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ルーマンの68年

馬場 靖雄

3:ルーマンの〈68年〉

 「別の主体」の可能性のためのヒントを、〈68年〉に関するルーマンの発言のうちに求めてみよう。とはいってもルーマンがこの問題に触れているのはごくわずかのエッセイにおいてにすぎない。しかし「紛争」当時から70年代前半ごろに書かれたものと、80年代後半において〈68年〉を回顧した(非公式の)エッセイの間には、明らかな論調の差異が認められる。例えば1975年に書かれた論文“Wabuwabu in der Universität”(Luhmann 1992, 30-48)では全体のトーンはどちらかというと冷笑的である。学生たちが疎外を克服するためにうち立てようとした(バリケードのなかでの?)直接的コミュニケーションなるものは、実際には不在の者を呪うことによって連帯を確かめようとする呪文(ブードゥー教のWabuwabu)として機能したにすぎない、というように。

 一方ビートルズの引用(5)で始まる88年のテクスト“1968 -- und was nun?”(Luhmann 1992, 147-156)では、やや肯定的なトーンが聞き取れる。なるほどそこでも〈68年〉そのものへの評価は依然として否定的である。ダーレンドルフと同様にあの運動で問題となったのは主として「請求権」であるということを認めつつ、それが結局は全体社会に対する旧来の把握に基づいているがゆえにもはや有効性をもたないということを指摘しているのである。「68年の運動にとってはして全体社会の問題は、19世紀と同様に、主要にはやはり分配の問題、正義の問題、虐げられた者の問題、参加の問題だった」(Luhmann 1992, 151)。しかし同時に68年の運動は結果として、現代社会の取り消しようのない特質を明らかにすることに貢献しもした。その特質とはすなわち、社会全体を見通すことができるような統一的視点、あたかも自分が社会の外に立ってその欠点を指摘し、それを是正する方途を提案できるかのような語り口を許す「アルキメデスの支点」の消失という事態である。もはや何人も「俺とモンキーだけは別だがね」と呟くことはできない、というわけだ。

理論的記述のレベルでは、結局のところ次のことを学ばねばならない。全体社会の外側には立脚点など存在しない。また道徳的な事柄に関しては、罪なき立場など存在しない。そこから全体社会を《批判的に》記述し、非難の声をあげうるというわけにはいかないのである。(Luhmann 1992, 153)

 ルーマンのこの指摘は一見すると、統一的な世界観や価値が複数の協約不可能な諸言語ゲームへと、あるいは統一的な自我がアモルフな欲望の束へと、解体してしまったという〈68年の思想〉と同一の事態を指し示しているように思われる。もはやあらゆる出来事に対して説明を与え、「なにをなすべきか」を指し示してくれるような包括的世界観(大きな物語)など存在しない。いかなる言語ゲームも、世界全体を外から見渡すのではなく、他の言語ゲームと同等な資格において争わねばならない、云々。

 しかしこの解釈の前提となる〈68年の思想〉においては、二重の意味で一般的なもの/個別的なもののハイアラーキー構造が維持されている。第一に、少なくとも個々の言語ゲームの内部においては、一般的な「ゲームのルール」が個別的な発話を統御しているという意味で。第二に、ひとつの特別な言語ゲーム、すなわち「学」のそれが、見通しえないということを見通せるという点で、その他の言語ゲームの上に立つ、あるいはそれらを包括するものとして想定されているという意味においてである。

 この意味での〈68年の思想〉はいわゆる「神々の争い」と同義であるが、それは〈68年〉どころか、そもそも近代社会を特徴づけるものですらない。ルーマンがしばしば指摘しているように、この種の「争い」は16世紀の宗教戦争においてすでに全面的に意識されていたのである(Luhmann 1977, 14=1990, 8)。〈68年〉において生じたのは、というよりもそもそもウェーバーが問題にした「神々の争い」とは、それとはまったく異なる事態であった。〈68年〉の余韻のなかでなされた、折原浩による『職業としての学問』読解(初出1972年)は、この点を明確に指摘している。

〔ウェーバーの「神々の闘争」は通常、複数の互いに相容れない世界観の衝突であると解釈されている。しかし〕ここで「神々」Gotterといわれているものは、アフロディテやアポロンの例からもあきらかなように、かれの宗教社会学でいう「職能神」Funktionsgotterであり、芸術の神、学問の神、農耕の神、戦争の神というように、それぞれの価値=生活秩序の守護神のことなのです。したがってそれによって「比喩的に」表現されているものは、「世界観」ではなく、実在的な価値=生活秩序にほかなりません。「神々の争い」といっても、現世の内部の実在的な争いなのです。/ こう解釈することによってはじめて、「実践的な立場を学問的に主張することは……原理的にいって無意味である」というウェーバーの命題を理解することができます。つまり、このような歴史的なパースペクティヴのなかでみれば、学問は、互いに争い合う生活秩序のうちのひとつ──すなわち生活という同一平面上で葛藤し合っている価値秩序のひとつ──であって、なにかそれらの上位にあって、その葛藤を調停する権能をあたえられたものではない、そう信じたがるのは、このひとつの価値秩序に閉じこめられたアカデミシャンの主知主義的偏見である──から、そういうことをあえてやってみても無意味である、というわけです。(折原 1977,34)

 われわれはこの事態を次のように解釈しておこう。近代社会において生じたのは、そして〈68年〉において決定的に露わになったのは、確かに統一的かつ普遍的な審級の解体である。ただしその解体は水平的に、すなわち複数の「世界観」への分裂として生じたのではなく、普遍的な審級は「現世の内部の実在的な争い」としてのみ、すなわち実際に、経験的に、物質的に発話されることを通してのみ効力をもつのが露わになるというかたちで生じたのだった、と。いくら学の名のもとで、内容において普遍的な(普遍性を主張する)発話を行ってみても、それは常に「生活という同一平面上」に──ただし、複数の領域へと分割された平面上に──係留されており、この係留されているという事実において(発話の内容によってではなく)、他の生活秩序と、ルーマン流に言えば他の機能領域と、争わざるをえないのである(6)

 おそらく〈68年〉に特有の「批判」のスタイル、例えばエロティックな誘惑によるアドルノ哲学の「批判」、物理的暴力による丸山政治学の「批判」(7)等はこの事態に由来するものであろう。そして馬場 2001, v-viで指摘しておいたように、ルーマンの社会理論はある意味で、この種の「批判」を容認するように思われる。その点ではルーマンもまた、〈68年〉の思想家の一人なのである。

 以上の点からしてすでに、フェリー=ルノーの〈68年〉への批判は無効であることが明らかになる。彼らは、普遍的な次元を解体し尽くすことなど決してできない、現実の社会生活のなかで諸個人が個別的な欲望を実現するためには、常に普遍的次元を召還し、それに依拠しなければならないのだから云々と主張する。しかし問題は、その普遍的次元の召還も、召還された普遍的次元の効力も、現実の情況のなかでの発話へと係留されることなしには、そして特定の機能システムへの言及をもつことなしには、効力を発揮しえないということなのである。自然法による実定法の根拠づけは、法システムにとっての根拠づけでしかない。しかし逆に法システムのための根拠づけとしては、自然法は効力をもつ、というように。したがって、「〈実定性の領域/それを超えるもの〉との区別がなければ、法は意味をなさない」云々というフェリー=ルノーの批判は、少なくともルーマンには妥当しない。実定法/自然法の区別が消滅することはない。この区別の線は常に引かれている。ただしそれはあくまで法システムの内部に係留された、現実的な作動としてなのである(8)。したがって問題は、〈普遍/個別〉という区別の一項を他方へと解消することでも、あるいは両者を弁証法的に統合することでもない。この区別そのものに、実定性が無媒介的に貼り合わされているということなのである。此岸と彼岸の区別自体が、此岸のうちにしか存在しえない(これは「彼岸など存在しない」ということと同義ではない──精確に言えば、こう述べることと「彼岸など存在しない」と述べることとは、機能上完全に等価なのではない)。スペンサー=ブラウン流に表現すれば、ここでは再参入(re-entry)が生じている。すなわち区別が、区別されたものの内部において再登場してきているのである。この再参入と、区別を区別なきもののうちへと解消すること(「すべては……である」)とは、厳格に区別(!)されねばならない。

 あるいはルーマンの場合、普遍的なものに対する個別的なものは、二重の相において登場してきているとも言える。一方でフェリー=ルノーが考えているような、普遍的な自然法に対立する個別的な実定法がある。しかしこの自然法/実定法の区別自体が(そしてそれに基づく、「普遍的人権」等に関するあらゆる議論も)、合法/不法という法システム特有のコードを現実に適用するための「プログラム」にすぎない。そして法的プログラムの前提となる合法/不法のコードは、全体社会のなかで諸機能システムそれぞれによって用いられている多様な二分コード(真/非真、内在/超越、支払い/不支払い……)のひとつでしかない。各コードを前提とするプログラムの内部において、普遍/個別の問題が、それぞれ異なる相において登場してくる。この諸相のひとつにすぎないという意味で、あらゆる普遍性は個別的なのである(9)

 このように、ルーマンが考える〈68年〉の核心としての「アルキメデスの支点の消失」とは、統一的・普遍的な審級の消失ではなく、それが係留されていること=特定のシステム言及をもつことを取り消しえないという意味に他ならないのである。「普遍的な次元の効力が発話に依拠している」というのはこの事態の別の表現なのであって、発話こそが根底的な「現実」だということではない。



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