金子洋之) 思想と実在 2010 春秋社
232* M・ダメット
(藤田晋吾、中村正利)
真理と過去 2004 勁草書房

 「世界のあらゆるものは、広い意味での経験(志向性を持つ心的なもの)に即してその何たるかが理解される」という基本的前提は、現代現象学を現代の他の哲学的立場に対して非常に際立ったものにする。ただし、これが意味しているのは現代現象学の独壇場があるということではなく、周りは「ライバル」だらけだということだ。20世紀半ばより集中的に議論されてきたのは、「心は理解の準拠点にはなりえず、むしろ世界の中に適切に位置付けられて初めてそのなんたるかが理解される」という、全く逆方向の可能性だった。この見解は、厳しい批判的検討に耐え抜き様々な概念的道具立てと積極的な成果をもたらし続けているが、現代現象学にとってとりわけ重要なのは、今やそのような成果は「誤表象の可能性」や「意味理解の説明」といった、志向性を論じる上で重要となる種々の論点に及んでいるということだろう。>>解説文を開く/閉じる

 成立していないこと・存在していないものについても我々は思考しうるということ(いわゆる「誤表象の可能性」)は、しばしば志向性の分析において自然的な関係を度外視する動機の一部を成してきた。しかしF・ドレツキは、「情報」と「機能」という概念を用いて、誤表象の余地を残す自然的(と目される)表象概念を提案した。情報の「量」を主題とする従来の理論をベースに「内容」を取り扱う情報理論を構築した『知識と情報の流れ』【221】、さらに機能の概念を用いて表象概念を定式化した『行動を説明する』【222】、機能主義にとっての難問とされる意識などの問題にも切り込んだ『心を自然化する』【223】といった一連の著作におけるボトムアップ的な自然化の試みは、今なお大きな影響力を持つ。もちろん「機能」に訴える説明がそれ自身自然主義の名に値するかは大きな問題だ。これに関してはR・ミリカンの一連の仕事が重要だが、ここでは進化生物学を背景としてドレツキとも異なる独自の志向性理論を展開した『意味と目的の世界』【224】を日本語で読めるものとして紹介したい。これらの著作への足掛かりとしては、戸田山和久『哲学入門』【225】が良いだろう。これは関連分野の入門書であると同時に本格的な研究書でもあり、この分野への一つの見通しを与えてくれる。

 誤表象の可能性から志向性の自然化不可能性を導くことができるかは別として、意味理解や概念把握という観点から見れば、経験に即した分析というプロジェクトは非常に魅力的に響く。実際、真理を我々の認識に本質的に結びつける現象学は、『真理という謎』【045】に見られるようなM・ダメットの検証主義的意味理解と同様、この点に関してシンプルかつ魅力的な描像を提出する。さて、この点で競合する多くの見解のうち、ここではダメットからの影響を強く受けると同時にその強烈な批判者でもあったG・エヴァンズやCh・ピーコックといった「思考の哲学者」と言われる論者の仕事に注目したい。彼らのダメット的検証主義・反実在論への批判は、そのまま現象学的な意味理解に対して向けられたものとしても読むことができる。エヴァンズのダメット批判および実在論的オルタナティヴは『指示の諸相』【226】に展開されている。『論文集』【227】は言語哲学寄りの論文集だが、カント的主題に関わる第九論文、モリニュー問題について論じた第十三論文などは現象学に直接関わる論点を多く含む。この点に関してさらに踏み込みたければ、夭折したエヴァンズの思想の発展的展開と見なしうるピーコックの『概念の研究』【228】に進むのが良いだろう(ただし非常に難解)

 ここで、次のような問いが浮かんでくることは自然なことだ。そもそも、なぜ「心は世界に適切に位置付けられて初めてそのなんたるかが理解される」という考え方が多くの哲学者に魅力的に映るようになったのか? また、なぜ「世界は経験に即してその何たるかが理解される」という考え方は力を失っていったのか? これらの歴史的な問いに興味を持ったならば、まずはG・ライルの『心の概念』【229】を勧めたい。彼自身の行動主義的見解は今や全面的には受け入れ難いものとされているにせよ、「心についての正しい理解は、身体を持ち世界の中で他のものと交渉する主体を考えて初めて得られる」という方向性に強い説得力を与えた古典として、今なお読むに値する。また、とりわけ後者の問いに関しては、W・セラーズの『経験論と心の哲学』【230】も併せて読みたい。経験についての我々の語りに関する彼の批判的検討は、その後「経験」の哲学的意義を考察する際に多くの論者に参照・検討され、現在も依然として大きな影響力を持ち続けている。現代現象学が「現代」を名乗る上でまず示すべきは、それが「ライル・セラーズ以前」ではない、ということかもしれない。(葛谷 潤)

この本を選ぶなんて、フェアの主催者の慧眼に恐れ入る。
シャノンの情報理論を換骨奪胎して、情報内容の理論を構築し、情報の流れの或る特殊な切り口として、知識や信念を世界に位置づける。
いかにもショボそうにみえる仕掛け (条件付き確率)でどこまでも強引に突き進み、心とものを一枚の「情報の流れとしての世界像」の中に見事収める手練はさながら重戦車の如し! 戸田山和久(哲学、名古屋大学教員)

身体をもって世界に投錨する「生」のあり方から、いかにして表象、意味、信念、欲求、目的が生成してくるかを一貫したシナリオとして描き出す。 …と紹介するとあたかも現象学の本のようだが、著者は現象学を気にする様子はない。
現象学を使わなくても、現象学の最もスリリングな課題をもっと平明かつ明晰になしとげることができることを示している傑作。 戸田山和久(哲学、名古屋大学教員)

選書者紹介

酒井泰斗(さかい たいと)

会社員。ルーマン・フォーラム管理人(socio-logic.jp)。
社会科学の前史としての道徳哲学・道徳科学の歴史を関心の中心に置きつつ、このブックガイドの趣旨通りに現象学を利用しながら日々書棚を散策しています。ここ10年ほどは、自分が読みたい本を ひとさまに書いていただく簡単なお仕事などもしています。 >>業績

村田憲郎(むらた のりお)

東海大学教授。一橋大学社会学研究科博士課程修了。博士(社会学)。
フッサールの時間論を研究してきましたが、最近はブレンターノも読み始めました。事象的には個体性、心的出来事などをめぐる議論に関心があります。 >>業績

小手川 正二郎(こてがわ しょうじろう)

國學院大學文学部哲学科准教授。慶應義塾大学大学院文学研究科修了。
専門は現象学・フランス哲学。現在の関心は、フェミニスト現象学、家族の現象学、責任の現象学。 >>業績

植村玄輝(うえむら げんき)

岡山大学大学院社会文化科学研究科講師。慶應義塾大学大学院文学研究科後期博士課程満期退学。博士(哲学)。
専門は初期現象学、とりわけフッサールの超越論的観念論と現象学における実在論・観念論問題、現象学派の社会哲学。最近は現象学の方法論に特に関心があります。 >>業績

八重樫 徹(やえがし とおる)

東京大学大学総合教育研究センター特任研究員。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。
専門は初期現象学,現代倫理学,感情の哲学。 >>業績

吉川 孝(よしかわ たかし)

高知県立大学文化学部准教授。慶應義塾大学大学院文学研究科後期博士課程満期退学。博士(哲学)。>>業績

富山 豊(とみやま ゆたか)

東京大学大学院人文社会系研究科助教、慶應義塾大学非常勤講師、横浜女子短期大学非常勤講師。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。専門はフッサール現象学。 >>業績

森 功次(もり のりひで)

東京大学教務補佐員/山形大学学術研究員。慶應義塾大学、桜美林大学、文星芸術大学非常勤講師。博士(文学)。>>業績

佐藤 駿(さとう しゅん)

東北大学大学院文学研究科助教。2012年東北大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。>>業績

武内 大(たけうち だい)

自治医科大学医学部総合教育部門教授。東洋大学大学院文学研究科博士課程満期退学。博士(文学)。 >>業績

宮原克典(みやはら かつのり)

日本学術振興会海外特別研究員/ハーバード大学哲学研究員/東京大学学術研究員。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。
認知科学と現象学の双方向的な融合(現象学をとりこんだ認知科学、認知科学をとりこんだ現象学)の可能性を追究しています。 >>業績

新川拓哉(にいかわ たくや)

日本学術振興会特別研究員(千葉大学、PD)/藤女子大学非常勤講師。北海道大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。
形而上学、現象学、認知科学を結びつけて意識についての包括的理論を構築することに関心があります。 >>業績

池田 喬(いけだ たかし)

明治大学文学部准教授。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。 現在の主な関心は、現象学から出発する倫理学・政治哲学を21世紀のコンテクストで(あらためて)立ち上げること。 >>業績

前田泰樹(まえだ ひろき)

一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(社会学)。社会学専攻。東海大学教授。>>業績

葛谷 潤(くずや じゅん)

日本学術振興会特別研究員(PD)。2016年東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。>>業績
  • 「『論理学研究』における意味の独立性・非独立性について」(『現象学年報』29, 2013)

ブックフェア概要

>>新宿本店店舗案内
紀伊國屋書店 新宿本店

会場

紀伊國屋書店 新宿本店 三階 F26棚(人文・社会ジャンル付近)
  • 営業時間:10:00~21:00
  • 税込5,000円以上の購入で配送料無料。
    税込5,000円未満の場合は362円(税抜)。

会期

2017年8月14日(月)から一ヶ月間程度

お問合せ

新曜社03-3264-4973 (代表)

会場写真、ポスター、リンク

会場写真

祭りの会場はこちら。写真を取るときには店員さんにひと声かけて。ほかのお客さんが写り込まないようにしましょう。

ポスター

自由に印刷してお使いください。差し支えなければ、ポスター掲示状況の写真を掲示した場所に関する情報を添えて までお送りください(義務ではありません)。この場所に掲載させていただきます。

各種学会・研究会のWEBサイトやメーリングリストなど

告知にご協力いただいた学会・研究会。

ブログ

フェアをご紹介いただいたブログ。

書籍

ブックレット:誤植修正

   
はじめに
解説 本書『ワードマップ』では、 本書『ワードマップ』では、
解説 などを紹介していただきました。 などを紹介していただきました。
1-1a 現代現象学の源流1
013* Husserl's Postion in the School of Brentano Husserl's Position in the School of Brentano
1-2  現代現象学──経験の哲学
038 Plural Action: Essays in Philosophy and Socia Science Plural Action: Essays in Philosophy and Social Science
2-2 善
解説文の指示番号がずれている。
  • 52→54
  • 53→55
  • 54→56
  • 55→57
  • 56→58
  • 57→59
  • 58→60
  • 59→61
  • 60→62
解説文、書籍リスト双方において指示番号がずれている。
  • 八重樫:057→059
  • 小手川:170→172
  • 吉川:211→213
  • 池田:212→214
  • レイチェルズ:060→062
  • ベナー:189→191
  • ドレイファス:192→194
解説 J・レイチェルズ J・レイチェルズとS・レイチェルズ
2-3 美
解説 佐々木 佐々木健一
2-4 世界
93 意識・存在・真理:フッサール『論理学研究』を読む 真理・存在・意識:フッサール『論理学研究』を読む
2-5 魂
解説 他方で行為や責任の主体となり価値を 把握する 他方で行為や責任の主体となり価値を実現する
113 『知覚と判断の境界 『知覚と判断の境界線
3-4 法と社会
177 ノモス主権論への法哲学 ノモス主権への法哲学
3-6 人生
214 存在と行為 ハイデガー 存在と行為:『存在と時間』の解釈と展開
3-7 現代現象学のライバル
225 『哲学入門』2014、勁草書房 『哲学入門』2014、筑摩書房