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しかしおそらくはまたフーコーやドゥルーズに関しても。フーコーが明らかにしようとしているのは、この区別が、したがって自然法も、また他方で「自然法など存在しない、実定法のみを考えればよい」との言明も同様に、コミュニケーションの特定の(実定的な)布置のもとでのみ効力をもつこと、「なにかを問題や権力と見る観察のリアリティは一定の作動上の効果をもちつつも、特定のコミュニケーションの作動域に限定される」(園田 2001, 172)ことだからである。