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法のオートポイエーシスと正義

馬場靖雄

(1) 原書は報告者が参照した独語版を挙げておく。これはA. G. Duttmannによって翻訳されたものであるが、デリダ自身によってオーソライズされたテキストでもある。


 

(2) ちなみに東[1998:92-94]は『法の力』全体を、過度にゲーデル的脱構築に傾斜したものとして批判している。「この講演のデリダは、『正義』の具体的な様態について語ることを放棄し、その逆説性を強調するだけとなる。私たちはこういった言明を評価すべきではない」(東[1998:93])。しかし私見では、少なくとも『法の力』第二部はそれとは異なる読み方を許すように思われる(馬場[1996]を参照)。


(3) 森元孝は、逗子の米軍住宅反対運動において、この「多様性の名による不寛容」が生じていたことを示している。当初は特定の職業・立場に拘らない、多様な参加者を含む運動であることを示していたはずの「生活第一主義」というネガティブな性格規定が、いつのまにか「主婦の運動」というポジティブな規定性へと変化し、専門職に就いている女性などを排除するために使われるようになってしまった、と。

〔運動〕の主体が、「主婦」へと純化されていった…。ここにやはりこの社会運動の限界があった。つまり、「主婦」の運動ということへの自己規定は、まさしく個人の生活主義の強化であり、運動がそれまで備えていた群体的な特徴を失わせたからである。…この自己規定は、個人の生活第一主義と社会運動との結びつきを限りなく狭めていった。自己規定は、自己でないものの排除を意味している。「主婦」への運動の自己規定は、個々人の生き方を大事にするという点で合意して集まった、きわめて多様な人たちに、個人の生活第一主義の「標準型」を示してしまうことになったのである。/個人の生活を第一にというのも、それ自体、多様なはずである。そしてその多様さが保障されているがゆえに、「主婦」以外の人々も、この運動に参加しえたのである。そしてその多様さが、実は、個人の生活第一主義を前提にしながらも、社会運動の展開の可能性を許していたのである。「標準化」は、この可能性を閉ざしていったのである。(森[1996:327-328])




(4) 小畑[1991]はこの区別を用いて法現象を分析しようと試みている。例えば違憲判決はコンスタティブには判決そのものであるが、同時に憲法解釈というより高次の領域に対して影響を及ぼすというパフォーマティブな側面においても捉えられねばならない、というように。ハイアラーキーを前提とする用語法が用いられていることからも明らかなように、ここでは両次元は特定の(したがって、同定されうる)関係を取り結んでいるものと想定されている。ということは、両次元+関係からなる「法的自己組織性」の全体像が解明されるべき対象として前提とされていることになる。


 

(5) 機能分化したシステムは、ある概念を自己の前提ないし追及されるべき課題として設定することによって、無規定な偶発性ないし複雑性を、規定可能な偶発性・複雑性へと変換する。そうすることによってシステムは、一般的な「世界」ではなく、システム固有の環境と対面しうるようになる。そのような概念が「偶発性定式」と呼ばれる。あるいは偶発性定式とは、それなしにはシステムは規定された問題に出会えないがゆえに、「システム特有の問答無用さUnbestreitbarkeitを主張しうる」(Luhmann[1997:470])概念だといってもいい。Krause[1999:140]では、「重要な偶発性定式」として、正義以外にも以下のものが列挙されている。経済システムにとっての希少性、政治システムにとっての政治的自由、教育システムにとっての学習能力、宗教システムにとっての神、学システムにとっての制限性(ある命題を否定することが、まったくの無をもたらすのではなく、真理への接近のために役立ちうること)、道徳にとっての個人の自由。




(6) 東[1998]の言う「デリダ的脱構築」は、ルーマンの「脱構築としてのセカンド・オーダーの観察」と、かなりの部分重なっているように思われる。馬場[1996]を参照。本報告では、ルーマンの議論と東の否定神学批判の平行性を確認しておくだけで十分であろう。


 

(7) 現代社会における「法の失敗」を描写したルーマンの論述を引いておこう。

 全体社会と法という社会的コンテクストにおいて近代的条件が整った場合、種々の緊張関係が生じてくることになる。しかしその緊張に関しては、これまでのところほとんど分析されておらず、それどころか問題として把握すらされていないのである。おそらくもっとも重要な問題は、個人による自己決定への要求が、常に増大し続けていくということにあるだろう。そこではもはや、古典的でリベラルな形式付与手段は、役立たなくなっているように思われるのである。なるほど個々の法律に従うことはできるが、あらゆる法律に従うことはできない。この点がますます明らかになりつつある。生活ということが、個人の自己決定に従って生きるということを意味すべきであるとすれば、法律違反は生活必需品だということになる。ただしそこで問題なのは、法の不知が不可避であるという古典的問題だけではない。脱税や闇労働といった領域の存在こそ、法律に抵触せずにはやっていけないということの証なのである。誰にとってもそうだとはいえないが(すべての人が働いたり税金を払ったりしなければならないというわけではないということだけからしても、明らかである)、きわめて多くの人は抵触せざるをえないのである。経済において法が貫徹されるとしたら、経済の重要な領域は軒並み崩壊してしまうことになる。官僚制が、その法貫徹プログラムでやっていこうとすれば、個人が自分に意味付与するという可能性の多くが奪われてしまうということを、特に強調しておこう。闇労働なしでは、家主は入居者に対する義務を果たしえない。密輸がなければ、イタリアの沿岸部の都市で、数万の失業者が生じるだろう。《票の買収》がなければ、タイの地方部やスラムでは、選挙に参加する者はほとんどいなくなるだろう。周知のように労働組合にとっては、法を遵守することがストライキのプログラムとして働く。そしていくつかの組織においては、法律違反こそが唯一の意味ある労働行動であることも多いのである。刑罰をより効果的なものにしようと試みれば、刑務所の管理者を窮地に立たせることになる。警察も、またセラピーに関わる多くの専門職も、法を厳格に遵守すれば自己の活動が非常に制限されることになるという問題の前に、立たされているのである。場合によっては、法を遵守していることをもって、怠慢の言い訳にするということもあるだろうが。《恩赦権》を行使するのも、実際には国家元首ではなく警察なのである。法において重要な作動はあまりにも緩やかに、もはや静止状態と区別できないようなかたちで進行するものである。また、次の点も特に強調しておきたい。全体社会に関わるゼマンティークにおいては、個人主義が高く評価されている(解放、自己実現、その他諸々)。しかし、徹底して法に従うことが予期されている場合には、それらを保持することはできなくなるのである。さらに加えて、法の遵守からは、個人にとって破壊的な副次結果が生じてくるということについても、語っておかねばならない。法を順守したことにから落胆が生じて、強い動機をもって活動していた領域から降りてしまうことになりかねないという点を、特に挙げておこう。(Luhmann[1993:568-569])

 精確にはわれわれはこれを、「法の失敗」と呼ぶべきではないだろう。むしろそれは法システムが、他の多くの機能システムと並ぶ、自己言及的に閉じられたシステムのひとつとして自己を貫徹していることの証なのである。それが、他のシステムによる棄却の前提となるからである。


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