開催の経緯と趣旨 | 研究会概要 | 募集対象 | 参加申込 | 登壇者プロフィール | 参考文献 |
現象学者 植村玄輝・八重樫徹 両氏が執筆を進めている、法哲学者 尾高朝雄の国家論・社会団体論をテーマとする論文の構想検討会を公開で行います。すでに両氏は、最近刊行された A. Salice & H. B. Schmid 編の論文集『社会的現実への現象学的接近:歴史・概念・問題』に、
※参加者を15名程度募集します。
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植村玄輝・八重樫徹
既稿(The Actuality of States and Other Social Groups. Tomoo Otaka’s Transcendental Project?)要旨
本稿の目的は、フッサールの元で学んだ日本の法哲学者・尾高朝雄の社会的現実についての理論を解説し評価することであった。尾高の現象学的社会哲学の最も興味深い点は、彼が自らをフッサールの超越論的現象学の継承者とみなしていたという事実にある。この点が彼を、社会について論じた初期現象学者たちの中でもユニークな存在にしている。というのも、彼らの多くは実在論的な立場から社会の存在論にアプローチし、超越論的現象学から離反しているからである。それゆえ、本稿は次の問いに導かれる。社会的現実にかんする尾高の議論は、どのように、またどの程度、フッサールの超越論的現象学のプロジェクトに統合されうるのだろうか。尾高が主に1930年代に発表したドイツ語と日本語の著作を紐解きながら、われわれは彼がフッサールの構成分析のアイディアをどのように受け入れ、また現実に存在する国家やその他の社会団体に適用しようとしたのかを明らかにした。だが、彼の現象学的社会哲学には特有のジレンマが潜んでいる。彼は、国家のような社会団体の「意味」をわれわれが超感性的な仕方で直観できると主張するが、この考えは困難に直面する。しかし、このアイディアを捨て去ってしまうと、彼の構成分析はフッサール流のそれではなくなってしまうように思われる。尾高がおそらくはっきりとは自覚していなかったこのジレンマを指摘した上で、われわれは代替案を提示し、フッサール的な構成分析の枠組みの中で現実の国家を扱える可能性を示した。
新稿の目的
尾高・宮沢論争を現象学的国家論の観点から再検討する。フッサールの超越論的現象学を背景とした尾高の国家論にとって、ノモス主権論がいかなる(政治的ではなく)哲学的な意義をもっていたのかを明らかにする。
課題
このプロジェクトが直面する最初の問題は、ノモス主権論を現象学的な観点から論じることに文献上の直接的な根拠がないというものである。関連する尾高のテクストにはフッサールはおろか現象学に関する話題がまったく登場しない。しかし尾高は、戦前の著作から1956年の急死によって未完に終わった「現象学派の法哲学」(1960年刊)に至るまで、フッサール現象学に言及する際には、一貫して肯定的な評価をそれに加えている。そのため、ノモス主権論の哲学的な背景の一部にフッサール現象学があったことは、少なくとも作業仮説として想定することができる。するとまずもって課題となるのは、ノモス主権論を、現象学への依拠がより明らかな尾高の戦前の国家論および実定法論の延長線上に適切に位置づける作業である。
ここで特に注意を払うべきは、戦前の尾高の著作では、国家や法の現実性ないし実在性(ドイツ語ではWirklichkeit)が論じられる文脈においてフッサール現象学がとりわけ重要視されていたという点だろう。フッサールのこうした援用がノモス主権論とはたして関連するのかということは、少なくとも一見する限りは疑わしいかもしれない。というのも尾高は、宮沢との論争を通じて、ノモス主権論を(事実ではなく)当為・理念としての主権の所在に関する立場として定式化するに至ったからである。しかしこうした疑念は、尾高が当為ないし理念を「意味(Sinn)」の一種と捉え、そうした意味の形成に関してもフッサール(およびライナッハ)から着想を得ていたことを踏まえれば解消することができる。また、戦後の尾高が当為としての主権を、それに事実としての裏付けをいかにして与えるかという問題と一組にして論じていたということも、ここで着目すべきだろう。
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