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ルーマンの68年

馬場 靖雄

4:「文化左翼」批判とその陥穽

 しかし話はここでは終わらない。統一的で普遍的なものを発話の個別性・現実性へと差し戻すというこの論点もまた、今日ではほとんど常識と化しているからだ。例えば 上野 2001, 298-300は、主体を構造の規定性に従属させる「主体をめぐる超越論的な存在論」を打破するために、「構造による決定と非決定とが言説実践の過程でせめぎあう、生きられた場」としての「エイジェンシー」に定位することを提案する。この「言説実践がもたらすカテゴリーの物質性」によって、「構築主義がただの言説至上主義でない」ことが明らかになるだろう、というわけだ(10)。この意味での構築主義こそ、社会学における〈68年の思想〉の、今日における正統な後継者であるように見える。

 だとすればこう問われねばならないはずである。この議論は、フェリー=ルノーの論難を免れえているのだろうか、と。報告者の見るところ、答は否である。というのはこの議論は依然として、ひとつのハイアラーキー構造の内部を動いているからだ。主体という中間項を上方へ(普遍的なものへ)包摂する代わりに、下方へと、すなわち複数の力が交錯する実践的な闘争の場へと差し戻してやるべきだ、と。そこではこのハイアラーキ自体が個別的である(複数のうちのひとつである)という観点が欠落しているために、容易に普遍的なものの逆襲を許してしまう。むしろ複数の力それぞれが自己を貫徹するためには、普遍的なものの助力が必要なのだ、と。あるいはこの議論は未だ表層/深層図式に囚われているのではないか。統一的な主体という(あるいは、それを可能にする普遍的構造という)表層=仮象を、今まで隠されていた実践的な闘争の場という深層=本質へと差し戻すべきである、というようにである。もちろんここではこの「深層」は、固定的で統一的なな本質をもたないということによって特徴づけられる。しかしその「……でない」というネガティブな規定自体がポジティブなメルクマールに(そして、異なるものを排除する理由に)転化してしまいかねないという、いわゆる「否定神学」をめぐる問題が生じてくるということについては、改めて述べるまでもないだろう(馬場 2001cを参照)。

 構築主義が孕んでいるこの否定神学的な危うさは、皮肉なことに、おそらく構築主義を「文化左翼」と呼んで批判するであろう、リチャード・ローティーのプラグマティズムのうちで体現されている(以下の議論は、北田 2001に依拠している)。

 ローティーが「文化左翼」と呼んで批判するのは、例えば主体の、あるいは国民国家の同一性を脱構築することによって(つまり、学的言説を発することによって)、現実を変革し抑圧を減少させるために何らかの貢献をなしうると考えている論者たちである。脱構築自体が誤っているというわけではもちろんない。むしろ問題は、同一性の脱構築と現実問題の解決とが、いかに間接的であれ何らかの必然的なルートによって結びつけられていると考えるところにある。ルーマン流に言えば、学的な言明と政治の問題とが、異なるシステムに属する(それぞれにおいて異なる〈個別/普遍〉〈理論/現実〉等の問題構制が成立している)ものとしてではなく、単一のハイアラーキーを形成するものとして把握されていることである。同一性は他者性を暴力的に抑圧することによってのみ成立する、この点が隠蔽されていることからさまざまな差別と抑圧が生じてくる、それゆえにこの同一性の背後に潜む暴力を暴露することによって事態を変革しうるだろう、というようにである。

左翼の理論家たちは、政治的主体(agents)を差異を含む主観性の戯れへと解体することが、あるいは政治的イニシャチブをラカンの言う欲望の不可能な対象の追及へと解体することが、既存の秩序を転覆するために役立つと考えている。この理論家たちに言わせれば、そのような転覆は、「慣れ親しんだ概念を問題化すること」によって成し遂げられるのだそうだ。(Roty 1998, 93=2000, 99-100、訳文は報告者による。)

 しかし実際にはその種の理論的言説と現実問題とは、必然的な回路によってではなく異なるシステムどうしの偶然の接触によって関係しているにすぎない(馬場 2001a, 154-155ではこの関係を、「媒介不可能な衝突」と呼んでおいた)。むろん両者はまったくの無関係であり、理論的脱構築が既存の秩序の転覆に繋がることは絶対にありえない云々と断言することはできない。そのように断言する人は理論と現実とを、やはり必然的な(ネガティブなかたちの、だが)回路で繋いでしまうことになるだろう。関係がないと断言することもまた、関係確定の一様式なのだから。いずれにせよ理論的脱構築作業は、それはそれで(学システムの内部においては)意味をもつわけだが、いかなる意味でも「転覆」の代替物にはならない。政治的な問題はそれ自体の論理に即して扱われるべきである(11)。北田暁大の率直な言い回しを借用すれば、

‥‥目の前にホームレスがいたら、ホームレスのアイデンティティを聞いてみせたり、その語りを理解することの不可能性を云々するのではなく、とにかくそのホームレスを救ってやれ、と。(大澤/北田 2001, 55)

 ローティーのこの指摘は完全に正しいし、またそれが〈68年〉がもたらした経験の一部でもあったはずだ。丸山政治学の理論体系がいかに精緻かつ深淵であろうと、拳による「批判」は可能である、と。現在ではカルチュラル・スタディーズの敵役として、ほとんど「保守反動」呼ばわりされているローティーだが、彼もまた〈68年〉の申し子の一人なのである。

 したがって上野流構築主義は、ローティーのこの「文化左翼」批判を柳に風と受け流すこともできるはずだ。いやむしろ、我が意を得たりと頷くことすら可能かもしれない。そのとおり、だからこそわれわれ(上野流構築主義者)は、言説至上主義の閉域を打破して、複数の力がせめぎ合う「生きられた場」へと至ることを主張したのだ、と。しかし私見では、構築主義者はこの戦略を採用すべきではない。というのは一見すると閉域を打破して開かれた地平へと続くように見えるローティーのプラグマティズムも、それ自体また救いがたい閉域へと通じる隘路だからである。

 なるほど理論上の脱構築が現実とは必然的な関係を持たない、人権を擁護するためには根拠づけは必ずしも必要ではないというのはそのとおりである。しかし実際にはローティーはそれ以上のことを主張しているのではないか。つまり理論と政治は「本来」切断されているべきであり、なおかつ理論的作業よりも現実政治的実践のほうが優先されるべきである、と(北田 2001, 58の言う「規約C」)。注(11)で触れた人権の問題に関しては、明らかにローティーは根拠づけよりも共感への訴えかけのほうが有効であり重要であると主張している。これはすなわち、アイデンティティの確保あるいはその脱構築という問題自体が仮象であり、現実の政治的作動こそが本質であると主張しているということである−−もちろんローティー自身は、そのようなターミノロギーを徹底的に拒否するだろうが。

かくして理論と政治とは、異なるレベルに、しかし何らかの基準によって比較したり使い分けたりできるかたちで、要するに同一のハイアラーキーの内部に、配置されることになる。

 「脱構築してる暇があったら食わせてやれ」という言い方は、ローティーとわれわれがともに所属している学システムに対する〈68年〉的な批判としては有効である。しかし〈86年〉を通り過ぎて〈89年〉以降の、〈壁〉が崩壊した後の世界に住んでいるわれわれが経験しているのは、逆の事態もまた現実であるということではないだろうか。つまりアイデンティティ・ポリティクスの論理が、「食うこと」の必要性を凌駕しつつ自己を貫徹するという事態も、世界のそこかしこで生じているのである。むしろ「食うこと」の論理によって一元的に世界を覆い尽くそうとするグローバル資本主義の浸透が、アイデンティティ・ポリティクスへの固執を生じさせていると言うべきかもしれない(12)。したがって、理論は哲学者にとってのみ意味をもつのであって、「現実」はそれとは別様に動いていくという主張もまた、現実とは必ずしも触れあわない、ひとつの「理論」にすぎない(13)。それは「理論なき理論」、「思想なき思想」なのである。かくして哲学という閉じられた地平を打破して「現実」へと降り立とうとするローティー流のプラグマティズムもまた、閉じられた地平を形成することが明らかになる。再び北田 2001, 69の表現をパラフレーズしつつ借用すれば、その閉じられた地平とは「哲学に対するパックス・アメリカーナの勝利」(デリダに対するビル・ゲイツの勝利?)という「アメリカの夢」に他ならない。

 そして上野流構築主義も、同様の隘路へと足を踏み入れているように見える。この構築主義において想定されている「生きられた場」は、われわれを常に挫折させる、そしてそれを通してわれわれが前進することを可能にしてくれる「ザラザラした大地」ではなく、「言説至上主義に対する社会学の勝利」という「社会学の夢」のゆりかごとなってしまっているのである。である以上それはやがて、フェリー=ルノーが〈68年の思想〉に対して行ったのと同様のバックラッシュに見舞われるはずである──それが(ソーカル流の?)「素朴実在論」の逆襲として生じるのか、それとも(ハーバーマス流の?)普遍的規範の召還として生じるのかはわからないが。


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