「否定的なもの」に対する二つの態度のこの分岐が、法−正義−(全体)社会(Gesellschaft)をめぐる問題圏においても登場してきているように思われる。中野[1993 :『近代法システムと批判』、弘文堂] はルーマンの正義に関する議論を、次のように批判している。ルーマンの正義概念は二重の性格を持っており、晩年の彼の理論展開のなかで、その矛盾はいっそう顕在化するに至っている。ルーマンが正義とは法システムの適合的な複雑性であるというとき、法システムと全体社会との関係が含意されているはずである。正義とは法システムが、複雑性と流動性をますます増大させつつある全体社会に適合しうるだけの複雑性を備えていることを意味している、と。ところが晩年のルーマンは、法システムの自己言及的閉鎖性(オートポイエーシス)を過度に強調することによって、法と全体社会とのこのつながりを自ら断ち切ってしまう。法システムは法的作動のみによって再生産されるのであり、法の外にある要因によってこの再生産過程に介入することはできない、というようにである。その結果、「いったんは法システムと社会との関係づけというレベルに位置づけられるようになった『適合的複雑性としての正義』が、‥‥法システム内の問題に回収されることになった」。これは明らかに、正義の射程を切り縮めてしまっており、理論的後退ではないか。
この批判においては全体社会は、否定神学的な「と」によって結合される、否定的項目として想定されている。全体社会は法的観点のみによっては捉えられないほど複雑であるが、だからこそ常に法を(正義の観点を通して)全体社会へと差し戻していく必要があるのだ、と。 ルーマンが晩年の一連の著作のタイトルを「法と社会」(Recht und Gesellschaft)ではなく、「社会の法」(Das Recht der Gesellschaft)というかたちにしたのは、否定性において同定されるべき全体社会というこの発想を回避したかったからではないだろうか。精確に言えばそこでは全体社会は、否定性においてのみでなくもうひとつ別の様相においても、したがって二つの「全体社会」概念として、登場してくるのである。
第一に、中野敏男の批判が想定しているような全体社会像をルーマン理論において発見することも確かに可能である。Luhamnn [1993:214-238:Das Recht der Gesellschaft, Suhrkamp] では正義が法システムの「偶発性定式」(Kontingenzformel)として扱われている5。そこでは規定された法システム/その外側にある無規定な領域としての全体社会という構図が前提とされている。後者における複雑な諸要因を、法システムが扱いうる問題へと変換するのが正義の機能である、というわけだ。したがって正義は、デリダ的脱構築が想定しているように、一定の状態へと固着しがちな法システムに多様性と変化を導入する機能を担うのである。例えば「等しきものは等しく」という、古典的定式化を取り上げてみてもよい。
‥‥等しい/等しくないという区別は、したがって、正義にかなう事例解決の問題は、新しい、時代にかなった機能を獲得することになる。‥‥いわば、「等しい/等しくない」の図式によって、一定の理由から(例えば、法的安定性という理由によって)反復に傾きがちなシステムに、分岐が導き入れられるのである。‥‥すでに過去となったものによってもたらされた具体的な事案に直面した場合には、〔何らかの〕装置によって古い事例の力を逸らさなければならない。オープンな決定状況を新たに作りだせるように、である。そのつど新たに下されねばならない決定に関する、「等しい/等しくない」という観点に基づく比較こそが、この機能を担うように思われる。一般には、立法者や契約締結者の意図を吟味してみるというやり方が、用いられている。それによって、法の起草者の《意思》(といっても、再構成されたものでしかないのだが)に関する解釈が、当人の意図に沿ったものであるか(つまり、その意図に《等しい》か)否かが、吟味されうるというわけだ。だが、これは可能な探索針のうちのひとつでしかない。回顧的に、あるいは未来を先取りするかたちで、決定を比較してみるというやり方を追加することもできるはずである。それによって、変動のなかで一貫性を保持することが、また決定を以後に来る観察にさらすことが、可能になるのである。(Luhmann [1993:237])
しかしこのようにして想定された複雑で無規定な全体社会、正義という窓口を通して法に変化と「他の可能性」を供給する「多様性のプール」としての全体社会の外側に、いわばもう一つの全体社会が存在する。というのは、「法と社会」というかたちで想定された全体社会は、法の内部から眺められた(合法/不法のコードを通して観察された)ものに他ならないからだ。それはちょうど、利益法学において想定されている「利益」を、他者言及の対象として(法の外部にあるものとして)想定してはならないのと同様である。概念法学が法の内部にのみ目を向けているのに対して、利益法学は法の外部をも視野に収めようとしている、というわけではない。後者において問題となっているのはあくまで、適法的な利益と不適法な利益の区別だからである(Luhmann [1997:755 :Die Gesellschaft der Gesellschaft, Suhrkamp])。
法システムに限らず、機能分化したあらゆるシステムは、自己の前提となる二分図式を前提として全体社会へとアプローチする。特定のシステムから出発する以外には、全体社会へアプローチする道は存在しない。したがって、法システムにとっての全体社会と、経済システムにとっての(支払い/不支払いの図式を通して観察された)全体社会は相貌を異にしており、共通点をもたないのである。両者を同じ土俵の上で媒介することはできない。法と経済の関係も、法システムから眺められた場合と経済システムから眺められた場合では相貌を異にするからである。法システムによる全体社会の記述は、経済システムによって「多様性のプール」として扱われるのではなく、単に拒絶される。すなわち、別の区別に基づいて観察・記述され、相対化されるのである。ルーマンはこの事態を、ゴットハルト・ギュンターの多値論理学の用語を用いて指し示している。法システムの作動は経済システムの作動(における正/負の値である支払い/不支払い)にとって、第三の値=棄却値(Rejektionswert)として現れてくる(およびその逆)、と。棄却値は、当該の二分図式に対する(連言でも選言でもない)「超言」(Transjunktion)を形成する、といった言い方もなされている。第二の全体社会はこの棄却値ないし超言において登場してくる。すなわち法の立場から想定された「法と社会」が、異質な作動に出会い、棄却され、自己の普遍性を貫徹するのに失敗することにおいて、である。
この二つの全体社会の違いは、例えば「法によるリスクの扱い」と「法固有のリスク」の差異として現れてくる。環境問題に典型的に見られるようなリスクの問題をどう扱うかは、今日の法に突きつけられているホットなテーマの一つであると言っていいだろう。
リスクに関する問題が浮上してくるのは、リスクを孕んだある行動に対して、法がそれは適法であるとか違法であるという判定を下す場合であることが多い。また現在までに、この問題から多くの分野における法の変更が生じてきたし、今後も生じてくるだろうということも確かである。だがこの問題がすべてだというわけではない。むしろ、リスクのコントロールの可能性についても責任を(場合によっては、賠償責任をも)問うことが、ますます重要になってきているのである。そうすることによって、決定者によく見られる《コントロールの幻想》を予防しなければならない、と。しかしさらに、はるかに広範囲に及ぶ問題が存在している。それはすなわち、法は自身に固有のリスクを受け入れることができるのかどうか、できるとしたらいかにしてか、というものである。この問いは、法システムの分出に、作動上の閉じと機能的特殊性に、直接関連する。(Luhmann [1993:560])
法が、現代社会において新たに浮上したリスクの問題に対処すべく、自己をより柔軟で多様性へ開かれたものへと改鋳しようと努めたとしても、あるいはまさにそのことが、他のシステムから見れば法そのものが孕むリスクとして現れてくる。というのは合法/不法に基づく法の作動は、他のシステムにとっては棄却値でしかないのだから。このことは法システムおよび他の諸システムが分出し、作動上閉じられたオートポイエティック・システムとなっていることからの、必然的な帰結なのである。
そしてルーマンが「脱構築」と呼んでいるのは、決定不能性を開示し決定されたものと関係づける「ゲーデル的」なそれではなく、あるシステムの作動を別のシステムの作動によって棄却させる作業のことなのである。 言語を用いる観察者を観察することは、確かに脱構築的である。というのはこのレベルにおいては、超言的な作動を投入しうるからだ。つまり、観察されている観察者の観察を制御している区別を、棄却したり受け入れたりできるのである。かくしてセカンド・オーダーの観察のレベルでは、すべてのものが偶発的になる。セカンド・オーダーの観察そのものを含めて、である。(Luhmann [1995:18 :Dekonstruktion als Beobachtung zweiter Ordnung, in: de Berg, H. / Prangel, M. (Hrsg.) Differenzen, A.Francke])6
われわれは中野敏男とともに、正義は法システムと全体社会との狭間に位置する概念であるということを認めてもよい。ただしそれは第一の全体社会においてではない。すなわち、正義が全体社会の多様性・複雑性・流動性を法へと取り込む窓口となるからではない。正義が全体社会と関わるのは、法内部において投企された法/社会関係の構想である正義が、他のシステムによって棄却されて失敗することを通してである。かくして正義は、全体社会の複雑性を、自己のうちに取り込むのではなく、身をもって実現するのである。
法は正義の名の下に、全体社会との関係を反省し、コントロールしようとする。そして、それは失敗する。これは機能分化した全体社会という構造的条件の帰結であって、正義の内容を改善することによって対処できる欠陥などではないのである。失敗=他のシステムによる棄却をいくら反省してみても、そのこと自体が「法固有のリスク」として、やはり棄却の対象となる。法システムは、自己の失敗に追いつきえない7。ちょうど、個々の局面において特定のイデオロギーに対するAIEについて語ることはできるが、AIE一般には到達できないのと同様に、である。
正義の機能は、現代社会の複雑性を自らのうちで代表=表出する(represent)ことにではなく、失敗を通して複雑性を実現することにある。しかしだとしたら、正義は困難な課題の前に立たされていることになる。正義は失敗する。しかし、それを目指してはならない。失敗をめざしてしまえば、「失敗こそが正義の本質である」という否定神学へと再び陥ってしまうことになるだろう。したがって、失敗はあくまで結果として生じるべき事柄なのであって、正義の側ではむしろ自己をポジティブに呈示しなければならないのである。「等しいものは‥‥」という古典的なかたちにおいてであれ、あるいはロールズ版のように最高度に洗練されたかたちであれ。その点からすれば確かに東の言うように、正義をそのパラドキシカルな性格において無限遠点へと遠ざけようとする『法の力』の議論は、退けられるべきなのかもしれない。それは、正義の内容を極限まで剥奪することによって、あらゆる失敗を回避しようとしているからである。
正義は失敗しなければならない。しかしそれを知ってはならない。かくしてわれわれは、正義に関するあの原初的なイコンへと回帰する。正義の女神は目隠しをしているのである。