近年のルーマンの理論展開のなかでは、オートポイエーシス(・レベルにおける作動)/観察という区別がひときわ重要なものとなっているように思われる。両者の関係は、一般には次のように理解されている(というよりも、筆者はかつてそのように理解していた)。社会システムにおいてはコミュニケーションが作動に相当する。コミュニケーションは常に個人の意図や予想範囲を超えて、無限に錯綜したネットワークを形成する。そのようなネットワークそれ自体を同定することは不可能である。それゆえに、何らかの区別(二分図式)を導入することによって対象を同定しなければならない。システムが同様の手続きによって自身を観察しつつ、自己のアイデンティティを確定しようとするのが「自己観察」である。ただしそうやって同定された対象は、常に何らかのかたちで単純化(「複雑性の縮減」)を被っており、それゆえに「空虚」と「過剰」を孕んでいる。この空虚ないし過剰は、区別が自分自身の上に折り返されるときに生じるパラドックスというかたちで顕現する(合法/不法という区別自体は合法か不法か、etc.)。システム理論は、システム/環境という区別(両者の複雑性の格差)を用いて、自己観察が隠蔽しているこのパラドックスを暴露するのである、云々。
この解釈からすれば、オートポイエーシスこそが社会を成立せしめる複雑多様な「基盤」であり、観察はあくまでそれを縮減したものにすぎない、ということになる。われわれは常に、観察によって得られる単純な同一性がもつ自己完結性の外観を打破して、複雑で捉えがたいオートポイエーシスへと立ち戻るべきである、と。この議論は「ゲーデル的脱構築」に、あるいはコーネル流の(広い意味での)「否定神学」に対応する。オートポイエーシス(=縮減される以前の無規定な複雑性)を、自己観察=同一性を脱構築する根拠としての、純粋な空無として想定していることになるからだ。法システムにおいてはそれが、偶発性定式たる正義のシンボルとして登場してくるのである、と。
繰り返すことになるが、このような議論がそれ自体として間違っているとか、ルーマン解釈として成り立たないとか言うつもりはない。ルーマン理論のなかには確かにこのような側面が存在しているように思われる。だがそこから引き出される結論は、例の紋切り型にしかならないのではないか。すなわちこうである。観察=同一性を、より複雑な──そして、現代社会においてはますます複雑になりつつある──現実(オートポイエーシス)に対応できるよう、より開かれた柔軟なものへと改造していくべきである、と。そしてこの立場からすれば、ルーマンは過度に機能システムの閉鎖性を強調しているように思われるだろう。ルーマンによれば法システムは合法/不法の図式(に基づく自己観察)だけによって導かれ、再生産されていくということになる。しかし実際には、法システムは、より多様な要素に関わる開かれた存在として把握されるべきである 。「高度情報化社会においては……法的コミュニケーションのコードもまた、非固定化・流動化せざるをえまい。換言すれば、法/不法のコードは従来よりも一段と、法規への包摂から〔種々の非法的観点をも視野に収めた〕利益衡量へと重点を移さざるをえないであろう」(村上[1996:151]、〔 〕内引用者)。
この種の発想が陥りかねない隘路については、もはや繰り返し述べるまでもあるまい。だがルーマン理論には、まだ別の可能性が残されているはずである。
第二の解釈はこうである。オートポイエーシス自体は、直接には観察できない(Luhmann [1984:226])。したがって、それに依拠するわけにはいかないのである。自己観察という表層から、どれほど深層へ下降していったとしても、そこに見いだされるのは観察を「可能にする」基盤などではなく、別種の観察のみである。例えば、アメリカにおける、同性愛者の軍隊への受入れの問題に関して、ルーマンはこう述べている。仮に社会や個人が、同性愛者を軍隊に受け入れることを認めたとしても、身体が同性愛者との出会いを(例えば、シャワールームでの出会いを)どう観察するかという問題は、残ったままである(ibid. [1995a:11])22。メルロ=ポンティに依拠する一部の論者などは、しばしば身体を、言説という表層を可能し規定する錯綜した深層ないし根底として想定する。しかしルーマンにとっては、身体レベルで生じることも、例えば一定の反応が生じる/生じないという図式を用いた作動であるという意味において、観察なのである。そしてさまざまな観察のあいだの関係は、厳密に水平的である(Luhmann/Fuchs[1989:217f.])。表層から深層へと下降しても、そこにおいて見いだされるのは最初と同じ表層レベルなのである。
したがってまた逆に観察を、錯綜する諸作動を、いわば上から規制するための図式であるかのように考えてはならない。観察は同時に、システムの内部で生じる作動でもあり、したがってそれ自身(was sie ist )ではありえない(ibid. [1990:60])。すなわち観察は、事実的に生じる作動を一段上のレベルからコントロールする理念などではなく、それ自身が作動として事実レベルで固有の効果を産出するのである(ibid.[1986:49])。観察よりも複雑な、観察には回収されえないオートポイエーシスとは、この「固有の効果」の累積というかたちでのみ、登場してくるのである。
この解釈によればオートポイエーシスとは、最初に「在る」基盤のごときものではなく、むしろ異質な観察が相互に衝突する(共通の枠組みなしに、相互に観察しあう)ことによって「事後的に」成立するものなのである。「…… 区別と観察の可能性が複数存在しているがゆえに、われわれは作動と観察とを概念上区別しなければならなくなる」(ibid.[1993:51])。複数の観察を前提とせずに、作動=オートポイエーシス・レベルそのものについて語ることはできないのである23。この事態は、複数の伝達経路によって配達された相異なる手紙の相乗効果によって、名「アリストテレス」の空虚と過剰性が構成されることにちょうど対応しているのである。この解釈にとっては、システムの閉鎖性は不可欠である。複数のシステムが存在するとしても、それらが相互に「開かれて」おり、共通の基盤なり枠組みを想定しうるのであれば、そこに成立するのは同一性であって、過剰でも空虚でもないからだ。
あるいはここで再び東[1994]に導かれつつデリダに依拠して、次のように言うこともできるだろう。オートポイエーシスに関するこの二つの解釈は、オートポイエーシスを多義性(polysemie)と考えるか、それとも散種(dissemination)と見なすかの違いである、と。例えば、ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の一節《he war》を取り上げてみよう。この「文章」はそれ自体としては理解不能である。われわれは、それが理解不能であるのは、多義性が含まれているからだと考えることもできる。例えばそれは英語であると同時にドイツ語でもあり、またwar は「戦争」をも意味している。ジョイスがなぜこのように単語を連結したのかを知るためには、伝記上の知識や、当時の時代背景、あるいはダブリン固有の事情等を知らねばならない……というように、多義性は無限の遡行を可能にし、また要求する。ただしその遡行はあくまで、文学研究という同一的な枠組みの内部で、すでに存在している(していた)事態の「解明」というかたちでなされるのであって、それゆえに多義性は、たとえその内包が無限であるとしても、原理的にコントロール可能である。「……多義性とは、エクリチュール以前にエクリチュール抜きで存在するものとして、実体的に理解された多様性を指示している。
多義性の思考においては、多様性は実在する。エクリチュールはそれを隠しているに過ぎない。
この場合、多義性とはかつて(時間的かつ論理的な)過去にあったものであり、また未来に(分析によって)回復=暴露されるはずのものである」([ibid.:164f.])。
一方散種とは、同一の意味に(多種多様な意味の集合としての同一性も含む)回収不可能な、異質のエクリチュールの出会いによって生じる、理解不能性という効果そのものである。この場合、例えば war を発音しようとしてはならない。英語流であれドイツ語流であれ(あるいは、その両方であれ)発音された瞬間に、その背後にある、回復=暴露されるべき意味(の集合体)が想定されることになるからだ。したがって「……エクリチュール以前に散種的多様性はない。言い換えよう。最初に散種の舞台(エクリチュールの戯れ)があり、それが形而上学的に転倒されて(いわば物象化されて)何らかの「概念」になる、というのではないのだ。むしろ散種的多様性は、エクリチュール《he war》の力によって遡行的に生み出される」([ibid.:164 ])24。
第二の解釈を採用するわれわれの立場からすれば、オートポイエティック・システム理論の課題は、観察(セカンド・オーダーの観察、観察の観察)によって、自己観察の空虚と過剰を、あるいはその背後にある多義性を暴くことにあるのではない。システム理論に基づくものであれそうでないものであれ、あらゆる観察自体が、散種的多様性を構成する現実的なモメントなのである。観察を脱構築するには及ばない。観察自体が脱構築なのである。精確に言えば、観察を観察すること、すなわち観察に別の観察をぶつけることが、である。この「観察に別の観察をぶつけること」、すなわちある観察において用いられている区別そのものを(区別の一方の項──例えば、不法ではなく合法──のみを、ではなく)受け入れるか拒絶するか、受け入れるとしたらどのような前提のもとでのことなのかを選択する作動を、ルーマンはゴットハルト・ギュンターの多値論理学に由来する用語を借用して、「超言的」(transjunktional)作動と呼んでいる。「言語を用いる観察者を観察することは、確かに脱構築的である。というのは、このレベルにおいては、超言的な作動を投入しうるからだ。つまり、観察されている観察者の観察を制御している区別を、拒絶したり受け入れたりできるのである。かくして、セカンド・オーダーの観察のレベルでは、すべてのものが(セカンド・オーダーの観察そのものを含めて)偶発的になるのである」(Luhmann[1995a:18])。
したがってわれわれは、あくまで個別的に、そのつど誰(どの観察者)が、どんな区別を用いて観察しているのかと、問いつづけねばならない。形式体系の矛盾を突く、というかたちで一挙に同一性一般の「背後」に回り込もうとしてはならないのである25。
にもかかわらずデリダは、ルーマンも指摘しているように、「誰が観察しているのか」というこの問いに、次のように答える傾向がある──誰でもない、そして誰でもある。むしろ問題は「である」(ist)のうちに存している、と([ibid.:23])26。これこそが、同一性一般を一回限りの手続きによって「脱構築」しようとする、否定神学に典型的な語り口というものではないだろうか。